ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

NARUTO-ナルト-の考察(伏線、言葉、人物考察などなど!)続行中!

グルグルは「十尾」なのか?という話・・・「十尾」雑考 その1

グルグルは十尾なのか・・・

『いつかは・・・ 人が本当の意味で理解し合える時代が来るとワシは信じとる!!』
『答が見つからんかった時は その答をお前に託すとしようかのォ!』
 
自来也は「人が本当の意味で理解し合える」事を願い、その答えをナルトに託し・・・そしてナルトはそれをオッス!と引き受けた(45巻416話「ド根性忍伝」で)・・・
 
そしてナルトは九喇嘛と共闘して理解し合ったし、尾獣達とも理解し合い・・・確実に《本当の意味での理解》の答に近づいている。カカシだって九喇嘛や八っつあんと共闘して「理解し合えた」し・・・あとはカカシはオビトと、ナルトはサスケとの和解という問題が残ってますが いずれ彼らも共闘で理解し合えるんだろうとは思ってます。
だけど・・・理解し合うって問題は「人」に限らずで、「尾獣どうし」にも有るような気がするんです。
十尾と尾獣達の間にも。
 
だけど九喇嘛と八っつあんは、十尾が復活する前に何とか消そうと手加減なしの尾獣玉を喰らわせたし、今週は九喇嘛が十尾のことを「アレ」呼ばわりしてたのが気になっちゃったんです。雑考にも書きましたが、サスケが大蛇丸のことを「アレを師と呼ぶ気は無い」なんて言ってたのを思い出しちゃって・・・ 「あいつ」とか「ヤツ」とも言いたくない、もはやモノでしかない「アレ」・・・ 九喇嘛は十尾のことを口にしたくも無いぐらいに嫌悪しているようにも見えたんです。でも九喇嘛達だって十尾出身なわけで、十尾は「かつての自分」とも言えるはずなのになぁ。
でも私には、十尾ってそんな悪い奴には見えないんですよ。 ちょっとブサイクだけど、どこか可愛らしいし(笑) 
 
もっとも今の十尾ってのは、オビトが「意図的に」不完全にしちゃってるから、今までシルエット絵で登場していた十尾とは外見がちょっと違うんですよね。 今の十尾は太ってて子供っぽいというか・・ちょいとグロテスクではあるけど、可愛らしくも見える(アレが可愛いって変かな?)
 
九喇嘛は十尾のことを《とんでもない暴れん坊》のように語ってますが、十尾が自然エネルギーそのものなら悪い子とは思えないんです。九喇嘛達尾獣だって いわばプチ十尾なわけで、長い間人間を恨んで暴走しては「天災」扱いされたりしてきたんですよね。十尾だって本来は人間と共存し 人間に恩恵を与えてくれる存在なんじゃないだろうかと思うんです。九喇嘛以上の生命力、回復力、自然再生能力、浄化能力などを持ってるんじゃないだろうか、とね。
 
今のところマダラとオビトに操縦されちゃってるので「ギイイ~」しか言ってませんが、十尾だって人格(?)があったと思うんです。六道仙人は死の直前、十尾のチャクラを使って9つの独立した個体に創り直して 抜け殻は月に封印したわけだけど、じゃあ十尾の「意志(意識)」はどこにいったんだろう? 抜け殻と一緒に月に封印されていたんだろうか? 
だとしたら、マダラさんが月から抜け殻を口寄せした時に、共に十尾の意識もマダラのところに召喚されたりしたんだろうか。もし、仮にそうだとしたら・・・
 
私は「今のところ」十尾の意識はグルグルのような気がしてるんです(今のところ、と言い訳的に言っておきます;来週あたり、いきなり「違う」事が判明してると困るんで)。
グルグルは白ゼツと違って賢いし、知識もある(本人はボキャブラリーもある、という言い方してますけど)・・・九喇嘛があれだけインテリなら、もっと長く存在する十尾は相当賢いだろうと思っちゃうんですよ;グルグルの知識、賢さは「十尾」だからなのか、とも思えたりで・・・。
 
だけど、グルグルの「中身」って空虚そのもので、603話の最終頁下にグルグルの「内部」が描かれてますが不気味な真っ暗で広い空間なんですよね・・・まるでオビトの神威時空間みたいな空間。 グルグルは本来「体」を持たない意識だけの存在で、そしてそれは巨大な「意識」なんじゃないだろうか。
 
