ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

NARUTO-ナルト-の考察(伏線、言葉、人物考察などなど!)続行中!

「マリオ」と「NARUTO」

「マリオ」と「NARUTO

ジャンプスクエア」の、岸本先生の「マリオ」、読んでみました(そして、先生のインタビューも)。
 うん、扉絵・・カッコいいですね。
 
インタビューによりますと、NARUTO連載前、キッシーは「自分は少年誌には向いてないから、青年誌向けのほうがいい」と考えて「マリオ」のネームを描かれたんだとか。 だけど「マリオ」のような青年誌向けの漫画より、若い今しか描けない漫画を少年誌で描いたほうがいいと言われて描いたのが、「NARUTO」なのだとか・・・
 
NARUTOも確かに・・・初期の頃は「少年漫画らしさ」も十分あるわけだけど、いきなり第一話から、かなりヘビーな内容があったりで、色々と深い問題を内包していたりします(先日の雑考でもちょっとだけ触れましたが・・)。 
そして最近のNARUTOは、扱っている問題がより深く、正直大人が読んでも「手ごたえ」と感じることが多いです。 でも、だからといって、けして「難解」という訳ではなく、読む年齢層によって感じ方、読み方も様々だろうと思うし(そして、それが「可能」ということ)、いくらでも深く考える事「も」出来る・・・それがまた魅力なんですよね(と感じてます)。
 
そういえば、コミックス63巻の「作者からの一言」に、こんな事が書いてありましたよね。
 
《最近マジで感じるんだよね、歳とったと…(中略) 第一進化を終え、今やオッサンからジジイに第二進化中!ポケモンは強くなるけど人間は弱くなるんだね!でもマンガはガンバル!!》って。
 
連載開始から約14年、先生自身も「進化(変化)」されてるんだなぁと(失礼)、いや、ジジくさくなったわけじゃなくて、「少年誌を描くのにふさわしい年代」を超えて、以前目指しておられた「青年誌」向けの内容を描かれる「時」が熟している事を、先生ご自身が感じられているのかな、と・・・。
といいますのは、最近のNARUTOを読んでいて感じる事が、「大人達」が実に魅力的に描かれているという事なんです。 何といいますか、初期の頃(第一部)は「主人公ナルトや同期達」の眩しさが、際立って感じられるのですが(大人の登場人物達に比べて)、最近のNARUTOでは、主人公のナルト以上に、周囲の大人達(それも「年配」の人達)に輝きを感じてしまうのです。特に、最近の大蛇丸なんて輝きまくっていますから(笑) 
 
それは「大蛇丸が毒抜けしていい感じになった」という意味じゃあなくって、サスケ達新しい世代の成長に目を細めていたりとか、そして彼らを全力で見守ろうとしていたり、だからといって「失敗した己」を責めたり卑下したりではなく そんな自分自身のことさえ「温かく」正直に受け入れてる・・その姿が「美しい」と感じてしまうのです。 
大蛇丸のような「若い世代を見守る魅力的な大人達」が生き生きと描かれているのは、先生がNARUTOと共に「時を歩まれた」賜物なのかな・・と(って、全然マリオの話になってませんな・・)。
 
先生は、マリオで「いつもとは違う岸本斉史をみてもらえるとすごく嬉しいです」とインタビューでおっしゃっていますが、NARUTOの「先入観」があるせいか、私はマリオにNARUTOに近いものを感じてしまいました(先生ゴメンナサイ・・)。 いや、主人公は大人だし、舞台はニューヨークだし、出てくるのは拳銃と札束、タバコにコーヒーだったり、シャガールの絵だったりと・・たしかに描かれた世界から漂ってくる「ニオイ」は全然違うんだけど、NARUTOと共通するテーマを感じてしまったのです。
 
「自分はこの世界でずっと生きてきたんだぜぃ」みたいに突っ張っていた主人公マリオが、「感情を消してしまった」人物(サオリ)と出会い、忘れていた「つもり」だった愛を取り戻して「自分自身」も取り戻していく・・これも忍達の話と似ているなぁ・・と思ってしまったんです。 もちろん、こういった「突っ張りながらも 必死で生きてる、愛すべき人間達」の姿は、岸本先生にとって重要なテーマなのかもしれないし、先生の漫画ならではの「個性」といえるのかもしれません(赤マルジャンプに掲載された読み切りの「NARUTO」にも似ているテーマといいますか・・)。 
「マリオ」は、「NARUTO」以上にドライで殺伐とした世界が描かれているのに、最初と最後を「柔らかな愛を描いたシャガールの絵」(「誕生日」というニューヨーク近代美術館MoMA所蔵の絵)で挟んでいるという・・・そこがいかにも岸本先生らしい優しさを感じて、ホッとします。やっぱり、そこに在るのは「愛」なんですよね。
 
あと、NARUTOと共通するものを感じた部分なんですが・・・似たアイテムを使って場面をつないでいく方法とか(葉巻からタバコとか)はNARUTOでもよく見られるし、「愛よりお金」がモットーで 人殺しも厭わない主人公が“お母さんの形見”だけは大切に身につけていたりとか・・・大切な「対」になるお宝を「プレゼント」して、自分の想いを託したりとか・・なんだか今のNARUTOと重なって見えてきちゃうんです。
 
そして今まで、自分の生き方に疑問を持っていなかった主人公・・いや疑問を感じていたとしても、それをおそらく「見て見ぬフリしてきた」主人公マリオが、『自分とは全然違う』と思える人物(サオリ)と出会い、彼女の中に思わぬ「自分自身」を見出していく・・  
実はコレ・・・今週のNARUTO(628話)を読んで、同じような事を感じておりました(これについては次回の雑考で・・と思っています)。
 
NARUTO「日本風なのか外国風なのか分からない」ゴチャゴチャ感が個性的な魅力となっていますが、マリオは舞台はニューヨークで登場するのはシチリア系マフィアと日本人という、これまた「ゴチャゴチャ感」満載・・。
ですが、こちらは「読み切り」という、ごく短い話の中なので・・・これに関しては、ど~も自分は、その世界観に馴染みきれず、軽い違和感があるまま終わってしまいました(す、すみません)。 サッと読むと「渋い大人な話だなぁ」で終わっちゃいそうだったんですが、噛みしめると味があるお話だとは思うので・・・もっと長編で読みたかったかな(残念)。
 
大都会という「いかにも」の場所で、殺し屋という「いかにも」な人物で、「いかにも」な心の「穴」を抱えている・・ 話としては、確かに「いかにも」青年誌向きの内容なのでしょうか。 だから「オトナな世界」で難しそうに感じるんだけど、実は共感しやすいというか・・現代社会で働き生きる、一般の人達にも、分かりやすいというか・・・
 
一方で「NARUTO」の場合、純粋で真っ直ぐなナルトの「意外性」が光っています。 そして、それが「いかにも少年誌向き」に思えるのです。  
ですが、読み進めると・・ナルトが意外と「屈折した自分」やら「闇の自分」を持っていたり、言葉を曲げないと言いながら「意外な脆さ」も見せたりと、「逆の意外性」も持っていることが分かってくる。 そして物語もドロドロとした人間の心、生き様を見せつけ、「少年誌でありながら青年誌のようでもある」意外性の面白さを感じるといいますか・・・何重もの「意外性」が、私にとって飽きない魅力になってます。
 
あれれ、「マリオ」を読んだというのにNARUTOの「魅力」を再発見してしまったような・・・なんだか作者に申し訳ないような、コレ、いい読みかたとは言えないですね。ゴメンナサイ・・。 読んだ方、もしご意見があれば・・・聞かせてくださいな。