ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

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忍達の「自立」の物語 (2) 682話感想付け加え

忍達の「自立」の物語 (2) 682話感想付け加え

 
 
 
この絵…「皆の書」に番外編として載っている「ナルトと自来也の修業の旅」のひとコマです。 
 「TバックTバック~(のおねェちゃんを出せ)!!」と騒ぎすぎて、Tバック(まわし)の相撲ナルトにやられてしまった、ちょっと情けない自来也の姿。 うん…あの番外編を読むと、今週(682話)で回想中の自来也《(ナルトは)ミナトよりワシに似てかわいいところがあってのう…》と言ってるのも頷けちゃいます。
 弟子が開発中の新作「エロ忍術(おいろけの術)」に振り回される師匠と、師匠が執筆中の新作「エロ小説(イチャイチャタクティクス)」を「すっげーつまんねー」とバッサリの弟子と… やっぱりこの師弟は似た者どうしの型破りなコンビです。
 
 自来也は旅をしながら(エロ)小説を執筆し、大真面目に「ワシは自分の書いた本でこの世を変えるつもりじゃ!」と宣言していた。 師はエロ小説で世界を変えようとし、弟子はエロ忍術で世界を変えようとする…それも二人とも「大真面目に」。
 で、実際に自来也の本(ド根性忍伝とイチャタク)は「世界を変える」のに貢献することとなった…
 
 682話でカカシは《まさかナルトのこのエロ忍術が世界を救う事になるのか!! 見てますか!!自来也先生!!!》なんて言ってますがね… カカシはイチャイチャ愛読者だし、自来也の“106センチ”発言やら「自来也のエロさ」もよーく知っている。だけど、自来也のエロ本「イチャタク」がペイン戦で「暗号のヒント」となった事もカカシにとっては記憶に新しい(音読させられちゃったもんね)… だから自来也のエロ本が世界を救った」事はイヤでもよく知っている(ちなみに「ド根性忍伝」も世界を救ったんだけど、その件はカカシはよく知らないハズ)。 
だから…似たモノ師弟が「エロ本」と「エロ忍術」で世界を救うってことも《十分あり得る》とカカシは思ったのだろう(と…思います)。
 
…とはいえ、自来也が小説で世界を変えようとしたのは『夢のお告げ』を大蝦蟇仙人(ガマ丸)から受けていたからでもありますよね。 それを「自分に与えられた使命」として受け取っていた…
 
あの《大蝦蟇仙人の夢のお告げ》は、うちは側の《六道仙人仙人の石碑》と対をなし、ある意味「忍を一本道に導く道案内のようなもの」であり、ガマ丸の見る夢は「必ず当たる」のは、その夢は「神の夢」で、神は夢を「現実化」出来てしまうのではないか…と以前の雑考で書いたことがあります。 今週カカシが「一瞬で世界を書き換えそれが実体である事…まるで幻術だよ…これこそ」と言いかけてましたけど、神は夢を何でも実現できてしまうのではないか…だからガマ丸の夢は「必ず当たるんじゃないか」と思ったりしてます
 
(結局、カカシは「これこそ…」の次に何と言おうとしたんでしょうね、サクラのセリフで遮られてしまいましたけど…  前もこういう場面ありましたよね、大蛇丸が「それとも…」と重要な事を言いかけたのに香燐のセリフで遮られたことが。あの時みたいな歯痒さだ…)。
 
 そして「お告げ」を受けた人はそれなりにいるようで、たとえばガマ丸本人も、ハゴロモも受けていたみたいですよね。  
でも、お告げが必ず「当たる」のは「神の力(運命の力)」のせいだけではなくって、お告げを受けた人がそれを「己の運命」あるいは「己に課された使命」と考え、実現しようと努力するからじゃないか…なんて思ったりもします。 
ある意味「お告げ」とは「道案内」であって、受けた人は一本道に導かれているのではないかな…。
 
大蝦蟇仙人が見た「自来也の夢」は…
 
《夢では世界を歩いて本を書いておったのう 世界をめぐり森羅万象を見て回るということじゃろうか》そして《お主は変革者を導く者》《お主には大きな選択を迫られる時が来るじゃろう》…
 
お告げを聞いた自来也は、旅に出て本を書きはじめ、変革者を導き、そして彼の著作(ド根性忍伝、イチャタク)は世界を変えるきっかけにもなった。
だけど一番大切な彼の作品は自来也豪傑物語』…彼の生き様そのものじゃないかと思います。
 
「物語」を書くという事は、自分ではじまりも過程も結末も決めること、誰かに決めてもらうのではなく…自分自身でつくっていくこと。「森羅万象を見て歩く」…自分の目でいろいろと見て確かめ、自分で考え、自分で歩く道を探す。そういう生き方をする事が「本を書く」というたとえで表現されていたんじゃないだろうか。
 
