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登場のしかたの美学 (千手扉間の場合)

登場のしかたの美学 (千手扉間の場合) 

今回は、「千手扉間の登場のしかた」について、ちょっとだけ。
 
個人的に、一番登場のしかたが『様になってる』と思うのが、扉間なんです。 扉間の登場ポーズ・・子供の時から変わってないんですよね↓
 
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片手をついて、片膝を曲げる・・・638話でもやってますが、基本はこのポーズ。
 
即攻撃出来るような体勢で、好戦的なスタイルでもありますが・・・「片手を地面に置いている」のは、お得意の感知能力を活かし、速攻で「地中の電気信号を指で感知するため」でもあるんじゃないかとも思ってます。
 
マダラの登場のしかたの記事中でも触れましたが、扉間の兄者「柱間」の登場のしかたは無造作な感じがするんです・・・だいたい両足でドスン!と着地していて、正直あまり「カッコいい」わけではない(個人の感想ってことで)・・・扉間の洗練されたスタイルとは違う。 けど、「圧倒的な強さと、おおらかな人柄」が全身から滲み出てちゃってるから、たとえ「ドスン!」であっても、柱間はそれでも「様になる」んです。 そんな『偉大過ぎる兄者』の側に居ても、扉間という人は、柱間と自分を比較して「己を卑下する」素振りは見せないんですよね。 
扉間は、幼い頃から「兄者には無い自分ならではのモノ」をしっかり認識してる・・・兄者には無い“冷静な状況判断力”を、自分は持っていると分かってる・・・だから自分に自信を持ってる。
 
もっとも、扉間が自分の「長所」を自覚出来たのは、兄者・柱間が「全てにオープン」だという事・・・自分の弱さ、欠点も隠そうとしないし、余計な「かっこつけ」をしないせいもあるんじゃないだろうか。 
兄者の不器用な姿を見て、《兄者より自分のほうが冷静で賢い》と扉間は幼い頃から自覚していたのだろうし、それが「自信」につながったのか・・・たとえ柱間のほうが存在感が大きくても、扉間はいつも「堂々と」してるんですよね。 自分にしかないモノがあるという「誇り」を、扉間には感じるんです。
 
たとえば、くだらない例ですが・・・
扉間って人は、首のあたりにファーを付けていたり、なかなか「見た目にはこだわりがある」のかもしれませんが(あのセンスがいいか悪いかは、意見が分かれそうですが)・・・それは、兄者柱間が、あまりにも「見た目を構わない」せいなのかもしれません。 柱間のほうは、マダラにさえ「ダサい」と言われちゃった過去がありますが、扉間だって兄者のことを「少々ダサい」と思っていて、自分はすこし「見た目」も気にするようになったのではないだろうか・・なんて(個人的には、柱間はそれほどダサいとは思わないのですが)。  だから、扉間は兄者がいつも「ドスン!」と(ちょっちカッコ悪く)登場するのを気にして、せめて自分は「もっと洗練されたカッコいい姿で」と思っていたのかも・・。
 
だからといって、扉間のあのカッコつけたような登場のしかたは、ただの「パフォーマンス」的な、虚勢を張ったモノには見えないんです。 彼の颯爽とした「登場」は、ごく自然で・・・その自然さは、扉間の「自信」からきていると思えるのです。 兄者には「無い」、洗練されたカッコよさを自分は持っているという自信・・・そして兄者には無い「冷静な判断力」があるという自信、兄者には無い感知、時空間忍術を持っているという自信・・・数々の「自信」が、堂々とした扉間の登場のしかたの「自然さ」から感じられるんです。
 
でも穢土転された時の扉間は、大蛇丸から「穢土転生の術」について散々言われてましたよね。
「後々厄介になった」とか「作るべき術ではない」と言われたり・・・おまけに兄者からも「あまりいい術とは言えぬ」と言われてましたっけ。
 
だけど、扉間は反省もしていない・・・。 
 
他の火影達が、自分はやってきた事を反省したり後悔したりしても、扉間は反省や後悔っぽい事は言わないんですよね。 過去の事をグチグチ言うのは嫌いなのかもしれないし、自分の開発した術にも自信を持っているんじゃないだろうか。 
 
639話では、己の穢土転生の体を利用して、穢土転生の「道連れ」的な術の使い方である「互乗起爆札」を披露してましたが・・それも「自信たっぷり」な感じ。
 
「穢土転生の術はワシが作った」 
「それに合った戦術もな・・・ 己の体でやるのは初めてだが」
「こうやるのだ」
 
おそらく扉間の生前の頃から、穢土転生の「道連れモットー」な戦法は“汚い”と散々批判されていたのでしょう。 だけど、扉間はそれも「気にしていない」・・・ たとえ世間がどう評価しようが、自分が開発した術に誇りを持っている。 だからこそ「卑屈になることは無い」とばかりに、今度は「己の体で」堂々とやってみせる・・・己の体を塵にすることを、ためらうこともなく『誇り』を持って。
 
ここまで堂々とやられると、かえって清々しいというか・・・
 
他人に何と言われようが、己で己の評価は下す。 己が正しいと思ったら、それを貫く。
まったく「迷い」を見せない、堂々とした態度・・・その精神力の「強さ」が、あのカッコつけたようなポーズの「登場」も、ごく自然に見せているのではないか・・と思えるのです。
 
 
 
 
☆長駄文、読んでくださって感謝。
 
 
(ナルト好きブログ! 2013/08/01)