ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

NARUTO-ナルト-の考察(伏線、言葉、人物考察などなど!)続行中!

木ノ葉隠れのゴチャゴチャ風景の温かさ (イラスト集「UZUMAKI NARUTO」)


NARUTOに登場する「電灯」について(イラスト集「UZUMAKI NARUTO」の中から「九喇嘛が眠る里」)

こちらでは桜が満開を迎えました。もう少しで待望の「短期連載」が始まるし、ようやく「春」を感じる今日この頃…

 短期連載が始まるまでの間、いくつかの雑考をと思っているのですが、先日発売された「イラスト集 UZUMAKI NARUTOの中から数点のイラスト(扉絵、表紙)についての雑考を少々…と思っています。 イラストの雑考といいましても、絵のことはよく分からないので、あくまで「絵をヒントに」思いついた事をグダグダと…ということなのですが。

 まず今回は、2012年ジャンプ17号の扉絵、「九喇嘛が居眠りする木ノ葉隠れの里の画から…
 
《平和な木ノ葉隠れの里のど真ん中で、九喇嘛がよだれ垂らして(鼻から提灯で)居眠りしている。 カカシは九喇嘛を見上げ、サイは九喇嘛のスケッチをし…サクラは「アンタ、コレなんとかさせなさいよ」とでも言いたげに、ナルトに怒ってる。
 ナルトは、いたずらっ子そうに笑って、九喇嘛の提灯を割ろうとしてる…ように見える。実際には届かないのだが…》  

 この絵から聞こえてくる「音」は、九喇嘛のいびきと…ナルトの側で風に揺れている風鈴の音ぐらいかな… 平和で穏やかな、とある日の昼下がり。
 

(とても模写できないし、そのまま載せる訳にもいかないので、こんな感じの画あったなぁと思い出していただく参考として・・あくまでイメージって事でご容赦↓)

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とまぁ…こんな感じの画(あまりにも雑でごめんなさい)。

 イラスト集「UZUMAKI NARUTO」では、先生ご自身でイラスト「ベスト10」を選んでおられるのですが、この画は「第2位」(第1位は『63巻の表紙』だった)。
 先生のコメントによれば、この画は《九喇嘛の大きさとナルトのやんちゃっぽさが上手くでたかなーって思って結構気に入っています。絵にギミックがあって描いてて楽しめました。よくみるとカカシとサクラとサイがいるのを思い出しました》とのこと。

 この画、何がいいって、とにかくほのぼのとした穏やかさが魅力だと思うのですが、九喇嘛、ナルト、そして第七班の何気ない平和そうな表情がいいんですよねぇ…九喇嘛が安心しきって無防備に寝てる表情もいいし、サクラちゃんがナルトにああやって『怒ってる』時ってのは、平和な時である証拠だと私は思っています。
 それに木ノ葉の忍達が数名描かれているのですが、彼らは目の前の九喇嘛に「全く無関心」。 尾獣が里のド真ん中に居るってのに、誰も気にも留めていない…つまり、九喇嘛が里に「自然に受け入れられている」という画なんですね。
 

・ゴチャゴチャに見る里の寛容性

 私はNARUTOの「風景」が大好きなのですが、特に木ノ葉隠れの里の画は大好きでして…特にこの画でも見られる《ゴチャゴチャとした様々な形の建物群、それに張り巡らされたカラフルな「管」たち》…これらが木ノ葉隠れの里の風景に独特な魅力を与えていると思うんです。 

 砂隠れ、岩隠れ、雲隠れなど他里では、建物がかなり統一化されて景観が綺麗に整っているのに較べ、木ノ葉隠れはかなりの「ゴチャゴチャ」。 まるで東京みたいといいますか…高層ビルと古い家々や狭い路地が混在してたり、電線が張り巡らされている東京の「ゴチャゴチャ感」にもどこか似ていると思うんです。 そういったゴチャゴチャは災害対策的には問題アリなんでしょうし、これからオリンピックに向けて「ダメ出し」されていくのだろうと思いますが、ああいったゴチャゴチャ感も意外と街の風景を面白くしているといいますか…「独特な魅力」を生み出しているような気もいたします。 流行に敏感だったり、異文化の受け入れに寛容な東京の街並みは、島国で異国に完全に支配された経験がない国ならではの寛容性、柔軟性なんだろうかと考えたりもいたしますが、木ノ葉隠れの街並みにも大国ならではの寛容性、柔軟性といったものを感じます。
 
