ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

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サスケ、そして敵を「知って受け入れる事」の意味と 忍世界の「これから」・・・

サスケ(そして敵を)を「知って受け入れる事」の意味と、忍世界の「これから」

『憎しみ』をどうやって克服するのか---ナルトとサスケの「ここまでの道程」って、大切な者を失った悲しみ、そして憎しみをどう克服するかを知る道程でもあったと思うんです。 ナルトが自来也に託された、その「答え」…
 
《こんなワシでもこの忍の世に憎しみがはびこっているのは分かる その憎しみをどうにかしたいとは思っとるんだが どうしたらいいのかワシにもまだ分からん…》  (自来也416話の言葉)
 
そして、長門が言っていた「痛み」---
 
《死に意味を見出そうとするが… あるのは痛みと どこにぶつけていいか分からない憎しみだけ…》。
 
《大切なヒトの死という受け入れ難い悲しみを、どうやって乗り越えるか》という問題に対して、ナルトがこの戦争で出した答えは《死んだ仲間の想いを大切に生かして繋いでいく》というものでした。 
 
そして、サスケは―――
 
《里を守り、里を変える
(だから)火影になる》と言っていましたが、サスケは《イタチを苦しめた里への憎しみ》を忘れたわけじゃあないと思うんです。それどころか《前にも増してどんどんそれが強くなる…》とも言っていましたっけ(62巻、589話で)。 
 
忍世界の、今までの憎しみのぶつけ方…それは「報復」ですよね、やられたらやり返す。制裁する。 サスケだって御多分に洩れず当初は《里を潰す》事を考えていたワケですよね。 要するに、里がイタチに対してやった事は、サスケが考える正義に反している。 だから、それに対する「制裁=復讐」をするという事…。 
サスケが今までやった事、やろうとしていた事は、道徳的にも掟(法)的にも間違ってる事もあったけど、サスケの「報復=復讐」という行動は、今までの忍世界の考え方としては「当たり前」の発想だったのかもしれません。 だいたい今までの忍世界では、「報復」どころか「危険と疑われる芽は予め摘んでしまう」という極端な事さえ行われていたぐらいですから… 
 
だけど、サスケは憎しみの矛先、憎しみのぶつけ方の手段を変えましたよね。 「里を守り、里を変える」という答えを出した…憎むのは「里そのもの」ではないと。
 
で、サスケが発想を「変えた」理由は、やっぱり「兄さん」だと思うんです。 
イタチがカブトに対してやった事…それがサスケの考えを大きく変えるキッカケになったと思うんですよね。つまり、イタチが「敵であるカブト」に対して「制裁」ではなく「理解して助ける」という答えを出した事・・・これが大きいと思うんです。
 
イタチがカブトに「イザナミ」という「仲間を本当の意味で助けるための術」をかけた事について、サスケは納得いかないと言った調子で「こんな奴の為に何で兄さんがそこまでする義理がある!?」とイタチに問い詰めてましたよね。 でも、サスケの問いに対するイタチの返答は…
 
「こいつは昔のオレに似ていた」
「こいつのことも分かるんだ」 
「確かにこいつのやっていることは間違ってる だが…こいつだけを責めるのも間違いだ」。

 
サスケにとってイタチは完璧だし、カブトは「間違いだらけ」。 

なのに、イタチはカブトを『自分と似ている』と言い、『分かる』と言った。 しかも『この忍の世に翻弄された者同士』、同士とまで…。
 
そして…火影達の話を聞いて、サスケはどう思ったんだろう? 火影達とイタチも「似た者同士」…同じ想いと痛みを抱えていた者同士。 だから《火影達、里だけを責めるのも間違いだ》と思えたのでしょうか。 本来ならイタチを追い込んだ里を守ってやる「義理は無い」と思えるけど、イタチがカブトにしたように…「理解して助けようと」思えたんだろうか。
 
