ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

NARUTO-ナルト-の考察(伏線、言葉、人物考察などなど!)続行中!

NARUTOキャラ考察・“暁”のデイダラ 「デイダラと岡本太郎」

デイダラと、岡本太郎の言葉

 
イメージ 1
 
 この前7月の岸本×池本対談を読んで、改めて岸本先生の「芸術的挑戦」というのを感じまして・・それで思い浮かべたのがNARUTO-ナルト-の中の芸術家「デイダラとサソリ」。 あの二人の芸術家たちに、岸本先生はどんな想いを重ねておられたのかなぁ・・とね。  で、今回はそのうちデイダラのことを少々。



  デイダラといえば《芸術は爆発なのだァ!》のセリフ、そして《芸術は爆発だ!》のセリフと言えば「岡本太郎」。  デイダラの作品「CO」のカタチも、 岡本太郎の「太陽の塔」にちょっと似ている。 デイダラ岡本太郎・・彼らの共通点はそのぐらいしか思いつかなかったんだけど、「岡本太郎の本」を読んでみたら、彼らにはもっと多くの共通点があるように思えてきた。
 
 岡本太郎というと「強烈で個性的なキャラクター」とか、作品も抽象的でちょっと私には分かりにくいといった印象があったのだけど、先日書店で偶々「岡本太郎の本」が目立つように置かれているのを発見・・・ 岡本太郎はかつて雑誌で若い世代向けのコラムを執筆していた事があったようで、夏休みのオススメ図書として置かれていたらしい)、それでそのうち数冊を手に取ってみたのだけど、言葉がなかなかアツい。 たとえば、こんな感じ・・



《いちばんおもしろい人生とは、“苦しい人生に挑み、闘い、そして素晴らしく耐えること”。 逆境にあればあるほど、おもしろい人生なんだ》


…「闘い」とか「耐える」とか、なんだかNARUTO-ナルト-の中の言葉みたいでもあるけれど…ちょっとガイ先生の言葉みたいに熱い。 
 
 
それと、デイダラ風と思える言葉もある。 デイダラは、「爆発によりその存在を昇華させて初めて本来の作品になる!」「オイラはその一瞬の昇華にこそアートを感じてならない!うん!芸術は爆発なのだァア!!」とか「芸術ってのは美しく儚く散っていく一瞬の美をいうんだよ」と語っていましたが、岡本太郎の本にも・・・

《自分にはエネルギーがないんじゃないかとか、どうしたらいいなどということを頭のなかでウジウジ考えていたら、エネルギーなんて燃えあがらないし、爆発もしない》


《ぼくは現在、この瞬間瞬間に賭ける。将来なんて勝手にしろだ。いまここで爆発するんだ》
 
《すべての人が現在、瞬間瞬間の生きがい、自信を持たなければいけない。そのよろこびが芸術であり、表現されたものが芸術作品なのです》


《ほしいのは、マグマのように噴出するエネルギーだ。ぼくが“赤”が好きなのも、それは“燃える色”であり、エネルギーを感じさせる激しさ、活力、生命の根源を想起させる色だからだ。それに、死に向かって爆発する色だからね》

・・など、度々《瞬間》やら《爆発》という言葉が出てくる。

 

 デイダラのアートは、起爆粘土で造った作品に命を吹き込むようにして動かし、最後に爆発させることで「完成」させる。   デイダラ曰く、芸術とは《儚く散っていく一瞬の美》・・・儚いとはいえ、爆発によって完成する彼の作品は、その瞬間に「生」の全てを燃焼させ 最大の輝きを放つ。 そこに表現されるものは「生命の力強さ」じゃないかと私は思う。



  粘土アートは、そのまま置いておけば「永遠」に朽ちないかもしれないのに、デイダラは爆発させて終わらせてしまう。  それはまるで、生きるモノの一生・・人生のようでもある。 
 永遠に続く時の流れの中では、人生なんてほんの一瞬でしかないんだけど、それでも「自分はここに在るんだ、在ったのだ」とその存在を力強くアピールする。 その確かな証を「爆発」によって時に刻み込む・・・それがデイダラのアートじゃないだろうか。



そして、岡本太郎の本にはこんな言葉もある・・

《それは一言でいってしまえば、失われた人間の全体性を奪回しようという情熱の噴出といっていいでしょう》



《失われた自分を回復する為のもっとも純粋で、情熱的な営み。 自分は全人間である、ということを、象徴的に自分の姿の上にあらわす。そこの今日の芸術の役割があるのです》



  土から生み出される「いのち」、そして一瞬という「今」に最大最高のエネルギーを噴出させて「自分」を表現するデイダラのアート。  それも《失われた人間性を奪回しようとする情熱の噴出》なのかもしれない。

