カカシ外伝は、なぜ回想ではなく「外伝」として描かれたのか?という話。
岸本先生はカカシ外伝についてどんなことを話しておられるのか?
・・・以下は今年発売された「NARUTO疾風伝TVアニメコミックス・カカシ外伝~戦場のボーイズライフ~」に書かれている岸本先生談からの抜粋です。
Q:「NARUTO-ナルト-」第一部と第二部の間に描かれた物語ですが、このタイミングにされた意図は?
A:休みの間に読切やれって編集部に言われて(笑)。 今の大人のメインキャラが子供の時はどんなだったんだろう。カカシだったら主人公にしてよいかなと。他のキャラじゃもたないから。
・・・・・ってぇw
なんだか気の抜けちゃうような先生のお言葉・・・ これだと、外伝はただの「お楽しみ企画」でしかないように聞こえるんですよねぇ。 いやいや違うでしょ!w これも岸本先生の幻術ですな!サスケじゃないけど「オレの写輪眼は幻術を見抜く!」 (・・・言いたいところですが持っているのは超ド近眼だけだし・・w)
弥彦達の過去話とオビトの物語。 これらの「過去の物語」、描かれ方には大きな違いが存在します。 弥彦物語は「回想」という形をとり、オビトの物語は「外伝」という形・・・
なぜ弥彦物語は「回想形式」なのに、オビトの話は「外伝」として描かれたのか?
だいたい過去話というのは、本編中で登場人物の誰かが「回想」する形式になるのが比較的普通じゃないかと思います。 だって、過去のことですから・・・パラレルワールドの漫画でもないかぎり、物語の途中で過去を語るなら『誰かに回想させる』しか無いんですよね。
・「主観的」な回想
特徴的なのは、弥彦たちの過去話は『登場人物3人の回想による・・・主観的に描かれた弥彦の物語』であるということです。 ということは、『作者が直接読者に語る・・・客観的に描かれた弥彦の物語』ではない、ってことです。 つ、つまりですね・・・。
誰かの回想だから、そこには『作者による客観的な言葉』は、いっさい入らないんです。 回想を語るのは、全て「その記憶を回想している人物」です。
たとえばですが、48巻の長門が回想する過去話では、「しかし世界は岩・木ノ葉・砂の三大国間で戦争をしていた・・・」というナレーションのような言葉が入ります。 これは作者岸本先生の言葉ではなく「長門によるナレーション」です。
会話部分だけじゃなく ナレーション部分までも「回想している人物の考えや言葉」であるのが「回想」の特徴です。 オール主観的な表現による物語、とでもいいましょうか・・・。
読者が知ることが出来る弥彦たちの過去話は、『自来也が見た弥彦達のエピソード』であったり、『長門から見た弥彦という少年の話』だったり、小南の記憶に残る『懐かしい過去』だったりするわけでして。 でも それでも問題ないのは 主観的な説明だからといって事実と異なるわけじゃないから・・・なんですよね。
例を1つ出しますと。、長門が「ボクはただ二人を守りたい・・・どんなに痛みを伴う事があったとしても」と自来也に語るエピソードがありますよね? この話 最初は自来也の回想として出てくるんですが、そのあと長門自身による回想としても再び登場します。 でも2つとも全く同じで、内容に食い違いは無い。
つまり弥彦たちの過去話は、「回想形式」によって語られても問題のないものだってことです。彼らの回想でも 読者は「正しい情報」を得られるということを意味してるんです。
・カカシ外伝が「外伝」である理由
それに対してオビトの話は「回想形式」ではなく 独立した『外伝』・・・
外伝として独立させた場合、最も大きな特徴(あるいは利点)はなにか?というと、誰かが回想する形式ではなく 「作者自身がダイレクトに読者に語る(客観的な)物語にも出来る」いう点です。
登場人物のセリフこそ主観的ですが、ナレーション部分の語り部は作者自身が語ることもできます。それは客観的『事実』いうことになり そこには一切の主観が入らない。
「登場人物の考え(彼らの主観)」と、「作者の言葉(客観的事実」。
この2つが混在しているのが・・ カカシ外伝の特徴です。
それがなにか?って感じですが、いや、「それが重要なのだ」・・(←イタチの言葉を借りましたw)
つまり。
「カカシ達の主観」と「作者による客観」に実は大きなズレがあり、それが重要だって事なんです。
それこそがカカシ外伝が『外伝として語られなければならなかった』理由・・・。
作者は、このズレを描くために「カカシ外伝」を描いたといってもいいかと・・・(断言癖、ご容赦)。
