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「本当の自分」を探して・・・(サスケのアイデンティティーについて)

「本当の自分」を探して・・・(サスケのアイデンティティーについて)

第581話で、カブトが滔々と語った『本当の自分』を見失う苦しみ。
 
そして『ボク以上に君を理解できている者は他にいない』とサスケに言った・・・
カブトは、サスケが「本当の自分」を見失って 行き先も自分で見つけられない事を見抜いたみたいですね。
 
《あれだけド派手に兄弟ゲンカしてたはずのイタチとサスケが、こうして見ると仲良く見える。
つまり、サスケはイタチ次第でどうにでも変わる》。
 
サスケも本当の自分を見つけていない・・・カブトはサスケと自分に似たものを見つけたんですね、兄弟共闘を見て。
 
『イタチの生き様があって生き残りの今の君が形成された』というカブトの言葉は、実に鋭く今のサスケの状態を見抜いた言葉だな・・と思うんです。今のサスケは「イタチが遺した生き残り」という抜け殻的な存在でしかない・・・。
そして、サスケがいまだに「兄」に依存しっ放しで自立出来ていない事が「穴」だと見抜いたうえでの「ボクが兄になろう」発言だったんですね。 
 
カブトが言っていた『自分を消す作業』・・・
 
忍である以上、自分を無くす任務は付いて回る。 感情を消し姿を消し、匂いも音も消し、時には偽名やコードネームで本名を消す。カブトは極端な例ではあるけれど、なにもカブトだけが特別だったわけでもない・・・。
忍達は「自分を消すこと」に知らず知らずのうちに悩んできたんですよね。
 
そのカブトがやっと見つけた居場所、そして己を認識させてくれた存在が大蛇丸様」。
 
大蛇丸様の部下」として認められる自分、右腕として頼りにされる自分、超えたいと思える人の隣りにいる自分・・・大蛇丸に依存し、大蛇丸の側に寄り添うことで、己を感じることが出来る・・・
 
そして同じようなパターンで霧の中を彷徨い、自分の居場所を見つけられなかったのは干柿鬼鮫」。
 
鬼鮫が彷徨った末に辿り着いたのが『イタチ』だったんですよね。鬼鮫の心を見通し、鬼鮫の道標となった存在・・・それがイタチだったわけで。イタチの相棒として隣りに居られることで、鬼鮫は自分の存在価値と己を見出していたのでしょうか。
 
「超えるべき壁」となる偉大な存在と比較することで 自分を確認する事。それはサスケがずーっとやってきたことでもあると思うんです。小さい頃から、サスケは「うちはサスケ」として存在していたのではなく「うちはイタチの弟」としてのみ存在していたような気がします。
 
何でも兄さんと比較され、「兄さんのようにやりなさい」と言われ続けたサスケ。
そんなサスケが求めていたのは、父さんに「さすがオレの子だ」と言われる事・・・兄さんとの比較ではなく、本当の自分を見て欲しかった・・あの頃からそう願ってはいたんですよね。だけど、結局は兄さんと己を比較し、あるいは兄さんという存在を強烈に意識することで己を確認する作業、これはずっと続くことになってしまったような気がします。
 
カブトは「大蛇丸」という存在に、鬼鮫とサスケは「イタチ」という存在に・・・
依存し、比較し、あるいはその存在を憎むことで・・・彼等は己を見出してきた「つもり」だったんですね。
だけど、これはあくまでも比較によって見えてくる自分の影(幻)を見ていただけであって、本当の自分を見つけていた訳ではないのかもしれない。だから、依存先である存在を失うと簡単にまた自分を見失ってしまう。
 
そして・・・カブトは大蛇丸を失って再び自分を見失いかけ、鬼鮫とサスケはイタチを失って自分を見失いかけた。
 
カブトが《消えそうな自分》を完全に見失わない為に取った選択は「大蛇丸様を自分の中に取り込んでしまう事」。こうすれば永遠に依りどころを失うことは無いわけですから・・・。
39巻のカブト自身の言葉で言うならば、《大蛇丸様は僕の超えるべき存在として僕の中で生き続ける》・・・
結局は大蛇丸に依存し、大蛇丸との比較で自分を探す作業に変わりは無いんですけどね;
 
で、イタチの死によってイタチを失った鬼鮫とサスケはどうだったのだろう。
 
鬼鮫は経験を積んだ忍だし、表面的にはあまり変わらないように見えましたが・・でも心は再び霧の中で彷徨い始めていたんじゃないかとも思うんです。
そしてサスケは・・・イタチとの戦いの直後、なんだか廃人みたいになってましたよね。目は虚ろだし、反応も無いし。 あのままだったら、サスケはかなり危なかったんじゃないのと思うぐらい、自分が無くなっちゃってましたよね・・。
 
