《自来也と大蛇丸》・・・いわゆる「因縁の二人」でもありますが、
この二人に限ってはスッキリと終ってないんですよねぇ。
ナルトとサスケ、柱間とマダラ、カカシとオビト・・彼らは色々あったけど、最後には“昔みたいに”戻ることが出来たってのに・・自来也と大蛇丸はそうはいかなかった。
大蛇丸はずっと・・・何度も自来也の手を振り払い、里を捨て師を捨て、同志であった友まで切り捨ててきましたもんね。 「見解の相違ね」と袂を分かち、あの「三竦みの闘い」以降 二人は結局、会うこともなく・・
別々の道を歩んだ二人は、それぞれ「ナルトの師、サスケの師」となったわけですが、やはりそこは「水と油」の二人・・・その指導法も全く違っていたんですよね。
自来也は基本かなりの放任主義だし、大蛇丸は「私色に染める」という超干渉主義。・・・うん、全然違う。
例えば自来也のナルトへの「指導法」を見てみるとーーーー
「口寄せの術」を教えた時も、まず術を披露して「基本」だけ教えて、あとは放置。「どうやって会得するか」は教えてない。 そして・・ナルトに《ほったらかしかい!》と突っ込まれている。
「螺旋丸」を教える時も「基本」だけ教えて、あとは完全放置。 自来也は情報収集へと向かった(というかおねえちゃんのところに行ったというか); ナルトはこの時も「ちっとは師匠と弟子の心のキャッチボールはねーのかよォ!」と突っ込んでいる。
でも自来也は《ナルト・・一人でやるしかなんだよ‥この修行は・・お前なら四代目に近付ける 自分でつかめ》と心の中で呟いていたんですね。自来也は「自分で答えを考えて出す」ように仕向けていたのです。 それこそ「成長のコツ」だと思っていたからなんですね。
もちろん、放置とは言っても肝心なポイントは見逃さず、ナルトが疲れて倒れた時は助け、頑張ったご褒美にはアイスをごちそうしてやる。 愛情の肥やしを与え、あとは
「自分で考えさせる」・・・それが「自来也流・成長の秘訣」だった。
「成長」ということについて、自来也は長門にこう答えていたことがあります。
「成長するって・・つまりどういうこと?」
「どうするか・・自分で考えることだ」
(373話より)
これは第二次忍界大戦の時、雨隠れの里に残って長門たちの世話をしていた頃のことですから、自来也はずっと昔からそう考えていたんですね。 自来也は、変わらなかった・・
長門たちにも「生きていくために必要な忍術」の基本を教え、自立できるよう生活の基盤を整えてやったあと、木ノ葉へと帰っています。 余計な干渉はしていないんですよね。
実はこの時、大蛇丸は長門たちを見て「ころす・・?この子たち」って言ってたんです; どうせ生きてても不幸になるだけだから「ここで私たちがいっそ」という事らしいんですよね。 子供の人生を「きっと不幸だろう」と決めつけちゃう・・それが大蛇丸の発想なんですね。
サスケに対しても呪印を与えて強引に導き「自分色に染めようと」した・・・何でも自分が決めて、自分が手を出しちゃう。 身勝手でもあり、ようするに「超干渉主義」なんですよね。 子供に自分で判断したり考えさせることなく、全部大蛇丸が誘導して「成長」させるという考え方だったのです。
子供の「成長」に関しても、まったく違う発想だった自来也と大蛇丸・・・この二人の道は交わることが無いように見えた・・のですが、ある時 大蛇丸にとって青天の霹靂ともいえる出来事が起こるのです。
そのキッカケは、サスケのこの発言だった・・
「全てを知り自分で考え 答えを出し 己の意志と眼で成すべきことを見据えたい」
(593話より)
サスケが「自分で考え答えを出したい」と言い出したことに、大蛇丸は衝撃を受け、“不思議な感覚”に陥り、「成長とはそういうことだ」と初めて気づくのです。
