ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

NARUTO-ナルト-の考察(伏線、言葉、人物考察などなど!)続行中!

「とか」と「とやら」 ・・・ サイとカブトにとっての「名前」 (大蛇丸の巧みなテクニック)

「とか」と「とやら」 ・・・サイとカブトにとっての「名前」

ナルトとサクラが「サスケとのつながり」にこだわりを見せる時、サイは決まって《ボクも第七班》という言葉を口にする・・・ ナルト達の気持ちが「旧七班」に行ってしまうと、サイは不安になるんだろうか。
サイが《ボクも第七班》であることは《サイがサイであるために》必要な、やっと見つけた、絶対に守りたい大切なことなんだろうと思います。
 
“根”の忍は固定の名前を持たない・・・「サイ」という名だって天地橋任務用の使い捨てコードネームに過ぎなかったわけで、当時のサイはこんなこと言ってましたよね、「サイという名はこの任務の為だけに与えられた名 ボクは誰でもない」と。
 
でも今は、サイにとって「サイ」の名前は大切な・・《木ノ葉の仲間達から認められた証》。 
 
61巻で、カブトが“うちはの名には羨望する”と言った時、イタチが「うちはという名はあくまで血脈(ルーツ)や所属を示す お前が名乗ったところで意味は無い」と答えてましたが、その時、カブトはピクッとして幼い頃の自分を思い出し、“意味はあるのさ”と顔をしかめて言っていた・・(キミに分かるわけないさ)と言いたそうに。
 イタチはカブトの事を「オレに似ている」と言ったけど、決定的に違うのはイタチは「オレは木ノ葉のうちはイタチだ」と言えるだけの大切な所属と名前を持っていたけれど、カブトにはそれが「無かった」ということ・・ 
 
「認められた名前が無い」という空しさは、経験したことがある者じゃないと分からないのかもしれない。逆に「名前がある」事の有難さってのも、普通はなかなか気づけないと思うんです。「色々と名前はある」けれど1つとして「認められた名前は無い」十尾の孤独、空しさ・・・そして使い捨てのコードネームは色々とあっても「皆に認められた名前が無い」“根”の忍の孤独と空しさは、共通する・・・
 
第三次忍界大戦頃に“根”に関わっていた大蛇丸は、“根”の忍達の《誰でもないことの不安》をよく分かってたんじゃないだろうか。 それに自身も幼い頃に両親を失っているから 忍の世に翻弄された子供達の気持ちもよく分かる。 だからなのかな・・カブトやサイに対しても、彼らの「心の穴(名前も無く自分の存在を実感できない不安)」を利用して接触してるんです。
 
 
 
・《カブトと、「カブトとか」》
 
大蛇丸とカブトの出会いは、第三次忍界大戦中・・まだカブトが孤児院にいた頃。 年端もいかぬカブトが甲斐甲斐しくマザーのお手伝いをしていた「理由」を、大蛇丸は見抜いていたんですねぇ・・。 その「理由」とは、マザーに自分の存在を認めてもらうこと、院にとってマザーにとって「自分が必要とされる存在である」こと・・それが幼いカブトにとって《ボクがカブトであるために》必要な事だったからだと思います。
 
カブトに治療してもらいながら、マザーとカブトの会話を観察し・・大蛇丸《この少年は「カブト」という名を与えられているらしい》と知ったみたいですが、こんな言い方をしているんです。
 
「カブト・・・とか言ったね・・」
 
「君 忍になれば?・・いい忍になるわよ」
 
 
カブト「とか」って; いや、そこ「カブト」でいいから(笑)

「君、カブトと言うのね」でもいいってのに、あえて「とか」を付けた大蛇丸・・ちょっと意地悪なんですよね。 
 
カブトという名前は「仮の名前」であることを、さり気な~く突っついてるんですが、でも当時はまだ「一生懸命で前向きだった」カブトは、大蛇丸の言葉を気にしている様子は全然ないんです。だけど、大蛇丸はカブトの深層心理に在る「漠然とした不安」を見抜いてたんですねぇ・・この少年は《自分が「カブト」として認められたくって必死なんだ》ってことを。 《カブトという名を失いたくないから必死なんだ》って。
 
そして大蛇丸が見抜いた通り、カブトが抱える《「とか」という存在である不安》は、次第に目に見える形となって大きくなっていく・・・。 
 
数年たって再会した時、大蛇丸は・・今度はこう呼びかけてやるんです。
 
 
「私は覚えてるわよ・・カブトと。 
 
今度は「とか」ではなく、「カブト」と。
 
カブトが「自分は誰だ」と分からなくなった時、大蛇丸は「アナタはカブトなのよ」と認める発言をしてやるんですね。 そうやって、大蛇丸はカブトの心を掴んだ・・・(実に、お見事)。
 
 
・《サイと、「サイとやら」》
 
サイと大蛇丸の出会いは(33巻の)天地橋においてですが、ダンゾウの使いとして接触してきたサイのことを大蛇丸は・・当然の如く「信用しない」。 マニュアル通り用心深く「墨分身」で接触してきたサイに「目上の人には顔を見せて話すのが礼儀」と叱るんですが・・これは、ごもっともですな。 
分身という“仮の体”に、サイという“仮の名前”。 そんなヤツを信用しろと言われたって、まぁ・・無理ですよね。
 
でも大蛇丸にも考えがあったのでしょう、とりあえずサイを形だけ受け入れてるんですよね、「今日から私たちの部下になるのよ」 「その子も一緒に連れていくわ」と。ちょっと優しい感じで。だけど・・・
 
シッカリと、こう言い渡してもいるんですよね、
 
 
「サイとやら・・・ じゃあ行こうかしら・・・・・・」
 
 
「サイ」じゃなくてサイ「とやら」。
 
あくまでビジネスライクな関係でしか認めないという意味を含めた、サイ「とやら」。 
「とやら」が示すのは《仮の名の、とりあえずの存在としてしか認めない》という事だと思うんです。 サイを一人の人間として認めた訳じゃあない。
 
一方で、サイはそれを気にした様子はありませんでしたが(というか、作り笑顔で反応しただけだったんですけど)、それは「任務」と割り切っていたからでしょうか。 でも、この時も大蛇丸《サイが知らず知らずのうちに抱えていた心の穴》をつっついてるんですね。
 
その後、サイは大蛇丸とナルトの前で「どちら側に付くのか」選択を迫られるのですが、この時大蛇丸はサイに揺さぶりをかけるんです。
 
「さて・・・」
 
サイ・・・ アナタはどちら側につくのかしら?」
 
・・・今度は「とやら」無し。


「とやら」無しの「サイ」呼びで、サイの存在を「認めてやる」かのような発言をするのです。 
 
そもそも《ナルトと大蛇丸の間で迷っている》時点で、サイは「任務に徹する事」つまり「仮の存在サイ」であるよりも、「実体であるサイ」でありたいと思っている・・。 サイが「サイとやら」ではなく「サイ」でありたいと思ってる事を見抜き、効果的なタイミングで「サイ」と呼んでやることで、自分こそ「理解者」であるかのように振る舞い、揺さぶりをかけた大蛇丸・・・「さすが」と言うべきか。 
 
しかし、サイは「ナルト側」を選び、それを見た大蛇丸は・・今度は険しい表情をし、態度を一変させ、突き放す代わりにこう言い放つのです・・
 
 
「やはりそちら側のようね・・・」
 
「サイとやら
 
(305話)



 
☆長駄文、読んでくださって感謝。
 
 
 
(ナルト好きブログ!2013/06/20 634話雑考追加)