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NARUTO-ナルト- 総集編雑考 ⑦ 第二部開始

NARUTO-ナルト- 総集編雑考 ⑦ 第二部開始

 
 このペースだと、最終回までにはとても間に合わないペースで書いてる「総集編雑考」ですが(苦笑)…出来れば、ペイン戦までの流れはざっと振り返って見たいと思ってます(このブログではペイン戦の頃から感想を書き始めているので)。
 
 今になって第二部を振り返って見ると、第二部全体が「戦争編」と言ってもいいような気がしています。 第二部開始からペイン戦迄は「戦争前夜」としての物語…そして五影会談以降がいよいよ「戦争」本番。 
 ただ、その中で一貫して描かれているのは、ナルトの「人柱力(獣)」としての物語と、サスケの「うちは(眼)」としての物語なんですよね。 それぞれが背負うものと向き合い、悩み苦しみ、己と闘いながらそれぞれの道を歩く… その中でナルトは「つながり」を必死で探し、サスケは「つながり」を必死で断とうとし…  
 
第二部は開始早々、「人柱力とうちは」の物語で始まります。
 
 28巻から始まる「第二部」…オープニングこそ《ナルトの帰郷》、明るい感じで始まってるんですが…すぐに重たい「現実」がナルトに迫ってくるんですよねぇ。それもいきなり。
 “暁”による我愛羅連れ去り事件で、ナルトは帰郷早々、自分が《人柱力》であるという現実、己が背負う呪印のようなものと向き合わざるを得なくなる…
 
我愛羅は、最終的には一尾(守鶴)を抜かれ“父さまの作った人柱力”ではなくなって、そしてチヨに命を貰って…我愛羅は「背負うモノ」から解放された「ようにも見えた」。 31巻で、大勢の砂隠れの人達が我愛羅を囲んだ時…ナルトは羨ましかっただろうなぁ…ちょっと嫉妬したんじゃないかな。
  だけど…我愛羅はそれで本当に「解放」されたわけじゃあなかったんですよね。 守鶴を「抜かれて」チヨに命を「与えてもらって」…「してもらった」事では己を解放出来ないと私は思うんです。 
 呪印やら束縛、運命から己を解き放つのは「誰かによって」ではなく「自分で」じゃないと、ダメなんじゃないだろうか、と。 形だけ解放されても、己の心が救われることは無い… 
 
 我愛羅が本当の意味で解放されたのは、穢土転された父さまと再会して「母様からの愛情」を取り戻し、己の存在を肯定出来てから…それでようやく守鶴と「対等に」なれたんですもんね。
 
 忍世界における「尾獣」と「人柱力」…それがどんなものなのか、ようやく見えてきたのも第二部でした。 「尾獣」は抑止力として、あるいは戦力として利用されながらも、各里は尾獣を扱いきれず持て余し、結局は厄介者扱い…それに「尾獣に関わる人々(人柱力など)」でさえ憎しみの対象になってしまっていた…忍世界はかなり根深い問題を抱えていた事になる。
 
 今思えば、尾獣狩り任務をこなしていた“暁”の面々… 彼らはかなり個性的で、「ガチガチな忍システム」から外れた人達でしたよね。 彼らは、元は優秀な忍として里から「無理難題だらけな任務」を押し付けられた(であろう)人達だったし、そこから逃げだし「自由」を求めた人達でもある… 
 彼らは「今までの忍の在り方」に問題を感じ、己の求めるままに生きた人達とも言えると思います。 彼らの言動はかなり「残忍で容赦なかった」のも事実。だけど、考えてみれば彼らは里にいた頃からずーっと「それなりに汚い仕事」を引き受けていたわけで、“暁”に入ってから特別変わった訳ではないような気もする。
 
