さて前回、ダンゾウと大蛇丸が《本当に凄いと認める忍》って誰なんだろう・・という話をしましたが、この二人が「本音の本音」で投票するなら、この忍に投票するんじゃないだろうか・・・「うちはイタチ」に。
ダンゾウにとって《自分を無くし完璧な自己犠牲を貫く忍》が理想の忍でしたが、イタチこそ その理想に一番近かったのではないかな・・
ダンゾウがイタチを語ると《イタチの“月読”とは天地の差だな》とか《あいつは“そんな男ではない”と思っていた》とか《こいつはお前の唯一の失敗》と言葉の端々にイタチへのリスペクトが溢れてる。 そして、それは大蛇丸も同じだったんじゃないかと思ってまして・・
まだ大蛇丸が“暁”に居た頃、イタチの幻術にはめられてしまい こんな事を言っている・・
《まさかこの私が・・金縛りの幻術に‥》
《何という瞳力・・素晴らしい・・》
《まさかこの私が》と言っちゃうところは いかにもオロちゃんなのですが、《素晴らしい・・》の言葉には何とも言えぬ「恍惚感」と言いますか・・全てに圧倒されちゃってる感があるんですよね。
もちろん、シンプルに《イタチの能力の高さ》に圧倒されてもいるのですが、それ以上に「お前はオレより弱い」と言い放つイタチの《毅然とした姿》に打ちのめされたんじゃないだろうか。 デイダラがイタチの幻術にはめられた時もそうでしたが(“暁”にスカウトされた時)、術レベルの高さ以上にその毅然とした姿に打ち負かされたと言いますか・・ 心の中の揺れや迷いをまったく見せない 隙のないその姿に他の忍は圧倒されてしまうような気がする。
どんな過酷な任務にも、迷いを見せず完璧にこなした(と思われていた)イタチ。 その凛とした姿は、たとえチート能力を付け加えた大蛇丸であっても 到底真似できない・・ 圧倒的な《忍としての差》を見せつけられたんじゃなかろうか。
そして、このあと大蛇丸は 木ノ葉崩しの時に「己の弱腰っぷり」を実感させられちゃうことになるのです。
・大蛇丸の「弱腰」
大蛇丸といえば 一応前半の代表的な「敵役」ですよね。 残虐で身勝手、執拗でおどろおどろしくて…それでも完璧な悪、敵役には なりきれていなかった。
そもそもNARUTOの敵役ってのは 戦闘能力的にはめちゃくちゃ強いのに、心はめちゃくちゃ弱くて 普通に悩んで迷っていたりするけれど、大蛇丸もご多分に漏れずで 迷いまくりの揺れまくりだった。 木ノ葉崩しでも、ここぞという場面で師匠・三代目の前でブレまくります。
師匠の三代目には「それほどに嬉しいか・・それとも・・師であるワシをころすのに・・多少の悲しみを感じる心を持ち合わせておるのか?」と突っ込まれてましたね。
大蛇丸は「眠くてあくびをしただけ」と返していたけれど、それが子供っぽい言い訳なのはバレバレだった。
そして、あの時の「涙と震え」が本当の涙と動揺であったことは、65巻での大蛇丸の言葉で確定します。
木ノ葉に戻ったサスケが、電柱の上に立って里を見渡す姿を見て・・
「私が木ノ葉崩しをやる前と同じね・・・」
「たとえ彼や里が変わってしまったとしても ここは彼の故郷に変わりない
感傷に浸り過去をなぞることで 己の決意を再確認する時間が必要なのよ」
と言っていた。 そうか、大蛇丸も こんな事をやってたんですね。
感傷に浸っていたとはね・・ 非情に見えた大蛇丸であっても、それなりの「決意」が必要だったらしい。
しかし、いざという肝心なクライマックスのタイミングで・・師匠の前で震えたり涙を流したりと まさかの大失態。
あの一件は大蛇丸にとって黒歴史であり、一生に一度級の大恥さらしだったと思われます。 「電柱の上での覚悟」までしたのにこのザマ・・・まさに「弱腰」としか言いようがない。
(38巻、イタチとの闘いを前にしたサスケに対して「まだまだ甘い」「非情にならなければイタチには勝てないわよ」なんて言ってたけど、あれは「あの失態」を思い出して言ってたんだろうなぁ・・)
でも、その師匠三代目も かつて大蛇丸を「見逃しちゃった」過去があります。
・三代目の「弱腰」