木ノ葉へ向かう道中、サスケは大蛇丸…アンタは木ノ葉を一度潰そうとした… 初めは気まぐれだと言ったアンタの言葉を信じたが…今は違うと分かる…  本当は…何だったんだ?》大蛇丸に尋ねていましたっけ。
大蛇丸の木ノ葉崩しの目的については以前、少々雑考した事がありますが(※「大蛇丸の涙」)、大蛇丸は「止まって一向に動こうとしない風車」を回し、里が抱える矛盾や闇にメスを入れたかったのかとも思うんです。 
 
以前(18巻)大蛇丸はこんな事を言ってたことがあります…《幾多の戦争経験がそれらを準備し得るだけの知識となった… 幾人もの犠牲がそのスタイルを作っただけよ》 《人は何かを失って初めてその物事の本質に気付く…》と。  
 
これは、綱手が確立した医療忍術のシステムについて語っている言葉なんですが、当時はコレ、いい訳だと思ってたんです、大蛇丸がやらかしてる数々の残虐な実験に対する言い訳かと。 
だけど今考えれば、これは今の木ノ葉の繁栄や栄光、称讃される物事の多くに裏には「数多の犠牲がある」ことを言いたかったのか…あるいは「木ノ葉崩し」で里の繁栄を一度失ってみないと《人々は里というモノの本質に気付かない》と言いたかったのかなとも思うんです。
 
大蛇丸は「木ノ葉崩し」という答えを出したわけですが…サスケが出した答えは、相手を知り、そして里を中から「変えていく」というものだったんですね。 《憎しみ》をどうするか―-ナルトは大切なヒトの意志を生かして繋げていくと答えを出し、サスケは相手を知り変えていくという答えを出した。 
 
そして2人がそれを実現するために目指したのが共に「火影」だったということなんですよね。
 
もちろん、サスケの火影への道のりはメチャクチャ険しいと思います。
我愛羅みたいに…いや、我愛羅以上に認められるまで大変だと思うんです。 我愛羅は自分から皆に飛び込んでいって、それでも認められるまで3年かかったわけですが、サスケはどうなんだろ・・? 全てはサスケの「これから」の行動にかかっていると思いますが、サスケだってその難しさは想像できるだろうし、けして軽々しく「火影」を口にしたわけではないと思うんです。 
でも男が口に出して「言ったからには」、棘の道だろうが何だろうが、ひたすら誠意を見せて意志を「行動」で証明してほしいと思います。口先だけにはすんなよ・・!と。
 
それはサスケが「里」を受け入れ、認めていく道でもあると思うんですよね。 そして、ナルトや同期達、そして里の人達にとっても「サスケを受け入れ認めていく」険しい道でもあると思うんです。 
サスケを受け入れ理解していく事は、同期達や里の人達にとって色々と抵抗があるとは思うんですが、彼らにとって「サスケと向き合う事」は、とてもとても大きな意味があると私は思うんです。
 
この戦争編…既に《大きな転換点》を迎えていると思ってるんですが、今は「戦争後」に焦点が移ってきてるような気もするんです。 戦争を終わらせることよりも、「そのあと」どうやって平和を守っていくのか・・そっちのほうが、よっぽど難しいと思うんです。 
戦争後、敵をどのように「制裁」するのか…でも、相手を制裁する、抑えつける、報復するのでは今までと「何も変わらない」。 そしてそれじゃあ戦争や争いは、いつまで経っても無くならない。
 
「とりあえず」の暫定的な処分、処置は「その時」だけはよくっても、また新たな「敵」やら「問題」が出現してしまいます。 これ、大蛇丸が扉間に対してちょっと皮肉っぽく言った事でもありますよね、
《アナタのしてきた政策や作った術が 後々やっかいなことになってばかりでしてね》・・と。 
つまり…相手のやってる事を「悪い」「間違い」だと一方的に責めて罰するだけでは、ただの暫定的な措置にすぎず、根本的に何も変わらないと思うんです。 そのままなら、結局いつかは…「誰かがまたオレ達と同じようなことをするようになる」 (612話のオビトの言葉)。
 
