ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

NARUTO-ナルト-の考察(伏線、言葉、人物考察などなど!)続行中!

NARUTO-ナルト- 696:ナルトとサスケ ③ 今週のジャンプ・ナルト感想(WJ47号)

NARUTO 696:ナルトとサスケ ③

…あと4話で「完結」…ってホント大丈夫なのかな。
 
 
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 カウントダウンが始まってからというもの、どうしても「15年も続いた大作がこれでちゃんと終われるの?」という疑問がモヤ-っと続いたままです。 このままで最終回は盛り上がれるんだろうか?とか、劇場版で忙しくて先生大丈夫なんだろうか?とか余計なお世話的な不安もあったりして…出来ればきちっと「原作で完結」して頂きたい…でも「今までのペース」を考えると、正直あと4話ってのは、かなりキツそうだなぁ…。
 
 さて…その不安はさておき、「一流の忍」どうしならではの心の会話に入ったナルトとサスケですが、もっともっと突っ込んだ話に至るかと思いましたが、案外と精神世界での会話は短かった… 
 
 
・共通の敵
 
 やはりサスケは世界の闇を一手に引き受けて「世界共通の敵」として在り続けるつもりだったんですね。ある意味究極の《自己犠牲》の道。 

「世界共通の敵」がいなければ五大国の「繋がり」も怪しいという事は、既にオビトがナルトに指摘した点(64巻)…
 「お前らがここでオレ達を止めようが無意味なことになぜ気付かない その術とてこの戦争の後には脆く崩れ そちら側の誰かがまたオレ達と同じことをするようになる」(612話)と…
 これは正直大変難しい問題だと思うし、この時は…とてつもない難題に岸本先生は取り組まれたなぁと驚きました。
 
 忍の「連合」の脆さ…それは「五影会談」のあたりを再読してみると分かるのですが、もし雷影の弟ビーが“暁”に連れ去られなければ「五影会談開催」には至らなかったと思うんですよね。 その会談だって「あのタイミングで」サスケが侵入しなければ影達の「ケンカ」は中断しなかったと思うし、さらにオビトが「宣戦布告」しなければ「あのまま喧嘩別れで交渉決裂」になった可能性は大なのです。
 
 今回の「忍達の団結」は、正直なところ…長い時間をかけた「マダラのシナリオ」と“暁”という怪しい組織の活動のおかげ(おかげと言うとヘンですが)、そしてオビトの念入りな計画によって作られたものでしかない…結構「連合の団結力」は脆い。 
 
 その点「忍連合とオビトのやり取り」も聞いてなかったサスケが、その問題点にちゃんと気づいていたという事は、サスケの「眼」はもう真実を見抜く…
私は、マダラも「世界共通の敵」として在り続ける道を選んだのかと考えているのですが、マダラの「腑」についてもサスケは見抜いていたんじゃないのかな…。
 難題解決に向けて「具体策」まで踏み込んだサスケの「真剣度」については評価すべきだと思うんです。だけどやっぱり「一人で影を背負う」ってのは、ナルトが言うように「ズレてる」…サスケに「敵役」を引き受けてもらうなんてのは、本当の意味での解決とは程遠い。痛いところがあったら他のところを叩いて痛みをごまかす的なモノでしかないと思うんですよね。それに、ナルトが指摘したとおり「サスケがいなくなった後はどうする?」という現実的な問題だってある。
 
 
・点と線
 
「今やっと…今までの点は線となった」
「!?」
「写輪眼から始まりそして今この輪廻眼の力を手にした もはや転生不死…方法はなんとでもなる そして今までのような戦闘ではなく影からの管理…」


大蛇丸が不屍転生を開発して生にこだわったのは、真理を求めるためと言ってましたが、彼もずっと『風を起こし続ける』つもりだったのだろうか…。しかし、彼もまた「点」でしかなかった。

  ナルトに「一生…いや永久に独りあの地獄に戻るつもりなのかよ 恨まれながら…」と言われて「それがオレの言う火影の在り方だ」と答えてますが、結局サスケがやろうとしている事は、イタチの発想にも近い「永遠に壁として在り続ける道」。 ん―…サスケはやっぱり《イタチの犠牲の上に成り立った平和の上でヘラヘラ笑っている自分》だけは絶対に許せないんじゃないかと思います。 
世間がイタチを認めなくても、サスケが「イタチを認める」…それを証明するための「イタチ以上の自己犠牲」を自分に強いようとしてるんじゃないだろうか。イタチがそれを望んでいなくっても、サスケがそれを望む… そうでもしないと、自分を許せないような気持でいるんじゃないだろうか…? 
  