奇しくも、それは自来也が考えていた「成長」そのもの・・・
愛情を与えて「自分でどうするか考えて答えを出す」ように見守れば、子供は成長していく。 散々遠回りした結果、大蛇丸も「自来也と同じ考え」にたどり着いたのです。
こうして・・二人の道は、思いがけない邂逅を果たす。
その後の大蛇丸が人が変わったように「サスケの意志を尊重して手伝い、綱手や五影たちの命を救い、忍連合と共に戦った」のはご存知の通りです。
しかし・・《成長とは、自分で考えて答えを出すもの》という点では一致した自来也と大蛇丸ですが、それでも その後の「成長の見守り方」は全然違っていたんですよね。 そこはやっぱり「全部同じ」ってわけじゃあなかった。
自来也は、先ほど述べた通り「放任」して見守る式だったけど、大蛇丸はやたらと「愛」を語って、あれこれ御膳立てして「自分で考えて答えを出すように」導いちゃってる(外伝「満ちた月が照らす道」での、ミツキに対する「成長させ方」がそうだった)。 演技したり、失敗すれば「やり直し」させるという・・ちょっと不自然なものだった。 結局、大蛇丸は「干渉しないけど干渉してる」んですよね; そこはもう「性格の違いによるもの」とでも言いましょうか・・やっぱり「完全一致」なんて無いんですね。
何はともあれ、最終的には「自来也と大蛇丸」は同じ場所に立ったわけですが、残念ながら その時にはもう自来也は居なかった・・・自来也が生きている間には間に合わなかったのです。
「大蛇丸・・・お前がもっと早くそうなってくれたなら 自来也も死なずに・・」と綱手は言ったけど、大蛇丸はそれを後悔するふうではなく、清々しい表情で「物事はそう都合よくはいかないものよ」なんて言っていた。
大蛇丸は、昔から「同志ではいられない」と考えていたんですよね。 それでも「三忍のひとり」であることには最後までこだわっていた。 たとえ考え方、歩き方は違っても「三忍」というつながりだけは捨てられずにいた・・・
「第七班」というつながりを捨てきれないまま、ナルトと違う道を歩いて「自分の風」を起こそうとしていたサスケを・・・「自分」に重ねていた大蛇丸は《だからこそサスケくんの行く末を見てみたいのかもね》と考えていました。
それは、見ることが出来なかった「自来也と自分の行く末」をサスケとナルトに重ねて見てみたかった・・というのもあったのかもしれません。
もちろん、それは・・・ナルトがサスケにそうであったように、自来也が「大蛇丸」を諦めることなく手を差し伸べてくれたからこそ・・・
自来也は「あいつのことを何も分かってやれんかったのかもしれん」と呟いていたけれど、いやいや・・「分かってやりたい」と思ってくれたこと、その気持ちだけで十分有難いですよ。 里を裏切った友のことを、ずっと「分かりたい」と願ってくれたその気持ちだけで・・・十分じゃないですか。
大蛇丸も、自来也の気持ちを知っていたからこそ・・「三忍」というつながりを持ち続け、最終的に戻ってくることが出来たのかもしれません。 綱手を助けた時、大蛇丸は「綱手 少しは私に感謝なさい」なんて言っていたけれど、大蛇丸こそ・・「大蛇丸 少しは自来也に感謝なさい」・・だってばよ。
自来也は、どんな想いで「今」の大蛇丸を見ているんでしょうね・・?
ミツキに対する「過干渉な愛情の示し方」に半ば呆れながら、「相変わらずじゃのォ」と微笑んでいるのではないかな・・。
☆長駄文、読んでくださって感謝。
☆大蛇丸と「同志」「三忍」という言葉についての雑考↓↓
☆大蛇丸が「成長を見守る」愛に目覚めた経緯の雑考↓↓
(ナルト好きブログ! 2019/09/05)