 しかし、忍世界の表も裏も知り尽くした“暁”の面々にとって、“暁”はやっと見つけた心安らぐ「居場所」だったのかな…なんて思うんですよね。 彼らが“尾獣狩り任務”も嫌がらずにこなしていた背景には、「今までの忍システム」への疑問ってもんがあったんじゃないだろうか。
 「里」が尾獣に執着しながら、その尾獣に振り回されている姿は、外に出た彼らから見れば「滑稽」に見えたかもしれない。 んー…“暁”は、見方を変えれば前の劇場版(ROAD TO NINJA)に登場した“暁”のようなヒーロー的な集団に見えなくもない。今思えば…彼らもそれぞれの「革命」の道を探してたんじゃないだろうか…とも思います。
 
 第二部開始早々の「サソリVSチヨ&サクラ」は、私にとってNARUTOの中でも最も好きな戦闘の1つなんです。 サソリとチヨの「戦術的な駆け引き」もハイレベルで面白かったし、サソリとチヨの「心の闘い」、そしてチヨ、サソリ、サクラ各世代による想いの受け渡しも見事だった…。特にサソリの「心」が最後に見えるシーン、そしてサソリの「くだらねェ」に見えるサソリの「想い」の描写は何度読み直しても感動します(※下記)。ああいうのこそ、「闘い」…。
 
 もっとも「結果」は必ずしもハッピーなものじゃあなかったと思います。チヨは命を落としたし、サソリだって… 我愛羅が戻って一方には笑顔があったけど、もう一方では犠牲やら悲しみもあったわけで…それが忍世界の現実でもあったんですね。それこそマダラが解決したかった問題。
 
 第二部開始早々の「我愛羅奪還任務」…あのエピソードは「人柱力」の物語(獣の物語)が中心で、もうひとつの「うちは」の物語(眼の物語)はサスケ登場までしばらく出てこない…ように見える。 だけど「眼」の物語も、実は静かに同時進行し始めているんですよね。
 
 我愛羅奪還任務で、カカシは「万華鏡写輪眼・神威」を初めて披露する… 
カカシの眼(つまりオビトの眼)が秘める能力の発覚は、「もう1つの対の眼(右目)」の存在をそれとなくほのめかすモノでもありました。 
“暁”による「人柱力」連れ去り(尾獣狩り)と「神威」の話が並行して描かれていたという事…それは、尾獣狩りが「神威」の眼の持ち主によって仕組まれている事を暗示していた…とも言えるんじゃないだろうか。
 
 今思えば、第二部はのっけから「オビト(トビ)のシナリオ」に沿って動かされ、その存在も暗示されていた事が分かります。そこに元祖マダラの思惑やら、様々な存在の思惑、そして出会った人々から託されたモノが絡まって、ナルトとサスケの物語が動き始めていくことになります…
 
ナルトは九尾の人柱力として…
サスケはうちはとして…
 
 
 
 
☆長駄文読んでくださって感謝。
 
 
 
 
☆総集編雑考、続きは…サスケ(とイタチ)について、長門(と小南)について等と考えてます。ですがその前後に…以前の感想で省略し「そのうち」と言い続けてきたカカシとオビトの雑考も近いうちにアップしたいと思ってます。今頃ですが;
 
 
 
※サソリの「くだらねぇ」について(518話感想から抜粋します↓)
 
サソリが「くだらねェ」って言うのは・・・・実はこれ、本当はちょっと心が動揺してる時なんです。 
たとえばサソリが造った傀儡「父と母」をチヨが出してきた時も、「ああそれか・・・」 「くだらねェ」・・・(267~268話)。 
チヨが転生忍術を開発したのは「父と母」に(自分の命と引き換えに)命を吹き込もうと考えていたからだと知った時も、しばらく動揺した表情を見せてから呟いたのはやはり・・・「くだらねェ・・(274話)。
(518話でも)「オレの傀儡か・・今となればその体もくだらねェ・・・今のオレはまさに朽ちる事のない本物の人形そのもの!かつて望んだ体だ!」  
 
周囲に動揺した様子を見せるのは「感情に支配されている状態」、つまり心が弱い証拠になってしまう。 だから動揺した時、サソリは「くだらねェ」と言い、同様を隠そうとし、そして自分に言いきかせるんじゃないだろうか…「くだらねぇ」と。 「くだらねぇ」は実は「動揺している」証であり、サソリも人形にはなれなかった証なんですよね。 
 
 
 
  
 
 
 
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