 
・言葉ではなく「拳で」という事について… 
 
(「オレってば…」の言葉を遮るように、サスケは「もういい」とチャクラを練り、己の須佐能乎を“器”とし、地爆天星で拘束していた尾獣(チャクラ)を中に取り込む。そして出現した「尾獣チャクラのほとんど」を入れた須佐能乎… それに対抗してナルトは尾獣化して四体に多重影分身)。
 
 結局、サスケとナルトの闘いの論点は《繋がりを断ち個で行う》か、あるいは《繋がりを保ち協力で行う》かという点ですよね。 
 本来ならこれを「ディベート」という形で討論し議論し合えばいいような気もするんですが、やっぱり「忍」は口下手が多いのか、拳で考えをぶつけ合う…(ナルトも自分を口ベタだと言っていたし、サスケと分かり合うのは拳しかないと言っていましたっけ)…それに加えて、彼ら忍が「拳」で考えをぶつけ合うのには、今までの「忍世界の事情」ってモノがあるんじゃないかとも思うんです。
 
 忍世界に於いて、おそらく「言葉」やら「文章」というものは「かなり信用されていない」… 
 
 尾獣達もそうでしたが、九喇嘛や孫悟空は「口先だけの言葉」を信用せず「行動で証明しろ」と言ってましたよね。 「同盟なんてのはただの口約束レベル」とカカシが言っていた事もありましたけど、文章化した同盟でさえも信用できるものではなかったらしい…(ホントは「口約束」だって十分「守るべきもん」なんですけどね…その辺りの忍達の“意識”は、想像以上に低かったのではないかと思う)。

 金角銀角兄弟は「言葉なんてのは人を騙す為の道具」「騙してなんぼ」とか言ってヒンシュクをかってましたが、あれも実は結構、忍としては「当たり前」の話だったんじゃあないかと思います。そこに真剣に怒り「言葉の大切さ」を真っ正面から語ったダルイには共感したモノです…言葉や口約束も、ちゃんと行動で証明してこそ、言葉に魂がこもり誠となる(言が成る)…
忍達は「口先だけの言葉」の薄っぺらさに辟易しているのではないか…「行動で示す」事こそが、忍ならではの誠のディベートの形…それが『闘い』なんじゃないかとも思います。
 
 
・集中(融合)と分散(協力)
 
…そしてナルトとサスケの闘いも、まさに拳(行動)によるディベート
 
《繋がりを保ち協力で行う》意志を持つナルトは「分散」(影分身)という行動で意志を証明しようとし、《繋がりを断ち個で行う》意志を持つサスケは「個への集中」(チャクラを集め1つにする)という行動で意志を証明しようとする… 彼らはただ「力でぶつかってるだけ」ではないんですよね。
 
「またその術か…」
「ナルト…お前のその術がお前の弱さの象徴なのさ」
 
「それは孤独を紛らわせるための術だ」
 
 確かに…《多重影分身の術》は、ナルトにとってしばしば「孤独を紛らわせるための術」だったかもしれないんですよね…。「巻ノ忍」でも、ナルトが影分身たちと遊ぶシーンが出てきますけど、なんだかちょっと侘しい。それは「負の一面」かもしれないけど、だからって悪いばっかりじゃない… 
 つくづく「多重影分身の術」はナルトにとって運命的な術だったんだと改めて思います。「多重影分身」は、六道仙人が「十尾のチャクラを分けて違う個体を作った」作業と似ている… 
 各影分身は、本体に還元されるまでは個々に行動し、それぞれの意志を持って動いているわけで…還元されるまで、本体でさえ「影分身たちの行動」は知らないままですよね。独立して動いている。 
 
 ナルトが「自分一人だけで」全てをこなそうとせず、影分身たちに「役割分担」をさせる行動は、十尾チャクラを分割し「役割分担させた」六道仙人の発想に「近い」とも言えます。そして「影分身達」はまるで十尾のチャクラを分割された「尾獣達」のよう…
 
 「影分身」はナルトの弱さの象徴でもあり、ナルトの強さの象徴でもある…
 
…そして、その「逆」がサスケ。
 
「こりゃヤベーな… 分散してあったチャクラを一つに融合してやがる それもこれ以上なくうまくな…」
「まるで六道のじじい並みだ… まあ…やってる事は逆だがな
 
「外道魔像も無ェここで 須佐能乎をその入れモノにしてやがる
すげーのが出てくるぞ 気ィ抜くなナルト!」 (陰九喇嘛)
 
かつてマダラも己の須佐能乎に九尾を入れていたし、この戦争中にもサスケの須佐能乎にナルトの九喇嘛が入った事もありましたよね。 満月を背景に須佐能乎を纏った九喇嘛の画…あの《神々しさ》に、これこそ本当の「神」の姿に近いんじゃないかと思いましたもん…。
 
 だけど今回は「さらにその上」…サスケの須佐能乎の中には《ほとんどの尾獣チャクラ》が入ったわけですから、その姿は「さらに」神に近いものなんじゃないかなんて思うんです。 九喇嘛は《すげーの》なんて言ってますが、それこそ《すげー》なんてレベルではない《ほぼ神状態》のが出てきたのではないだろうか。…そして、それこそ十尾の『本来の自分』ってやつに最も近い姿なんじゃないだろうか…? 
 
