ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

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「生きている」って何なのか、「死」とは何なのか・・・(615話「命を繋ぐ」に関して)

「生きている」って何なのか、「死」とは何なのか・・・(615話「命を繋ぐ」に関して)

 
いきなりタイトルとは直接関係ない、そして今更な話なんですが・・

63巻の598話ラスト、ナルトがトビの仮面を螺旋丸で「誰だあぁ」と割るシーン。
 
2頁に渡って鏡面のように3分割されて描かれてますが・・・これ、第4巻28話で、ナルトが白の仮面を割るシーンと“全く同じ構図だった”という事に気づきました;今頃遅すぎだってばよ…(そんなの、とっくに気づいているよ、と思う方も多いかと)。 4巻、63巻両方お持ちの方はぜひ、見較べてみてください。
 
その他にも、波の国物語は ナルトの台詞とカカシ外伝でのオビトの台詞がほぼ同じだったりとか、なにかと面白い。そして、この戦争でナルトが向き合っている問題は、波の国でナルトが感じた問題と共通していると、改めて感じております。
 
で、本題ですが・・・
 
前回614話「お前に」に引き続き、ネジの死に関して今週も色々と考えさせられたままです。で、自分なりにまとめようと思ったんですが、全然まとまらない。命を繋げるって問題は、難しいですねぇ・・・ヒナタの言ってる事も分かるし、簡単に納得しちゃっていいのか迷ったりで。 
 
615話、ヒナタの言葉にはすごく共感できる部分もあったしスッキリもできたんです。 何より彼女の毅然とした態度は立派だったと思う! だけど、前回に引き続き《ここは戦場、今は戦争中、仲間も死ぬ》の言葉には、違和感を感じたままです。
 
たしかに、「忍」という仕事に死はつきまとう・・・
 
37巻、アスマの弔い合戦に赴こうとするシカマル達に綱手もこう言っていましたっけ、「成長しろ・・ 忍には死がついてまわる  時には受け入れ難い死もある しかしそれを乗り越えねば未来は無い・・・」とね。
忍達は仲間の死に様を守ったり、意志を受け取って命を繋ぐことで《受け入れ難い死》に意味を見出して悲しみを昇華してきたと思うんです。忍を生業にしている以上、仲間の死は最低覚悟しておくべき「心得」だってのも分かるし、そのためにも《ここは戦場、今は戦争中、仲間も死ぬ》という言葉やら《忍は涙を見せるべからず》なんていう心得が存在するんだろうし。
 
でも、あのイタチだって一族抹殺任務の時には(両親に見られないように)泣いていたし・・・カカシだってリンを貫いた時には、誰にも見られず涙を流していた。忍だって人間なんだから・・・涙だって流しますよね。
だけどイタチやカカシといった模範的な忍達は「人に見られないように」泣いていたんですよね。綱手だって、自来也の訃報に涙を流したのは、仕事を終えて一人になった時だった・・・。
 
ペイン戦の時も、カカシはチョウザが死んだと思って泣いているチョウジに「泣くのは後だ、チョウザさんの犠牲を無駄にするな!」なんて言ってたし、一人前の忍なら感情は抑えて「泣くのは後」なんですよね・・・それが当たり前。 そして、それが綱手の言うように『成長する』ということなのかもしれません。
 
だけどなぁ・・忍だって人間だし、感情もある。 

それで再び思い出してしまったのが、ナルト達第七班にとって「全ての出発点」である再不斬・白戦なんです。
 
あの時、白は今回のネジみたいに 再不斬を守る為に雷切に貫かれて死んでいった・・・ 
なのに、再不斬は「見事だ 白・・・」とか「オレはいい拾い物をした」なんて言ったもんだから、ナルトは真剣に怒った。
でも、あの時の再不斬は、ホントは“受け入れ難い白の死”を意味のあるモノにしようとして、必死に己に言い聞かせてたと思うんです。それって、言葉は違うけど《ここは戦場、今は戦争中、仲間も死ぬ》と己に言い聞かせるのと似ていると思うんです。・・・だから、再不斬の発言は「忍」としては、当たり前のことだったのかもしれない。
 