まだ大蛇丸が里にいた頃ですが、大蛇丸の悪事を暴き「愛弟子を始末する覚悟」を決めて突入した三代目は、いざ大蛇丸に《ころすんですか?この私を・・出来ますかねェ アナタに・・》と言われてしまい、結局大蛇丸を見逃してしまった。
三代目にとって大蛇丸は特に目をかけた愛弟子で、相当かわいがっていたんでしょうねぇ・・・《悪意と野望を秘めた瞳・・ そういう素養があったのは・・気付いておった・・気付いていて知らぬふりをしてきた・・ まさしく数十年に一人の逸材だったから・・ 自分の意志と力を受け継いでくれる存在・・そう思いたかった》なんて言ってましたから。
《いざとなれば里の為に動く男》とダンゾウに評された三代目も、唯一「愛弟子をあやめること」だけは出来なかったんですね。 おかげで大蛇丸は命拾いしたんだけど、心の中では師匠を嗤っていたんじゃないのかな・・三代目もしょせん「弱腰」だと。 火影のくせに非情にもなれない、忍としての覚悟が足りないわね…なんてね。
しかし、一度は弟子を見逃しちゃった三代目も 木ノ葉崩しでは《貴様を葬り かつての過ちを 今 正そう!!》と毅然と大蛇丸に立ち向かったわけでして・・これでもう大蛇丸は、三代目のことを[「弱腰」なんて言えなくなった。というか完全に大蛇丸の負け。 かつて蔑んでいた師匠の《弱腰》は、特大ブーメランとなって大蛇丸に戻ってきた。 大蛇丸は、三代目以上の《弱腰》だった・・
木ノ葉崩しのあと、大蛇丸は「おのれ猿飛め」とか「クソジジイ」とか もう散々恨み節だったんですよね。 あれは 腕を封印されたとか 木ノ葉崩しの失敗という現実以上に《師匠にみっともない中途半端な弱腰姿を見られちゃった》ことが「最大の屈辱」であり、悔しいやら恥ずかしいやらで、イライラ当たっていたような気もいたします。 自分自身への苛立ちの八つ当たり…というのかな。
・そして・・「弱腰」どうしの再会の時
さて、木ノ葉崩しでは師弟対決という悲しい結末を迎えた三代目と大蛇丸の師弟でしたが、この二人も終盤の戦争編では「束の間の再会の時間」を得ることになります。
で・・この時、大蛇丸の考え方は既に大きく変わっていた。
まず65巻、サスケの依頼で歴代火影を穢土転した大蛇丸は、三代目に何故サスケの手伝いをしているのかと尋ねられ、「私を真似したカブトも失敗した」「今はサスケ君の違う生き方に興味があるだけ」と簡潔に答えています。 ようするに「自分の失敗を認め、自分とは違う道に進む次世代の未来を見守りたい」という事でしょうが、ちょっと分かりにくい・・・ ま、それでも三代目には何となく「変化」は伝わっていたような気はします。
さらに67巻、遅れて戦場に着いた大蛇丸は三代目と こう交わしています。
「ずいぶん弱腰ですね・・」
「アナタらしくない・・猿飛先生」
「大蛇丸・・遅かったではないか! で・・五影は?」
「回復してあげたから・・ 弱腰じゃなければここへ来るでしょうね」
「フン・・皮肉を言うのは変わらんな」
・・短い会話中に《弱腰》2連発。 よほど《弱腰》って言葉を使いたかったんですね。
まずは「(私の腕を封印しちゃったほどのアナタが)ここで弱腰とはアナタらしくない」と・・アナタは弱腰じゃないハズと言いたいのか、やっぱり弱腰ですねと言いたいのか、褒めてるんだか貶しているんだか 相変わらず分かりにくいんですがね。
いずれにしても、かつての大蛇丸だったら《弱腰》は禁句だった。 自分の恥や失敗を彷彿とさせるワードはNGであり、自ら持ち出すような真似はしなかったと思うんですよね。 だけど、今ではそれをお得意の「皮肉」のネタとして使えるまでになった・・・ 己の失敗や己の弱さも受け入れ、それを認められるようになった証拠だと思うんです。
そして・・ここまで大蛇丸が変わったのは、ご存知の通り イタチのおかげなわけでして。 アンコの中に入って「カブトとイタチの闘い」と「サスケとイタチの会話」を見ていた大蛇丸は、あの「完璧と思えたイタチ」でさえ失敗をし、愛情ゆえに迷っていたと知った。 ・・だけどイタチはその失敗を潔く認めていた。
《全てを手に入れたつもりで何でも成せると盲信しようとする だからこそ己の失敗に怯え己に失敗は無いのだと自分に嘘をつく》
(61巻、イタチがサスケに伝えた言葉)