 
出現した「ほぼ完璧に近い量の尾獣チャクラを入れた須佐能乎」は…「中の人」がかなりハッキリと見る事が出来ますが、六本指のほぼ「人型」…かなりスッキリとした凛々しい戦闘神のような姿)
 この画はそれこそ頁一枚ぐらい割いて《ドーン》と描いていただきたかったなぁ…マダラの須佐能乎完成体よりも、もっと大きな絵でドーンと… 。
 
 カグヤが尾獣化(十尾化)した時、黒が《これは…人型じゃない!?母さんの意志で十尾化したんじゃないぞ》なんて呟いてましたが(688話で)、十尾(というよりは神)は本来「人型」であって、形骸化してしまった十尾はずっと「人型の姿(本来の姿)」に戻る事を目論んでいたのではないか…と私は考えています。 
 「トビ」が度々語っていた「全てが元の姿に戻る」「本来の自分に戻る」「(目的は)完全体になること」「全てがオレと一つになる」…これらの言葉は私にはどーしても「十尾(トビ)」の言葉にしか聞こえない…(往生際悪いと言われそうですが)。
 もはや残り4話で「十尾(トビ)の謎」やら「グルグルの正体」まで明かされるか大変疑問だとは思っておりますが、それでもやっぱり思ってしまうんですよね… あの時とトビの発言は、どうしても「オビト個人っぽくは無いぞ」と… このモヤモヤは永遠に続くかもしれません(笑)
 
 十尾(神)にもし「精神(魂)」があるのなら、当然のごとく《本来の自分》を取り戻したがっているんじゃないかと思うんです。 六道仙人によって「分散」させられたチャクラを「戻し」て“器”にそれを入れ、そこに魂を戻して『本来の自分(完全体)』に戻りたいんじゃないだろうか…。
 サスケのやってる事は「六道仙人と逆」と九喇嘛も言ってましたが、それは「十尾が自分のチャクラを取り戻す作業」とも言えます。
 
 《ナルトとサスケの闘い、分散と集中の闘い》…
 
それは《アシュラ(協力)とインドラ(個)の闘い》でもありますが、《六道仙人(チャクラの分散)と十尾(チャクラを一つにする)の闘い》とも被ります。 
ナルトとサスケの闘いの行方を見守っているのは、アシュラとインドラ、そして六道仙人と《十尾の精神体(魂)》も…なのではないだろうか。
 その十尾の精神体とは「グルグル」なのかどうか…「グルグル」登場以来ずーっとそれが気になっておるのですが、どうなんだろ… オビトがグルグルの事を何も語らず逝ってしまったのは逆に不自然に思えるのですが、完結までにはたして「グルグル」の正体は明かされるんだろうか(不安)。
  
(対するナルトは、分身した3体が再び結集し「六手」姿となり、残り一体は自然エネルギーの取り込みを続け、そしてボフンと消えて「本体」に自然エネルギーを還元させるのですが…)
 
 …これ、ペイン戦を思い出しますね。影分身のナルトが控えで自然エネルギーを取り込み《ボフン》と消える事で本体に「還元」される…。
 
そして、これこそ「分身」の強さでもありますよね。「分身した自分」がそれぞれ役割分担する事で、「一人で幾つもの作業を同時進行する」よりはるかに効率的に事が運ぶ… 「これほどの自然エネルギーが急に…!?」とサスケが驚くほどの「地上ありったけの分」を集める事だって可能になる(これも尾獣達の協力もあっての事かと思いますが)。
 
 
「オレら…今は色々と背負っちまってる… けどよ…オレは…」
 
(「オレはお前とも闘いたい…」と言ったサスケを思い出す)
 
『勝負して――― お前にちゃんと勝ちてーんだ』
 
「……」
 
「でも今のお前にじゃねェ!!」
 
「それも分かってんだろ!!! サスケェ!!!」
 
ナルトはあくまで「あの頃」のサスケとの純粋な「勝負」を望んでいるんだと思います。病院の屋上(20巻)でも“額あてをちゃんとして木ノ葉の忍として対等に戦う”事にこだわってましたよね。そこで「勝つ」という意味は「倒す」という事ではなく、サスケに「認めてもらう」という意味なんだと思います。ナルトがしたい「勝負」とは、組手のような…いわゆる「ライバル勝負」のような闘いのはず。
ナルトがこだわるのは、サスケに《認めてもらう事》…《里の奴ら全員にオレの存在を認めさせてやるんだ》…その最後の一人「サスケ」に認めてもらう事が、ナルトの夢ですもんね。 
 