だけど、ナルトの言葉に再不斬は心の仮面を次第に引っぺがされていって・・・最後には人間としての心を取り戻して素直に「白の死を悲しみ、涙を流した」。 
そして・・・穢土転された再不斬は、「オレは・・・・“人間として”死んだんだ」と言っていた。
 
あの戦いでは、ナルトもサクラも「忍の心得」を破って仲間の死に泣いたり、敵の為に泣いたり、感情を爆発させたり。白も泣き、再不斬でさえ涙を流した・・(※仲間の死と言っても、結局サスケは生きてたわけだけど)。
そして戦いの中で、白は「ボクは刃で心を殺し 忍になりきる」とも言っていたけど、ナルトは「本物の忍者になるって本当にそういう事なのかなぁ オレってばそれやだ!!」と言っていた・・。 
ナルト達は最初のあの戦いで、大切な仲間の為に泣いたり、悲しんだりすること・・つまり「忍」である前に「人間」であることの大切さを何よりも感じていたんです。 
 
だから・・・
 
「ネジ」という 掛替えの無い大切な仲間の死に、もっともっと素直にナルトは泣いたり悲しんでもいいんじゃないだろうか。あの時・・悲しみを堪えていた再不斬に向かって「お前みたいに強くなったら・・ホントにそうなっちまうのかよォ!!」と叫んでいた、あの時みたいな気持ちで。
忍達はもっと素直に涙を流しちゃってもいいんじゃないかなぁ・・メンドクサイ「心得」なんて抜きにして。
 
もし「立派な忍に成長する」ってことが、大切な人の死を乗り越えて 涙を見せないことだってんなら・・・別に立派な忍になんて、ならなくってもいいんじゃないのかい??なんて思ってしまう(おぃ!)
 
忘れちゃならないのは、忍である前に人間であること・・・「感情がちゃんとある」人間であることなんじゃないかと思うんです。そうじゃないと、「う○こはしないけど、感情はちゃんとある」人造人間白ゼツ達より《生きている》って言えなくなってしまう。 
「生きている」ってのは、ご飯食べてう○こするってこと・・・つまり生物的に「生きている」ってこともあるけれど、悲しいとか嬉しいとか、感じる「心」を持ってるって事を「生きている」って言うんじゃないだろうか。
 
・・・これが、今までの「忍」、特に忍連合の忍達が忘れかけているもののような気がするんです。
彼らは「忍の心得」に縛られていて、まだまだちゃんと心を取り戻せていなんじゃないだろうか。 
 
そして・・・同じように、「死」についても同じことが言えると思うんです。
 
「死」ってのは、生物的な死・・・つまり心臓が止まって冷たくなって、朽ちていくことだけではなく・・・ 
ヒナタが言ったみたいに のこされた人達が託された信念や言葉を諦めてしまって 繋がりを断ってしまったら・・その時がその人の「死」なのかもしれない。 
つまり、死んだ人の「心」が消えてしまう時・・それが本当の「死」なのかも。
 
だから、仲間を守る(死なせない)ってのは、その人の「心」を守り続けるってことでもあるんじゃないだろうか。
 
・・・これは、オビトが忘れかけてるもののような気がします。だから、ヒナタの言葉に「・・・・・」となっていたのかもしれない。
「心」を見失ってしまうと、本当の意味での「生きている」ということの意味、本当の意味での「死」ということの意味・・・それらも見えなくなってしまうような気もする・・・。
 
う~ん・・・ 『生きている』って何なのか。 『死』とは何なのか。・・・ホントに難しいし、明日にはまた考えも変わってくるかもしれない。 
 
この問題は、「答え」を出すことよりも、迷いながらも「考え続けていくこと」の方が大切なのかもしれません。
 
 
 
 
(なんだか意味不明ですみません。)
 
 
☆長駄文、読んでくださって感謝。
 
 
 
 
(ナルト好きブログ! 2013/1/6)