(※アニメではナレーション部分は三代目が担当し、三代目の回想のように受け取れますが あくまで原作での話で考えます。。。原作では誰かの回想ではない。)
・「主観」と「客観」のズレによるトリック
まず登場人物の《主観的》ともいえる言葉たちをみてみますと・・・。
「やめろ・・いいんだ・・・カカシ オレは・・・もうダメみたいだ 体の右側はほとんど潰れちまって・・・感覚すら・・・無ェ・・」
「・・・オレはもう・・・死ぬ」
「みんなと・・もっと一緒にいたかったなぁ・・・」 (オビト)
「リン・・オビトはお前のことが好きだったんだ・・・大好きだった・・・大切だった・・だから命懸けで守ろうとしたんだ」 (カカシ)
「間に合わなくて済まなかった・・・カカシ・・・話は全部リンから聞いたよ」 (ミナト)
んまぁ、これだけ読めばオビトは死んでしまった・・と読者は自然と考えるわけです。
でも「もうダメ」だとか「死ぬ・・」ってのはオビトの主観的な言葉です。カカシやミナトの言葉もオビトはダメだったというニュアンスです。オビト自身も「もうダメ」だと思ったし、カカシ、ミナトも「オビトはダメだった」と思った。
・・・でもこれはあくまでも「主観的な考え」です。
そして外伝最後には、作者によるきわめて「客観的な」事実がナレーション的に入れられています。
「神無毘橋の戦い その日 木ノ葉隠れに二人の写輪眼を持つ英雄が生まれた」
「一人はその名を慰霊碑に刻み・・・」
「一人は後に写輪眼のカカシと呼ばれ 他国にまでその勇名を轟かせるのである」
ここでの注目は「慰霊碑にその名を刻み」という表現です。 これって、死んだといっているように感じてしまうんですが・・・これがまた岸本先生の日本語表現の絶妙な部分でして。
「慰霊碑に名を刻んだ」という説明。 『木ノ葉では、うちはオビトは死んだものとして扱われた』ということまでが事実なんです。
実際に死亡を確認した描写があったうえで この日本語ならば・・・・死んでしまったことを上品に遠まわしに表現したとも取れるんですが。。 しかし。オビトの場合は埋もれてしまって遺体すらも回収不可能だった・・・オビトの遺体描写は無いし、実際任務を終えたミナト班はオビトの遺体らしいものは持っていません。 カカシもオビトが埋もれている神無毘橋を離れられずに立ち尽くしている・・・。彼らはオビトの「死亡確認」はしていないんです。
なので、ここで言う「慰霊碑に名を刻み」は、純粋にその言葉のまま・・・「オビトは戦死者として扱われた」という意味でしかないんです。・・・つまりオビトは死んだとは作者は言っていないんです、一言も。(これが重要なのだ)。
・・・なのに、なぜ外伝を読んだ読者の大半が それでも「オビトは死んだ」と思い込んでしまうのだろうか?
それはオビト自身やカカシ、ミナトのセリフという「主観的表現」によってオビトの死を読者が想像し、それが事実であると思いこまされるから・・・ということが大きいわけですが、もう1つ巧妙なトリックのような演出があるんです。今度は「言葉によるトリック」ではなく、「絵によるトリック」。
慰霊碑にゴーグルと花が捧げられている絵が最後にあるんですが・・・あれじゃまるで慰霊碑がお墓のように見えてしまうんですよね。 慰霊碑はモニュメントであって・・・お墓じゃあない。
カカシ達の言葉で既に「オビトは死んでしまった」と思いこんでいる読者に追い討ちをかけるかのように?トドメの「慰霊碑とゴーグル&お花の絵」。これでもう「オビト死亡確定」と思い込んでしまうのです。
でもあの絵が語る『客観的な事実』・・・それは『慰霊碑』にお花とゴーグルが捧げられたということ・・。
つまり、「オビトにはお墓がなく、かわりに慰霊碑にゴーグルと花が捧げられた=オビトの遺体は回収出来ずじまいだった=オビトのその後はわからない」というのが「客観的な事実」なのです。
こうした、主観的な捉え方と 客観的な事実描写の「ズレ」・・・
このズレを描写可能にするのは「オール主観的描写である回想形式」ではなく、主観的表現と客観的表現の「両方」を描くことが出来る「本編とは独立した外伝形式」なのです。
その微妙~にずれた隙間にこそ、カカシ外伝の「本当の真実」が隠され、そしてカカシ外伝の「本当の魅力」があるのでは?と確信しております。
《オビトが死んでるというのは お前の勝手な思い込みだ・・》 (再びイタチ兄さんの言葉を一部拝借・・・)
・・・・NARUTOにおけるおひさまキャラその2、うちはオビト・・の序として
☆長駄文・・・読んでくださって感謝。
☆次回のNARUTOは9日土曜日です!(次のジャンプ土曜日発売)