そんな「虚」状態になっていた彼等の「心の穴」を即座に埋めてきたのがトビだったんです。
 
トビは、この時点で鬼鮫に「マダラさん」であることを告白し イタチに代わって自分が新たな鬼鮫服従先(依存先)になることを申し出たわけです。そして鬼鮫は「マダラさん」の側に在ることで 再びで自分の存在価値を認識できるようになった・・・「とりあえず」の解決はしたわけです。
 
サスケの場合は、イタチを2度失ってますよね。 最初は「うちは抹殺任務」で、一度は兄さんを失った・・・心の支えであり、超えるべき壁であった優しい兄さんを失ってしまった。
うっかりしたらサスケは・・・孤独になった悲しみと、まさか兄さんが・・と信じられない疑問で心に穴がぽっかりと空いて…心を病んでしまったかもしれない。 だけど、イタチは自分への強烈な憎しみを与える事で、サスケの中に再び自分を残したんですよね。憎しみの対象として、越えるべき壁として。
 
そして2度目は、闘いによってイタチを失った時。 この時は、闘いの直後にトビがサスケを連れ出して 空っぽ状態のサスケの心に「イタチの真実」というイタチの愛情(イタチの存在)を吹き込んだんですよね・・・(もっともサスケは再び 心を憎しみで満たしたわけですが)。さらにイタチの眼を移植したことによって、《イタチはサスケの超えるべき壁として永遠にサスケの中で生き続ける》ことになった・・・
 
でも、そんな方法で彼等は『本当の自分』を見出すことが出来たんだろうか・・・?
 
カブトは大蛇丸様に抗って超えようと必死になるあまり、節操なく他人の能力を取り込み続け・・・もはや眼鏡だけが本当の自分になってしまったし・・・
サスケは再び兄さんを超えようと必死になるあまり、《兄さんまずは一人目だ》とか《この兄さんの眼に焼き付ける光景はことごとく酷たらしく悲しく重いものになる・・・だがそれが正しいんだ 見ていてくれ兄さん》なんて発想になってしまったんじゃないのかなぁ。・・・・
 
そして、鬼鮫の場合。
彼がついに《本当の自分》を見出せたのは、最後の最後だったのかな・・という気がします。
 
過去2度の「鬼鮫とガイの対戦」で、鬼鮫はシッカリと自分の名前を名乗っていたのにも関わらず ガイは全然名前を覚えてくれませんでしたけどw 
それは・・鬼鮫が《本当の自分の姿》をガイに見せていなかったからじゃないか、とも思うんです。
でも最後に鬼鮫が見せたのは《仲間を守る為に命を懸けた姿》・・・つまり本当の自分の姿、「干柿鬼鮫」の姿でした。だから(あの)ガイも、やっと“干柿鬼鮫という名前”を覚えようという気持ちになれたのでしょうか。  
干柿鬼鮫!お前の事は一生覚えておこう!」・・とね。
 
イタチが「オレは木ノ葉のうちはイタチだ」と言えたのも、自分の運命は「誰かのせいでこうなった」のではなく自分自身で信じるものを選択したから、と思えるからなのでしょうか。 そして《本当の自分》を見極めることが出来たからなのだろうか。・・・
 
でも、そんなイタチも・・・サスケに関しては失敗したんですよね。
 
サスケの運命を サスケ自身に選択させずに、イタチが一本道に誘導しようとした・・・ 
その結果、サスケはイタチ依存症になり 《本当の自分》を見失ってしまった。
『サスケ・・お前をそうしてしまったのは他でもない オレだ』・・・イタチは今、サスケが本当の自分(自分の存在意義)を見失ってしまった事に重い責任を感じているようにみえます。
 
《だが こうなってしまった以上 一言だけちゃんと言っておきたい言葉がある》・・
 
イタチが言っている「こうなってしまった」ということ・・・
それは、サスケが闇を抱え復讐に走ってしまったという事よりも「サスケに本当の自分を見失わせてしまった事」なんじゃないかという気もします。 
 
イタチは、サスケに何を《一言だけちゃんと言っておきたい》のだろうか・・・?
 
・・・それはまだ分かりませんが、私としては・・・・この言葉も、イタチの口から直接サスケに言ってあげてほしいなぁ~・・と思っています。
 
 
《お前は木ノ葉隠れの うちはサスケだ》。
 
 
サスケの居場所は「木ノ葉」にあるのだと。
 
そしてイタチの弟である「以上」に・・・お前はうちはサスケなのだと・・・・
 
 
(ナルトが九尾に、おめーは木ノ葉隠れの俺とコンビの・・・九喇嘛だ、と言ってあげたようにね)。
 
 
 
 
長駄文、読んでくださって感謝。



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