(扉間の政策については、ただ単純にクサいものに蓋的な暫定的なモノだったとは限らない・・と個人的には思ってはいますが・・)。 
 
なぜ相手がそんな行動を起こしたのか、なぜそういう問題が生じたのかを考える事・・・それって蔑ろにすべき事ではないと思うんです。 どうして里のシステムは《本末転倒》になってしまったのか…レジスタンスを起こした相手の行動にこそ「己(里)を知り、己(里)の問題を解決する」大切なヒントが隠されていると思うのですよ…相手を「知ることの大切さ」にナルトや同期達にはぜひ、気付いてほしいと思うのです。。
 
だからサスケ「だけ」を責めるのは間違いじゃないかと思うんです。 サスケ側も、そして忍達も、皆《忍世界に翻弄された者同士》。そして忍世界にはびこった「憎しみ」をなんとかしたいと思っている《似た者同士》。 だからなぜこうなったのか、一緒に考えて問題の「本質」に目を向ける事が一番大切なんじゃないだろうか
(と思うんですがね・・)。
 
開戦の演説で、我愛羅『もしそれでも砂が許せないのなら この戦争の後にオレの首をはねればいい!』と言っていましたが、『もしそれでもサスケが許せないのなら、この戦争の後にサスケの処分を決めればいい』んじゃないだろうか。 でも“同じ痛みを知った者同士”、きっと分かり合えると私は信じているのですがね…。
 
《何であれ 一つとして一つで完璧なんてものは無いのかもしれない》
《だからこそ補うモノが引き寄せられるように生まれ… 側で対を成して初めて少しでも良い方向へ近づけるのだと思う》 
 (587話イタチの言葉)
 
ナルト達がサスケを受けいれ、サスケ側がナルト達を受け入れ、互いに歩み寄れば…少しでも良い方向へ近づけるんじゃないだろうか。 どちら側か「だけ」の答えではダメだと思うんです。
許せないと思う相手の事を受け入れてみる、そういう従来の「枠」を超えた発想が「新しい忍の世界」を創っていってくれるのではないかと思うんです。 そして、それが「憎しみ」を終わらせる答えに近いのではないか…と。

だから《ナルトとサスケ》…考えも発想も性格も違うこの2人が 火影に立候補したことはとっても意味があると私は思うのです
(キバ、無視したわけじゃないんだ・・ごめん)。
 
ナルトや同期達が「サスケを受け入れ、理解していく過程」は、これから「新たな問題」が生じた時にどう対処し向き合っていくかの重要ヒントになると思うんです。 頭ごなしに「そいつだけを否定」するのではなく、何故そういう問題が生じたのかと向き合う事・・それが大切なんじゃないかと。 ただ力で抑え込んだモノが勝つのではなく、相手を受け入れ理解しようと努める事・・その方がよっぽど難しいんだけど、それでも大切な事なんじゃないだろうか。
 
かつて六道仙人が十尾を己の体に取り込んで「抑え込んだ」ことを、六道仙人自身は「間違い」といい、そして今度こそ「正しく導かれる」と言ってましたよね。 ナルト達がサスケを受け入れる答えは、いずれ「十尾」を受け入れ理解していく「答え」に近づけるんじゃないだろか。 なぜ、十尾は忍達に怒っているのか、憎しみを抱えているのか…暴れる十尾を「制裁」するのではなく「知って」受け入れ、理解していくことで…
 
 
《だがいつかは…… 人が本当の意味で理解し合える時代が来るとワシは信じとる》
《答えが見つからんかった時は その答をお前に託すとしようかのォ!》
 (自来也
 
ナルトとサスケ、2人でなら・・・いや、皆でなら・・・その答も見つかるんじゃないだろうか。
たとえ“完璧”な答えじゃなくっても、”少しでも良い”答えが。
 
 
 
 
 
☆長駄文、読んでくださって感謝。
 
 

 
 

(ナルト好きブログ!2013/6/6)