 うちは側の道案内「石碑」は黒ゼツが改ざん(あるいは一部捏造?)したらしいですが、これはホントに酷い話ではありますが…まぁ…そういう事ってあり得る話だとも思います(最近流行ってるし…というわけでもないけど)。  与えられたものを鵜呑みにし、自分自身で考える事を忘れるのは…ある意味「他人任せ」とも言えるんじゃないかとも考えさせられました。 黒の「改ざん、捏造」は腹立たしい事だけど、「マニュアル通りにしか生きられない」忍にも問題はあったんじゃないかと私は思います。 あの石碑を信じきっていたうちは一族は「怒る」よりも「気付く」べきじゃないだろうか…《自分達は自分の目で見て考えようとしてきたのか?》と…
 
それで思い出すのは、例の私のお気に入り「ゲンマとライドウの勲章についての会話なんですが、「誰かに決めてもらった基準」がないと行動できないのはゲンマだけじゃないと思うんですよね。 忍達は「誰かに基準を決めてもらって、その通りに忠実に動く」事に徹しすぎていたのではないかと思うんです。
 与えられた道標や基準に疑問を感じたとしても、運命、任務だからと受け入れ(諦め)ただただ忠実に行うだけ…それはともすれば「本来自分に出来た事をないがしろにする」事にもなっちゃうんじゃないだろうか。 
黒は「石碑を信じた真面目なうちは一族」をバカにしてかなり腹も立つけど、でも黒は忍たちの「穴」をよく分かってると思います…悔しいけど、よく分かってる。
 
一族達が石碑を盲信していた中で(本当にうちは一族が「石碑」だけを妄信していたのかどうかはまだ不明ですが)、イタチは幼い頃から色々な先人たちの言葉を読み、考えていたらしいから(ヒルゼンの話によれば)、視野も広がり偏る事が無かったのかもしれないですね。 もしかしたら石碑に書かれた「数々の矛盾」にも早くから気づいていたのかもしれない。  イタチの例のセリフ《知識や認識とは曖昧なモノだ その現実は幻かもしれない》も、今になれば「石碑」の事も言っていたのかな…とも思います。 
 
(とはいえイタチ自身も、溺愛する弟を「親心で」道案内で強引に導こうとしちゃったんですもんね。どんなに出来た人物でも、愛情ゆえに「子離れ」出来ないものなんですねぇ…)。
 
ガマ丸の「夢のお告げ」も、「コレがキミへのお告げだよ(心して聞けぃ)」と伝えた時点で「道案内」になってると思うんですが、でも自来也に与えられたお告げは「道案内」とはいえども、「自分で見て自分で考え自分で決めろ」という内容のもの。 道案内だけど、道案内じゃないという…(笑)
 それが「自来也豪傑物語」という形になり、やがて「うずまきナルト物語」へと繋がれた… ナルトは言ってましたっけ、「続編はオレ自身の歩く生き様だ…」と(448話で)。
 
 そして、ナルトにも「お告げ」という道案内は与えられてる…《お前は目に力を宿している少年と戦うことになる》というね… そしてナルトは「覚悟してる」と答えていたし、「サスケとはオレが闘る」とも言っていた。 だけど、それが「決められた運命(必ず当たる夢)」であったとしても、その話の進め方と結末は自分自身で決めるもの… だから「サスケを敵として戦う」のか、「サスケと一緒に闘う」という意味なのか…どちらとも解釈できるお告げの言葉の意味を「選択」するのはナルト自身なんだと思います。 我愛羅も言っていたように…《大切なのはその言葉の意味》なのですから。
   
 自分の足で広い世界を歩き、実際にモノを見て、色々聞いて、そして自分で自分の生き様を決めてほしい…それは作者からの若い世代へのメッセージでもあるんじゃないかな?と私は感じています。 そして私もそう思うんです…特に日本人にはコレが足りてない!とね。 自分で探していくのは確かに大変だし、自分で責任も取らなくちゃいけないんだけど、でもそれが「生きる」という事でもあるんじゃないのかな。 自分の道を示してくれるのは運命でもなく、偉い人でもなく、有難いマニュアルでもなく、親でもなく、最終的には自分自身なんだっていうね…それが自来也とナルトの生き様=物語であり、それが過保護な親からの自立の物語でもあるんじゃないかと思います。
 
 
 
(型破りな師弟だったからこそ…踏み出せた「一歩」なのかもしれない。まぁ…少々、型破りすぎる…とは思うけども)
 
 
 
 
 
☆駄文読んでくださって感謝。
 
 
 
(2014/07/3 ナルト好きブログ!)