ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

NARUTO-ナルト-の考察(伏線、言葉、人物考察などなど!)続行中!

ナルトがこの戦場で、学んでいくものとは・・・?

ナルトがこの戦場で、学んでいくものとは・・・?

岩のゴゴゴ・・・音が響く、今のこの戦場。
この闘いは岸本先生がン年前からずーっと「予言」されてきた話なので、NARUTOの物語の中でも大きな山となり そしてターニングポイントになる闘いだと思ってます。 そしてナルトにとっても大事な闘いになるだろう、と。
 
穢土転生達が昇天して、戦場の闇にも少しは光が射したけれど、まだまだあたりは漆黒の闇。
だけど、オオノキが「あっちのマダラはお前にまかせる!それがこれからの希望を進める一歩となる!」と言ったように、この闘いが終わる頃には「暁」の光が希望の輝きとなって見えてくるんじゃないだろうか・・・と思ってます。
その「希望の光」をこの戦場に導くのは、やはり・・「ナルト」なのだろうか。
 
トビに対して見せた《ドーンと来いや!》的な余裕の表情・・・たしかに、ナルトは強くなったし頼もしくなりましたもんね。
 
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この自信に満ちた微笑み・・・これを見ただけで、相手は圧倒されてしまう。 
「ホコタテ」で言えば、この微笑みはどんな“矛”でさえ止めてしまう 受け入れの“盾”だと思うんです。
マダラの「マダラ立ち」が“最強の矛”として力のオーラを放つものならば、
このナルトの「自信に満ちた微笑み」は“最強の盾”としての愛のオーラを放つ・・・。
どんな憎しみや力の矛でさえも受け入れて包み込んでしまうような盾、ナルトもこんなに成長したんだから、もう大丈夫!・・・かと言えば、
 
まだ、ちょっち違うような気がするんですよね。
 
 
・・と言うのは、相手の闇や憎しみを受け入れる・・・『ここまで』なら かつて柱間も到達した答えだと思うんです。
柱間もそんな覚悟を背負い、一人で終末の谷でマダラを迎え撃ったんじゃないだろうか・・?とね。 
九尾に対してすら「“悪いが”野放しにはしておけん」なんて言い方をする温厚な柱間が、最初っからマダラを「ぶっ倒す!」なんて考えて無かったと思うんです。 全てにおいて「マダラよりも上」だった柱間は、1対1で拳をぶつけ合ってマダラを「憎しみと闇ごと受け入れてやろう」と・・そう思っていたんじゃないだろうか、とね。
 
でも、「受け入れる」ってのは勝者のやること・・・。
受け入れる側は勝者、受け入れてもらう側は所詮「敗者」。表面上は平和な「和解」であったとしても、そこには絶対的な「勝者と敗者」の関係は存在します。
 
だから、マダラにとって「柱間に受け入れられる」なんて事は屈辱であり、敗北である以外の何モノでもなかったと思うんですよね・・。実際に里に残ったうちは一族は、千手側(里側)に「受け入れられた」ものの・・・その実情はマダラから見たら「千手の犬に成り下がった」ってことだったのだと思います(これはトビが言った言葉ですが)。
「受け入れられる」のも、屈辱なのです。
 
だから、ナルトが堂々と「かかってこいよ!」的な表情で“敵の闇や絶望を全部受け入れてやる”的な態度をとっているのは 事実上の「勝利宣言」であり、それだけ自信があるってことですよね。
相手のやろうとしてる「間違い」を止めてやって、そして話を聞いてやって、受け入れてやるという態度・・それは、ちょいと「上から」の態度だし、同時にそれは自分は正しい、そして相手は「闇」だと認定してるってことなんです。。
 
たしかに、今までのナルトのやり方は『闇落ちした敵』に光を与え、敵の闇を受け入れ『改心させてやる』パターンだったんですよね。 そして敵を改心させる度にナルトの経験値もUPして、ナルトの「受け入れる器=盾」はますます大きくなってきた。 ・・・そしてナルトによって受け入れられた「かつての敵」は、光を取り戻してくれたナルトに感謝する。 
そうやって「託されてきた」ナルトは、今度も自信を持って「オレを信じてくれ!」と相手を受け入れるつもりだと思うんです。
 
