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登場のしかたの美学 (うちはマダラの「登場のしかた」について)

登場のしかたの美学 (うちはマダラの登場のしかたについて)

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「もう待ったは無しだ」
 
「柱間!」
 
 
639話・・・柱間の前を塞ぐようにして、ザッと飛び込んできたマダラ。 
 
相変わらず“登場のしかた”が派手ですが、今回は柱間を「止める」ために立ちはだかったわけですが・・意外と「地味」なほうだったと思うんです。 なにせ、あの鬣(たてがみ)みたいな莫大な量の髪の毛が、着地すると一斉に逆立つから、それなりに派手に見えるんですが・・あれでも「マダラとしては」地味に登場したほうかと。 
 
マダラの腕組みポーズ(いわゆるマダラ立ち)については何度か考えたことがあるんですが、今回は「登場のしかた」についてちょっとだけ。 
 
過去にナルトの《ヒーローは遅れてやってくる》式登場のしかたとか、大蛇丸《捕食者としての》登場のしかたについて取り上げたことがあるんですが、「登場のしかた」というのも一種の「自己アピールの方法」だと思うので、人によって個性がいろいろ・・なかなか面白いと思ってます。 
 
マダラの「登場のしかた」といえば、「ド派手」な印象が強いんです。 何といっても《マダラ最初の登場のしかた》が、あまりにインパクト大でしたから… 
559話で、棺桶のフタを《ドッ》と派手にブッ飛ばしての登場でしたから(普通はカコン!とフタが倒れるぐらいなのに、穢土転マダラは“爆破したの?”と思えるぐらいの勢いだった・・)。 先週、この部分をアニメで観ましたが(まだ観てない方はゴメンナサイ)、このぶっ飛ばしが「かなり控えめ表現」で、個人的には「あれれ?」だったんですけどね・・(あくまで個人の感想ってことで、ご容赦)。
 
ようするに、マダラは「普通には登場しない」…“我こそは力”と言わんばかりの自己アピールが、とにかく強烈と言いましょうか。
 
もう1つ、これまた驚かされた「登場」・・・63巻600話で、ナルト達とオビトの戦場に いきなり《ゴッ》と隕石みたいに落ちてきましたよね(笑)  
あのド派手な登場のしかた・・・同じ派手な登場でも、ナルトやミナトみたいな「ヒーローみたいなカッコいい登場」とも違う。 威嚇のような登場のしかたなんですよね。 この時は、オビトには思いっきり嫌な顔をされてる…
どうしてフツーに登場できないの?とも思うんですが、これ、かなり「意図的」ですよね(たぶん)。 
普通に棺桶の蓋を開けることだって出来たハズなのに、久しぶりのシャバに出るにあたって「我こそはマダラ」とカッコつけて出てくる必要があったんだろうか。 
そして隕石みたいに突っ込んできた時だって、当然「普通に」サッと着地出来るハズなのに、ワザとオビトの真横の岩に突っ込むなんて・・・アレはオビトへの「威嚇」、そして「嫌がらせ」だったんじゃないかと思ってます。  「輪廻天生じゃなくて、穢土転生しおった」事、そしてど~やら「当初の計画通りじゃない事」を企んでいるっぽいオビトに対しての、ちょっとした「イヤミ」。
多分、心の中では《今まで何をしていたんだ?》と苛々してたと思うんですが、そのイライラを、あの《ゴッ》で表現したんだろうか、と。
 
ようするに、マダラの無駄に派手な「威嚇的」登場は、意図的な「カッコつけ」でもあります。 「カッコつけ」といっても、「カッコいい」と思ってもらう為ではなく「貫禄の見せつけと威嚇」の為の演出・・・
だいたいマダラって人は、オビトに「マダラ」の名前で尾獣集めをするように命じて「うちはマダラ」の名を恐怖のイメージとして世界に植え付けようとした人ですから、登場のしかただって「恐怖を与える」為に効果的な方法を考えたんじゃないかと思うんです(「マダラ立ち」だって、恐怖を与えるには効果的)。 マダラには、自分の名を「恐怖」とする必要があったんだろうと・・。
そして、もう1つ・・・マダラがそこまで「威嚇的な登場」にこだわるのは『柱間へのライバル意識』もあったんじゃないだろうか。 なんといっても柱間には「独特なオーラ」がありますから。
 
たとえば、マダラが思い出す《最強の忍》としての柱間の絵は、意外と《ごく普通に立っているだけの姿》だったりします。 なのに、普通に立っているだけでも自然と醸し出される《最強のオーラ》…なぜか圧倒するような余裕のオーラが柱間にはあるんですよね。 
「登場のしかた」についても、柱間には特に「こだわり」を感じないんです。 普通にザッと着地して、取り立てて目立つような事はしない・・それでも「貫禄」が十分ある。 マダラが「立ち方」や「登場のしかた」にこだわるのも、そういった「オーラ十分」な柱間に対抗したかった・・というのも理由の1つだったんじゃないだろうか。
 
でも、そんな威嚇的な登場をしなくっても マダラという人にも充分貫禄があると思うんです。普通に現れて、普通に立つだけでも十分オーラはあるんです。 
369話(今週)、柱間の前にスッと立ったマダラは、いつもと違って「普通に立ってるだけ」なんですよね。631話の「待っていたぞォ--!!柱間ァァ―!!!」の再会の時みたいに、構えてカッコつけてる訳じゃない…つくった感じが無くて、自然でドーンと自分を「開いている」感じでね・・よっぽど、こっちのほうが貫禄がある。
 
なのに、マダラが威嚇的な登場をしたりするのは《自分には柱間みたいなオーラが無い》と思い込んでいたのか・・・よほど自信が無かったんじゃないだろうか。 一族にも信頼されてない、約束も守れない「ダメな自分」と思っていたみたいだし・・・それに何と言っても「後ろに立たれるとダメ」なほど繊細な人。いつも自然体で堂々としている柱間にくらべて、マダラは「ホントはちょっとだけチキン」で気が小さかったりするのかも(なんて思ってしまうんですがね)。 マダラの威嚇的な登場のしかたは、そんな自分を隠すための演出でもあったんじゃないかと思えてしまうんです。 
624話の柱間の回想中でも、イズナに「ダメだ兄さん・・奴らに騙されるな」と言われている場面がありますが、意外と弟のイズナのほうが「しっかり者」で、マダラは「戦闘一族の長」としてはお人好しで繊細過ぎる人だったんじゃないかと疑ってます。 
 
「マダラ」のイメージを「恐怖、力の象徴」として人々に植え付けようとしてきたのも同じ理由だったんだろうか。 「本当の」自分を偽るため、隠すための演出・・・ 
だとしたら「本当のマダラ」という人は・・・その「逆」だったりするんじゃないだろうか。
 
 
 
 
☆あくまで個人の感想です(笑)・・と逃げておきます。
 
☆「登場のしかた」、他の人達の登場のしかたについても、少しずつ続けさせてください。
 
 
 
長駄文、読んでくださってありがとうございます(感謝