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うちはフガクという「不器用な」?父親について、ちょっと思うこと。

うちはフガクという「不器用な」?父親について、ちょっと思うこと。

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腕組みしているこの男・・・腕の警務隊のマークでおわかりでしょうか、サスケとイタチの父、うちはフガク。 
 
我愛羅父さまもそうですが、フガクも腕を組んでいることが実に多いんですよね。 
一族に於いては「長」という立場を背負い、家庭に於いては「家長」として威厳を保つ・・・ でも父親としてはちょっと「遠い」存在。 なんだかそういう部分が、四代目風影(我愛羅父さま)とフガクって重なってしまうんです。
 
547話の最後、我愛羅父さまが見せた、穏やか~な(情けないぐらい威厳が無い)表情・・・妻・加瑠羅の砂に抱かれて ようやく「風影」の仮面を外すことが出来たみたいでしたね。 我愛羅父さまも、一人で責任を抱え込むような真面目すぎる「不器用さ」を持った人だったんじゃないのかな。
なんだかなぁ・・・父親としてはあまり素直に自分を表現できなかった忍達って、結構いるような気がするんですよね;
 
他にも息子のことを心残りとしたまま逝った人といえば、木ノ葉の白い牙・サクモ・・・彼も「父親としての負い目」を抱え続け、生と死の狭間のような異空間で二十数年焚火をしてカカシを待ち続けていたのだから・・・・
気が遠くなります、二十数年間っていったい・・。
で、やっとカカシに再会したというのに、自分から肝心の話題にはふれなくて、カカシのほうから「今なら父さんを理解できる」と切り出してもらって、やっと昇天というね・・・ 彼もまた真面目すぎて不器用な父親だったのかもしれません。
(にしても、あの異空間はなんだったのだろう)。
 
ま、なかには16年ぶりの再会にも笑顔で「イーブン」なんてさらりと言えちゃう ミナトのような父ちゃんもいますけどね。彼の場合はナルトの中からずっと見守っていたわけだし、自分の死に様に納得し、自信があったからなのでしょうか、彼は「後悔」はしていないように感じます。でも忍としての死に様には納得していても、「父親としては」あまり器用に立ち回れなかったと後悔している忍達のほうが多そうです。
 
外ではカッコイイ忍達も、「父親」としての自分には自信がなかったり、自問自答を繰り返していたり。そんなちょい「弱さ」も隠し持ってるところも、人間として男性として魅力的だったりするんですけどね。にしても「父親としては失格」と自分を責めていた父親達の魂を「救う」とは・・岸本先生、ナイスです!
 
で・・・
 
散っていった父ちゃんズの中でも、その本心がよく分からないのが「うちはフガク」なんです。
 
我愛羅父さまと同じように、「長」としての立場を「父」としての立場より優先させてきたフガク。 それでも警務隊の前でイタチを庇ったり、イタチの昇進に鼻高々だったりと・・・父親らしい一面もみせる事はあったんですよね。 なのに子供たちの前ではいつも腕組みして「家長」としての態度を崩そうとしなかった。
 
でもミコトさんには暴露されてましたっけ、
 
『父さんはいつもアナタ達のことを心配してるわ』
 
『でもここだけの話・・・私と話すときはアナタの事ばかり話してるのよ 父さん』
『ただあの人・・・ いつもムスッとして不器用だからね』
 
・・・フガクも本当は優しい、子煩悩なごく平凡な父親なんですね。
 
「一族の長」としての態度を家の中でも崩せず、ストレートに愛情を表現できない・・・ミコトさんが言うようにフガクは「不器用」な男。 態度を変えるのはプライドが許さないのか、照れ臭いのか・・・要するに真面目で責任感は強いけど、意外とシャイな人、なんだろうか。
 