ナルトが島亀の結界から出て戦場に向かう時、本部のシカクから奴(トビ)は平和なんか望んじゃいねェ…世界が欲しいだけのまさに悪党ってやつだ!』と言われ、ナルトは『悪党だってのは分かる!どっちにしろマダラをぶっ倒してこの戦争はオレが止める!話をするにしてもそれからだ!』と答えていましたよね・・(58巻545話で)。
 
ナルトの「受け入れ」の盾が大きくなればなるほど、相手を「受け入れてやれるんだ」という(うっかりすれば)尊大な気持ちも大きくなる。 その自信は「自分は正しい」という思い込みにもつながってしまうのだ。だけど・・
 
全てに光と闇があるように、敵には闇もあるけど光もある。 
そして・・自分側にも光もあるけど闇もある。
 
「敵は全て闇」で「味方は全て光」ということが、大きな「思い込み」なんじゃないだろうか・・・。 
でも、なかなか「敵に光」を見出し、「己の闇」を見出すなんてのはできることじゃない。特に戦争中は、勝たなきゃダメだから、そんな事を思う余裕はない。
 
今回、「オビト側(敵側)」の主観的な回想には「重要な意味がある」と書いたのは、オビトが「忍連合(今の忍世界)」をどう見てきたのか、連合側(ナルト側)の闇をどう思ってきたのか・・ うちは一族の事をどう考えていたのか」という問題を、敵側の視点から客観的に見る事ができるからです。
もしかしたら、マダラやオビトが考えている事は案外と「光」なのかもしれないし、逆に彼らから見たら連合側こそ「闇」に見えたのかもしれない。オビト側(あるいはマダラ側)だけが「一方的に悪」という既成概念は、もしかしたら「思い込み」かもしれない・・・。 
 
マダラのやり方は問題も多いと思うけど、602話のマダラ爺ちゃんの話を聞く限り、彼も本心から平和と愛の世界を願っているように思えるんですよね・・本気で考えていなかったら、あんな姿になってまで孤独に計画を進めたりはしないでしょう・・。少なくとも、マダラは言われているような「憎しみと闇の塊」じゃあない。 
 
601話でカカシがマダラの事を「あんな奴」と言った時、オビトの表情がちょっと変わって それが引き金になって「回想」が始まったように思えたんです。
カカシがマダラの事をよく知らないのに「あんな奴」と決めつけた(思い込んだ)ことに反応したように思えたんですよね。
 
この闘いで、もし「自分たちがいつも正しい」という概念がひっくり返される事があるとしたら。
 
「矛と盾」どちらが勝って取り込むのか、という話ではなく・・・「補うモノが側で対を成して良い方向へ近づける」という発想ができるようになるんじゃないだろうか・・なんて思うんです。 敵も味方も、どちらも1つだけで完璧なものなどあるハズも無く・・・両方が寄り添い、足りないところを補い合うことで、よりよいものに近づいていける。それが平和への答えなのかなぁ・・と(難しい問題だけど)。
 
だから今度の闘いは、今迄みたいな《闇落ちした敵を改心させてやる、闇から光へ引きずり出して助ける》いつものパターンじゃあない事を願ってます。 なにせオビトは第2巻からその存在が描かれ、ナルトの「隠されたもう1つの世界の主人公」として存在してきたのだから・・今までの定石パターンを覆すような、ナルトの考えを大きく変えてくれるような存在であってほしいと願ってます(ついでに読者の「思い込み」も、吹っ飛ばす存在であってほしい)。 
 
その「結果」次第で、「ナルトとサスケ」の未来も変わるような気がするんです。
第2の終末の谷の戦いが、拳を交わして「勝敗を決する」戦いになるのか。
それとも・・・拳を合わせて補い合う「共闘」になるのか・・・ね。
 
だから、オビトが「闇落ちしてる」とか、マダラが「あんな奴」だなんて・・・思いこんだり決めつけたりしないほうがいいの「かも」しれない。 
だって・・・本当に闇を求める者だったら、弥彦に“暁”(つまり夜明け)なんて名前の組織を立ち上げさせるとは思えないんですよね。
 
“暁”っていったら・・闇の終わりであり、夜の終わり・・・
 
つまり「夢」の終わりでもあるのだから。
 
(「“暁”を弥彦に立ち上げるように仕向けたのはこのオレだ」 とトビは言ったけど、
それはオビトだったのか・・マダラだったのか・・・)
 
 
 
 
(まずは・・あのマダラをどうやって止めるか、それが問題ですけどね・・。)
 

・長駄文読んでくださって感謝。
 
 
 
 
 
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