そして、九喇嘛が言ってた十尾の「怒り」・・・・それは《海を飲み地を裂き、山を運んでしまうほどの》怒り。  
 
でも怒り、憎しみは愛情の表現の1つでもあるし、本来の十尾は九喇嘛達のように(あるいはそれ以上に)人間への愛情も深いんじゃないだろうか。 だから・・・人間への怒りも大きくなるんだと思うんです。
 
610話の雑考でも触れましたが、十尾の外見・・・『一つ目の周囲が黒くなってて、ニョキニョキと枝のような角のようなものを生やしてる姿』。 これ、私は605話最後のオビトの絵に似てると思えてしまって(グルグルを着て右眼の周りだけ血で汚れて黒っぽくなっている姿)。 やっぱりあの絵は“十尾”を意識して描かれてるんじゃないか、と思えたんです。満月と、それに向かって伸びる木も、十尾を彷彿とさせるし・・・
 
それに、あの605話「地獄」でのオビトの大暴れ・・・あれは「十尾の怒り」を描いたものでもあったんじゃないかと思えるんです。
 
オビトが狂ったように怒り、雄叫びをあげながら忍達を制裁していく姿・・・
あれが人間の愚行に怒り狂った十尾が《海を飲み地を裂き、山を運んでしまう》姿と重なってしまうんです。弱者を踏みにじり、尾獣を戦いの道具のように扱う、相変わらず愚かな人間達への十尾の怒り・・・十尾(グルグル?)の怒りがオビトの怒りと共鳴して、暴走したんじゃないだろうか。 
もし忍達がこのまま同じ愚行を繰り返していくなら、いずれはあんな風に十尾の怒りが爆発して世界を終わらせてしまうんじゃないだろうか・・・実はあの大暴れ、それを暗示した描写だったんではないだろうか、と思えるんです。
 
グルグルとオビトが共鳴したのは、二人(と言っていいのかな)は性格的に似てたんじゃないだろうか・・・無邪気で純粋。そして愛情も深いが、怒れば暴走もしかねない。十尾は人間を信用してないと思うんですが、オビトだけは「例外」だったんじゃないかと思うんです。 オビトと十尾の間で、何らかの「約束」が交わされているような気がしてならないんですけどね・・・。
 
そして・・もう1人の「例外」、それがデイダラだったんじゃないか、という気もしています。
グルグルがいつまでオビトと「共存」していたのか、あるいは今も共存しているのかは不明ですが・・
(このあたり、早く知りたいんだけど・・・グルグルは物語の重要部分に関わってきそうだから、当分明かされないかな)。
デイダラとコンビを組んでた時のあの「トビ」は、グルグルの真似をしていたオビトだったのか・・・それともグルグルだったのか。そこらへんも気になっちゃうんですよね。 
 
トビはかなりデイダラを高く評価して気に入ってたと思うんですが、それはデイダラの才能だけじゃなくて無邪気でまっすぐなところがあったからだと思うんです。 十尾が本来 無邪気で子供っぽいのだとしたら・・・デイダラも「十尾」と共鳴できる部分があったんじゃないだろうか。
 
オビトの名前は「トオビ=十尾」を連想させる名前だけれど、デイダラの名前だって十尾の名前の1つデイダラボッチ」デイダラでもある。 トビがデイダラと仲良くコンビを組んでいた時から《十尾=デイダラぼっち》は伏線の中に見え隠れしていたのかも・・・
 
今週はマダラさんのことを失礼ながら子供っぽいと書いてしまいましたが(勿論マダラはそれだけの人じゃないと思ってます;ただし純粋なところはあったんじゃないかとは思ってますが)十尾はそれ以上に「大きな子供」なんじゃないだろうか(比較に使ってすみません、マダラさん)。
 
ナルトは二尾から七尾までのチャクラ(と、おそらく意志も)を預かってると思うんで、いずれ彼等も復活可能じゃないかと思ってますが 尾獣達と十尾が「本当の意味で理解し合える」時は来るんだろうか・・・
九喇嘛は「アレ」というし、マダラは「魔像」と言ってるけど・・・名前で呼んであげたいもんです。
十尾も、もしかしたら色々な名前で呼ばれ過ぎて「名前などどうでもいい・・デイダラボッチ、ダタラ、天目一箇神・・・好きに呼べ」なんて言うのかもしれないけれど。