父親として息子たちに愛情いっぱいだったはずのフガク。
イタチの変貌には悩んでいた様子で、最期の日の朝も サスケにこんなことを言ってましたよね、
 
『親のオレにも読めん奴だからな・・・ アイツは・・・』って。
 
長い間続いていたと思われるフガクとイタチの軋轢。 フガクは最期までイタチをずっと疑い続けていたのだろうか・・? ん~、最近の父親達の話を読んでいると、それも疑問に思うようになりました。
 
『どこまでいっても子供を信じてるのが親ってもんだからね』と言っていた、ミナト。
『親ってのはただ・・・ 子供を信じてやればいい たったそれだけ』と言っていた我愛羅父さま・・・。
 
・・・・・フガクの場合は 本当はどうだったのだろう?
 
フガクとミコトの「最期の時」、実は何があったのか・・・サスケや読者は「イタチの月読世界」によってしか、その状況を知ることが出来ないんですよね。
で、最近になって 改めて気になっている「月読の描写」があるんです(気になっている方もあると思いますが)、イタチが「2度目」にサスケにかけた「月読」の中の1枚の絵。
 
イタチは2度、サスケに月読で「あの日」を体感させていますが(1度目は事件当日、2度目は5年後に再会した時)、月読の中の世界では、刀が振られ血が飛ぶ様子や 両親が倒れている絵はあるのですが、なんというか具体的直接的なハッキリとした絵は無いんですよね。 でも1枚だけ・・・鮮明に描かれている絵があるんです。それはイタチが両親に刀を振りおろそうとしている絵 (17巻、147話「オレの戦い!!」)
 
その絵では、両親は後ろ向きに正座し、冷静に「受け入れる」姿勢をしてるんですよね。 なぜ2人は抵抗もしなかったんだろう・・・?(その点をサスケは疑問に思っていないみたいなんですが;)あの絵が、最近また気になってきました。
 
月読は「幻術の世界」・・・つまり虚構の世界。
イタチの作った想像上の「空間」であり、実際に起きたこととは「違う」と考えた方がいいような気はするんです。

なので、サスケが見たと思われる《イタチ一人が一族を次々と倒した光景》は真実ではない可能性がありそうなんですが・・・・・・《なぜか1枚だけ例外的にハッキリと描かれている絵、両親が死を「受け入れていた」かのような絵》だけは、はっきりとした「現実」と言い切れるのではないか・・・なんて思ったりもします。
 
《どこまでいっても子供を信じてるのが親》だとしたら、あの時・・・フガクとミコトは息子イタチをどう思っていたのだろう?
 
あの日、イタチは理由も語らずに2人を斬り捨てたのか。実は彼等の間で何かしら「会話」がかわされたのではないか・・・。イタチが両親と話をしたとしていたとしたら、何を語ったのか・・・マダラやシスイの真実、自分が考える計画、サスケに託す「未来」について話しはしなかったのだろうか? 2人が揃って居間で倒れていたことからも、イタチと3人だけで「話」をした可能性も高そうなんですよね。
 
最後にフガクはイタチを信じ、サスケに未来を託し、自らの死を受け入れたのではないか・・という気もしないではないです。 《どこまでいっても子供を信じてるのが親》だとしたら、なんですが。
 
息子に猿飛一族の「サスケ」という名前を授け、ヒルゼンのことを「火影様」と呼ぶフガク。 彼がかつて抱いていたものは、一族だけではなく忍世界全体の調和だったのではないかとも思えます。フガクもミコトも・・・イタチとサスケ、2人の息子たちを信じて「死を受け入れた」・・とは考えられないだろうか。
 
なんだか一族の長としても父親としても中途半端感のある《不器用な男》フガクですが、最期に息子達2人を信じる「己」を貫いた・・・なんてこともあってもいいのではないか、と思ってしまうのであります。
 
 
(今の段階では願望・・・と言ったほうがいいのかもしれませんけど)
 
 
 
 
 
☆長駄文、読んでくださった方・・有難うございます。感謝。
 
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