 サスケが放つ須佐能乎千鳥の矢と…ナルトが投げる尾獣玉螺旋手裏剣と仙法螺旋手裏剣がぶつかり合う…ナルトとサスケの「それぞれの譲れない意志」をかけてのも闘い。 
 
 それはサスケ(“一体に融合した”尾獣達)なのか、ナルト(「協力」という形で一つになった尾獣達)なのか…という勝負でもあります。十尾が求める「全ての“元の自分達”を一つに融合させる」が勝つのか、それとも六道仙人が考えついた「尾獣達(元十尾達)の協力」が勝つのか… 
 ナルトとサスケは「それぞれ色々背負っちまってる」と自覚しているのに、いつの間にかこっそりと「六道仙人と十尾の闘い」まで背負わされちまってる…。 
 
 もっとも、六道仙人は十尾に対して「勝利」を求めている訳ではなく、十尾に「伝えたかった」んじゃないかと思うんですよね。「独りで」ではなく「協力で」為す方が、より良い答えに辿り着けるという事を。 
 そして十尾の事も「孤独」から救い出したかったんじゃないだろうか…「皆で」共存協力していく道をがある事を示したかったんじゃないだろうか… 
十尾に…さらに「母カグヤ」に。
 
 六道仙人は、かつて尾獣達に《いずれ一つとなる時が来よう》と語っていましたが、その「一つになる」とは「協力する」という意味になるのか、それとも「一つに融合して戻される」という事なのか…それがナルトとサスケの闘いの行方にかかっています。  違う道のりを歩んで、そして交わり、その想いを共有する…そして一つになる。それはナルトとサスケだけではなく、尾獣達もまた同じなのかもしれません。
 
 …カグヤの中では、尾獣達は安定してはいなかった(ナルトの超尾獣螺旋手裏剣攻撃に共鳴し、解けてしまった)…完全には「融合」していなかったという事じゃないかと思うんです。
 だけど、サスケの須佐能乎という“器”の中で、尾獣達のチャクラが《完全に融合》しているのだとしたら…それは影分身が《ボフン》と消えて「本体」に記憶も還元・蓄積されるような現象が起きているんではないか…なんて考えてしまいます。
 
一尾から九尾までの尾獣達が過ごしてきた「永い時間の記憶」が、何処かに居る十尾(本体)の魂にも《ビクン》と還元されているとしたら…十尾は尾獣達の歩んできた道を知り、人間との関わりを知り…十尾(そしてカグヤ)の「心」にも何らかの変化が生じるのではないか…とも思います。そうすれば、今までの尾獣達の苦労の道のりも報われるような気もするのですが…
 
《本体への知識、経験、情報の“蓄積”》…大蛇丸の話でも度々登場した“蓄積”に関する話が、ここらでそろそろ関係してきてもいいんじゃないか…なんて思ったりもしますが、なにせあと残すところ3話のみ…これまた「幻」に終わる可能性大な予感がいたします…
 
 次回、ナルトとサスケ④で2人の闘いは決着…するのでしょうか。
 
 
 
 
 
☆長駄文、ここまで読んでくださって感謝…(697話雑考に続きます
 
 
 
☆サスケの“鷹”のような「神々しい須佐能乎」登場に引かれて、最後に「グルグル」も登場しやしないかと期待はしてるのですが、あと3話…これまた微妙な感じかな…。
 
 
 
・最後にちょっとだけ…
  
 正直「最後のナルトとサスケの闘い」だけでも最低半年はかかるだろうと高をくくっていたので、ラスト5回にはかなり動揺いたしました;
 私としては「とにかくラストはハッピーエンドでさえあれば」と思ってはいるのですが、それにしても数多くの「気になる話」がそのままなのが、気になって仕方ない…(たとえばマダラの角が刺さった宝具の事、七人衆の刀が「集まったら」という話、結局あのロンゲは誰なのかという話、大量の写輪眼保管は何の為とか…九尾事件の仮面が「お産の時に封印が弱まる」のを知っていた理由とか… 小南だけが知っていたハズの「オビトの5分間すり抜け」の情報が遅れて入ってきた理由などなど) 
それに、あれだけ多くの登場人物の「最後」がちゃんと描かれるのかも心配になってきまして…。
 
どうかどうか納得できるような、すっきりするような「完結」であってほしいと願わずにはいられません。「続きは劇場版で」という終わり方だけは勘弁して欲しい… 漫画は漫画で完結して欲しいというのが、原作ファンとしての願いでもあります。これらが杞憂に終わるように、不安を一掃してくれるような感動のエンディングであること願ってます。
 
お願いします、岸本先生…!!!(再び叫び)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(ナルト好きブログ! 2014/10/20)
 
 
 
 
 
 
自由に語り場、OPENしています。