ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

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大蛇丸の涙  (大蛇丸の“木ノ葉崩し”)

大蛇丸の涙 (大蛇丸の“木ノ葉崩し”)

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「それほどに嬉しいか・・・」
「・・・・それとも・・・」
 
「・・・・・・」
 
「師であるワシを殺すのに・・・・・ 
多少の悲しみを感じる心を持ち合わせておるのか?」
 
木ノ葉崩しのあの時の・・・大蛇丸の涙。 あれは本物だったのか・・それとも本物じゃなかったのか。 
これ、私にとって長い間ず~っと謎だったんです。 
本物のような気はするけど、それを裏付けるほどの《大蛇丸の心の優しさ》は、今まで見つけることができなかった・・。 だけど、最近の《若い鷹達を見守る大蛇丸》の優しいまなざしを見ていると、あの時の涙はやっぱり本物だったんだろうなと思えてくる・・・
 
かつての大蛇丸のイメージと言えば、邪悪で毒々しいイメージ・・・あのイビキさんでさえ、「人間じゃないみたいな・・・まるで人の形をしている何かのような・・ ・・怖いんだ」なんてかなり無礼な事言ってましたけど(笑)、要するによく分からないから不気味で怖かったんですよね。
だけど最近の大蛇丸はすっかり毒々しさが消えたというか・・・いや、《毒抜けした》という表現は適切じゃないかもしれない。 別に大蛇丸は毒抜けしたわけじゃない・・・大蛇丸は本来の彼に戻りつつある、本当の自分を取り戻しつつあるような気がします。
 
619話では扉間の政策に突っ込みを入れるなど、なんだか全てを達観しているような言動をしていた大蛇丸。だけど、619話に登場する大蛇丸の中で一番印象に残ったのは・・・
扉間が(うちは一族は術の力を第一とした考えがあったと言われるが)本当は違うのだ・・と言った時の、大蛇丸
 
「?」
 
・・・・という反応。 
 
サスケは「!?」と反応してるのに、大蛇丸水月と一緒に「?」を共有して反応してるんです、「あの水月と一緒」の反応ってことは・・・まり子供みたいに純粋な疑問の「?」ってこと・・・これが、619話の大蛇丸の中では一番印象に残ったんです。
 
やっぱり、この人を突き動かしている原動力は《知りたい願望》なんだなぁ・・と。 いくつになっても子供みたいに純粋に「?」と素直に疑問に思うことができ、関心を持つことができる。そして疑問をそのままにせず『知りたい』と思えるのが、大蛇丸という人。そして、知ろうとする事の大切さをよく知っている。
 
「知りたくはないの?それを・・・」
「アナタ・・・知りたいことがどんどん増えるわね それはいいことよ」 
(61巻、カブトへの・・大蛇丸の“名言”)
 
だから・・・「知りたい」と動きだしたサスケを、大蛇丸は全力で応援しようとしてるんじゃないだろうか。
 
大蛇丸の全ての始まりは、両親の死だったと思うんです。・・・里によって死に追いやられた、里に殺されたという両親の「死」。 だから自来也大蛇丸は両親を死へ追いやった里に復讐しようとしているのか、あるいは両親に会いたかったのか』と考えたみたいだけど、大蛇丸がしたかったのは復讐でもなく 両親との再会でもなくそれよりも『知りたかった』んじゃないだろうか・・・? 
 
両親が、なぜ・・死ななければならなかったのか。
そして、両親を死へ追いやった『里』とは何なのか、『忍』とは何なのか・・・を。
 
618話で、サスケの姿に己を重ね《木ノ葉崩しをやる前に 大蛇丸も己の決意を再確認する時間が必要だった》と言ってましたが、そこまでして大蛇丸がやろうとした事は何だったのか。 大蛇丸自身は《木ノ葉崩し”という風で“私が”風車を回したい・・・》と曖昧な事を言っていましたが、結局誰もよく分かっていなかった。
 
イビキは『四代目火影に選ばれなかったことを恨んでの復讐だろう』と考えていたし、カカシは『くだらない野望か』と考えていたけれど(サスケを狙った事を含め)、カブトだけは『これから各隠れ里の力は長く激しくぶつかり合う・・・ 音隠れもその一つ・・・ ・・・アナタはその引き金になるおつもりだ』と見抜いてましたよね、そして、大蛇丸が三代目と戦う事を躊躇している事も、カブトは見抜いていた。 カブトは以前、大蛇丸の「夢」を聞かされていましたよね・・・。
 
『己を消す“根”とは違い 己を導き出す組織・里を作る どの国にも属さない音隠れの里』
 (これも61巻)
 
忍は里の為に生き死んでいき・・己を無くさなければならなかったのは、国や大名という依頼主の為。 その原因である忍システムを支えてきた「一国一里の制度」。 それを根本から覆す、抜本的な改革を大蛇丸はしようとしていたわけで・・・今まで木ノ葉が、そして火影が築き守ってきた制度を変革させる問題提起、「きっかけ」を大蛇丸は作りたかったのだろうか。 
 
そして・・・それは、なぜ大蛇丸が風車を回す舞台に《中忍試験》を選んだのかという理由にもつながってきます。
 
中忍試験とは、中忍になれる忍を選抜する試験であるだけでなく、同盟国の忍が一堂に会し、大名や依頼主に自里の戦力をアピールする宣伝の場という重要な意味を持ってる訳でして・・・どっちかというと、こっちの「依頼主獲得のための宣伝」のほうが本目的じゃないかとさえ思えるんです。 
 
つまり、中忍試験とは今の一国一里の、大名と里の関係を基本とする忍システムを保つための最重要なイベント・・・大蛇丸はそこを崩しにかかったということです。「里とは何か」・・・大蛇丸は三代目に問いかけたかったんじゃないだろうか。
 
さらに、穢土転生という大蛇丸から見たら、あまりいい術とは言えない術》で開発者扉間をはじめ歴代火影を呼び出し、火影を「戦うコマ」にすることで・・・「忍とは何か」・・・やはり三代目に問いかけたかったんじゃないだろうか。「プロフェッサー」と呼ばれる師・ヒルゼンに、忍とは何か里とは何か、もう一度原点に立ち戻ってその「本質」見つめ直し、里が抱える闇や矛盾に気づいてほしかったんじゃないだろうか。
 
木ノ葉が守ってきた「火の意志」は、先代の教えを守り、大切に受け継いでいくこと・・でも同時に、古いものを守り変えないということでもある。いいこともあるけれど、良くないモノもそのまま・・・ 
《動いているモノを見るのは面白い・・・止まっているとつまらないでしょ・・・回ってない風車なんて見るに値せず・・・ってね かと言って・・・止まっているのも情緒があっていい時もある》と言っていたのは、そういうことなんじゃないだろうか。 守るべきモノもあれば、変わっていかないといけないモノもあると、大蛇丸は三代目に問いかけたかったんじゃないだろうか。
 
そして、それって・・あっちの戦場でナルトが見出した答え、「堪え忍ぶ」(変わらない)から「耐え忍ぶ」(つなぎながら変わっていく)とも、共通してるような気がするんですよね・・・
 
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あの時・・・師のヒルゼンに、涙を堪えつつクナイを突き付けた大蛇丸の背中は・・・
震えていた。
 
 
 
《里とは・・・》
《忍とは・・?》
 
《そして、自分は何者なのか》
 
 
・・・・その答えを誰よりも知りたいのは、大蛇丸自身なのかもしれません。
 
 
 
☆長駄文、読んでくださって感謝。
 
 
 
 
 
 
(ナルト好きブログ! 書庫「大蛇丸」 2013/02/13)