「非情になれる事」こそ忍のあるべき姿と思っていたのに・・その鑑と思っていたイタチが目の前で見せつけてくれた「溢れる愛情」。 ここでも、大蛇丸はまた「イタチ」という忍に圧倒されたのです。 そして自分の失敗を認め、本当の自分を受け入れ「許してやる」・・ イザナミ効果は、大蛇丸にも確実に及んでいた。
イザナミ後の大蛇丸は価値観もガラッと変わり、かつては「醜悪なもの」に見えていた忍世界さえ「成長過程にある大切な実験場」と考えるようになっていきます。 以前までは「恥」でしかなかった《弱腰》でさえも《悪くないわね‥》と思えるようになったんじゃないだろうか。
三代目の弱腰も大蛇丸の弱腰も、迷ったり悩むのは「愛情」があればこそ・・・お互い似た者同士、「師弟ならではの共通点」と受け入れられるようになったんじゃないだろうか。
《弱腰》という「共通の弱点」を持ち出した2連発・・あれは大蛇丸流の「師弟の絆の縒(よ)り戻し」だったような気がします。
そして68巻、最後に この師弟は「かつての師弟コンビ」を彷彿とさせるような、息の合った見事な連携技を見せてくれます。
「大蛇丸・・お前はただ傍観するだけか?」
「この戦争に興味はないわ」
「ただ・・彼の言う夢とやらは私の大切なこの大きな実験場を捨てるのと同じ・・
容認できそうにないわね」
「なら手を貸せ」
(如意棒を取り出した三代目が飛び、即座に大蛇丸が蛇手で神樹の大枝を拘束、それを三代目がズバッと切り倒す)
かつては、こんな感じだったんですね・・・ さすがは「忍の神」「プロフェッサー」と賞賛された元火影と「三忍の一人」「三代目の愛弟子」であった元天才。 実に鮮やかなコンビ技だった。
だけど、それ以上にこの二人の「本来の師弟らしい姿」を感じたのは・・
「ずいぶん弱腰ですね・・アナタらしくない・・猿飛先生」の中に感じる《あの時は無理して頑張っちゃって よくも私の腕を封印してくれちゃいましたね》という ちょっとした「スネ」。 スネると言っても 以前の「クソジジイ」とか「おのれ猿飛め」みたいな恨み節ではなくて、アレは師匠への甘えからくる「子供のようなスネかた」だったような・・・
(その少し前の65巻、歴代火影を穢土転したての時、大蛇丸は四代目火影ミナトに「私を差し置いてまで(火影に)選ばれたのにね」と言っていて、そこを水月に「大蛇丸様・・・少しスネてます?」と突っ込まれ、「フフ・・三代目の前だから少しね」と素直に認めている)
三代目の前だから拗ねる・・・これは大蛇丸が三代目を親のように慕い、甘えたい願望があるからこそなんですよね、たぶん。 早くに親を失った大蛇丸にとって三代目は本来「親代わり」であり、親のように慕っていた存在。 師弟というより「親子」に近い感情を持っていたんだと思います。
無駄にプライドが高い大蛇丸が、こんな子供っぽいスネかたをするとは・・本人が言うように《三代目の前だから》なのでしょう。 大蛇丸が唯一、子供のように甘えられる相手・・それが猿飛先生だった。 そしてヒルゼンもまた 大蛇丸の「皮肉」や「スネ」が素直じゃない愛情表現である事も、よく分かってる。 三代目は、大蛇丸にとって最大の理解者だったんですね。
ひさしぶりの師弟共闘に、大蛇丸はどこか少し嬉しそうでもあった・・
「今はほんの少し思い出しましょうか」
「懐かしき師弟の関係を」
☆長駄文、読んでくださって感謝。
☆余談というか前の記事の付け加えですが、
「二代目火影・扉間」を10位外にしたのは「嫌われ役を引き受ける」ところがあったからです。里の為、兄者のため、若い世代の為に二代目は術開発や里のシステム構築に尽力しましたが、その結果「うちは一族との対立を深めた」とか「卑怯な術を開発した(穢土転生)」など言われてしまった・・他里の影からもよく言われず、一般的な人気は少し落ちるかも。もちろん「本当の姿」を知っている忍からは圧倒的な支持を得ていると思いますが;
そういったある意味「自己犠牲」的な火影の在り方は、大蛇丸にとっては「理想」でもあったようで、「最も尊敬する」とも言っている・・
(ナルト好きブログ! 2021/02/18)