 重なり合い、並んで繋がっていく個性的でカラフルな管たちにも、様々なスタイルの建築群が混在している街並みにも、そこに住む人たちの「一族と一族の繋がりを大切にする」想いが表れているんじゃないだろうか… 柱間が理想とした里の在り方が、そんなところにも垣間見えるような気がするのです。
 そういった里の風景だからこそ、「獣と人間」が一緒に居ることも、ごく自然に見えてしまうんじゃないだろうか…「寛容な里ならでは」の風景なのかもしれない。


NARUTOにおける「灯り」

 そして、私がこの画の中で気に入ってるのが、ナルトが居るバルコニーの下に灯っている『ガマ型の外灯』なんです。


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 蝦蟇の頬を膨らませたような「まぁるい電球」は、九喇嘛の「鼻から提灯」と対を成していて、ぼわ~んとした温かい光で和ませてくれる… すっとぼけたような表情も、実に愛らしい。 


 NARUTOに登場する「灯り」の中で、もっとも印象に残っているのが44巻405話---

自来也の訃報に落ち込み、一人ベンチに座り込むナルト。真っ暗な夜の闇の中、街灯がナルトを照らしている… 思い出のアイスを手に涙を流すナルトのところに、イルカ先生が現れてナルトを励ますのですが…)

 昔風の電球にカバーをかけただけの素朴な外灯と、その光に集まってきた虫の羽音… 真っ暗な夜の静けさ、そして「ぽつん」と照らす光が、ナルトの孤独と深い悲しみを物語る…

イメージ 3
 
 ベンチに腰かけたナルトを背後から見た画では、外灯の柱がベンチの真ん中に立っていて、ベンチを二分しており…ナルトは片方に座り、はじめは向こう半分には「誰もいない」。 やがてイルカ先生が来て「向こう半分」に座ってくれて、さらに席を立ってナルト側…ナルトの前まで来て語りかけてくれるのです。
 
自来也様はお前をずっと見てるさ…今だってどこからかな」

語りかけるイルカと、それを聞くナルト…二人のやり取りを照らし、そっと後ろに佇んでいる電灯は、まるで「どこからか見ててくれる自来也」のよう…

 イルカは様々な言葉でナルトを励ましアイスを半分こしてくれるのですが、正直なところ、ナルトの心がそれでスッキリ出来た訳じゃないかもしれない。 だけど真っ暗だったナルトの心に、あの時「小さな光」が灯されたのは間違いない…。
 
 暗闇の中だからこそ気づけた、小さな光の有難さ…そして温かさ。

 我愛羅が50巻で言っていた、この言葉が思い起こされる…
「この世の闇を歩いてきた者… だからこそ小さな光明ですら目に届くはずだ」…(五影会談でサスケに語った言葉)。

 44巻405話、昼間にもナルトはイルカと出会っていて、その時はイルカの「ラーメン行くか?」の言葉にろくに答えられずにナルトは立去っているんです。 そんな心の余裕なんて無かったから仕方ないんだけど、イルカは心配そうにナルトを見つめていた… きっとあの後、イルカは「ナルトが落ち込んでいる理由」を誰かから聞いて、ナルトを心配して夜の町を歩き回って探していたに違いない。

 昼間にナルトをラーメンに誘ってくれたのは「いつも通りのイルカの愛情」…そして夜中にナルトを探し回ってくれたのは「いざという時のイルカの愛情」…昼も夜も、普段の時もナルトが落ち込んでいる時も、イルカはいつだってナルトを見守ってくれてる「小さな光」。その有難さに昼間はあまり気づかないけど、真っ暗な夜になればその有難さが身に沁みる…

 扉絵に描かれた「ガマ電灯」の小さな光は、明るい昼間の風景の中では目立たない。だけど明るい日差しの中でも、ずーっと光を灯してくれている…
  あの愛らしい蝦蟇型の電灯のように、自来也は昼も夜も《ずっと…今だってどこからか》ナルトを見守っているんだろうなぁ…。 そして「ひねもすのたり」な穏やかなあの扉絵を見て、こういった平和穏やかな日々を自来也は望んでいたんだろうなぁ…なんて思ってしまうのです。



(次回も、イラスト集に収められたある扉絵からの雑考を…)




☆駄文読んでくださって感謝。



(ナルト好きブログ! 2015/04/03)










NARUTOの風景に登場する「電柱」についてなどは過去記事にて書いているので、もしよろしければ… ちょっと古い記事ではありますが…