 
従来、忍の世界に求められてきた《自己犠牲》の精神、《己を無くし、命令に従い任務をこなす事こそ忍の本分》といった概念。  デイダラが表現するものは、それら「従来の価値観・既存の美意識」とも  ちょっと違うような気がするんですよね。


デイダラが常に「新しいモノ」を追求していたという事は、いくつかの発言から見ることが出来るのですが、 たとえば・・

「芸術家ってのは常に新しい刺激を求めてないと感性が鈍っちまうんですよ」(
30巻)とか・・


「ポップは死んだ!オイラのはスーパーフラットだ!」
 (39巻)とか、


(土影のお供をしているアカツチに対して
「相変わらず土影にベタベタくっつきやがって!」 (54巻)とか。

 

常に「新しい刺激」を求めていたり、ポップアートを「死んだ」と表現したり。  それも、自分のアートは「ポップを受け継いだ上でのスーパーフラット」ではなくって「全く新しいもの、別のモノ」という意味もあったんじゃないかと思うんです。  それに、アカツチが「土影にただ従っているだけ」のように見えることに苦言を呈していたのも、「相変わらず自発性が無いまま行動している」と言いたかったんじゃないだろうか。

 

従来のもの、既存のものを「そのまま受け継ぐ」ことや「自発性無しに ただ従う事」を、デイダラは嫌悪する。     例えば、デイダラが「写輪眼」に強烈な対抗意識を持っていたのも、「個人的な因縁」だけでなく、忍世界に根強く残る《血統至上主義》など「既存の価値観や美意識」への反発もあったんじゃないか・・なんて思う。



再び、岡本太郎の本から引用してみると・・

《なるほど人は、社会的生産のため、いろいろな形で毎日働き、何かを作っています。 しかし、いったいほんとうに創っているという、充実したよろこびがあるでしょうか。 正直なところ、ただ働くために働かされているという気持ちではないでしょうか》


《義務付られた社会生活のなかで、自発性を失い、おさえられている創造性がなんとかして噴出しようとする。そんな気持はだれにでもある》


  
里での生活は「芸術家」デイダラにとっては、やや窮屈すぎたんじゃないのかな・・?
 
 54巻で、土影はデイダラの戦い方を「遠距離でこそこそ逃げ回って戦う!ワシはそれが好かん」と言っていたけれど、そういうのもデイダラにとっちゃ「自発性、創造性を抑えつける」余計なお世話だったのかもしれない。 
「忍はこうあるべき、こう戦うべき」という考えは、既存の枠組みに押し込める事、新しいモノや変化に対する拒絶、自発性の否定とも考えられる・・
  もっとも、土影の苦言は「愛情あるアドバイス」だったのでは…とも思うんだけれど、土影はデイダラの作品をあくまで「爆遁」として評価しており、「芸術」とは解釈していなかったような気はする。

  そもそも、忍術を「芸術」として扱うこと、その考え方そのものが一般的では無かったという事も、デイダラを「浮いた存在」にしてしまった要因じゃないだろうか。 
 
 デイダラ自身は、自分の作品を《芸術》としてアピールしており、「見ろ! どうだ? この洗練されたラインに二次元的なデフォルメを追求した造形!」と自慢したり、最期にも「死んでオイラは芸術になる!今までに無い爆発はこの地に今まで無い傷跡を残し・・そしてオイラの芸術は今までに無い称賛を受けるだろう!」と語っていたけれど・・・   しかしながら、 デイダラの忍術が世間に評価されたのも、その「芸術性」ではなく、その「爆遁の威力」。  里で期待されたのも、“暁”にスカウトされたのも、その 「爆遁の能力」を買われてのものだった・・
 
でも、それも仕方ない・・ サソリやカンクロウ、サイのような一部の忍を除けば、殆どの忍にとって忍術とは「戦うためのもの」でしかなく、忍術そしてチャクラを「芸術に昇華する」という発想は、まだまだ一般的ではなかったのだから。  
 でも「チャクラ、忍術は戦うために使うモノ」という考え方だって、昔一部の人間たちが考え出した「既成概念」でしかないんですよね。



デイダラの芸術は「今」を生き、「自分自身」を表現する・・それは「新しい価値観」あるいは「忘れかけていた価値観」を感じさせてくれる。 
 
 チャクラや忍術を「芸術」に昇華しようとするデイダラのアートは、《チャクラは本来、何の為に存在したのか》という問題を提起し、原点に回帰しようとするモノのようにも思えてくる。 デイダラの芸術は、もしかしたら「新しいもの」を創り出すというより、忘れかけていたものを「取り戻す」ものだった・・と言えるのかもしれない。  

 

そして岡本太郎はこうも言っている・・・  人生とは、人それぞれの《ただ“生きている”  “生きている歓び”》なのだと。  そして、それを表現したものが《芸術》であるのだと。

 

チャクラや忍術を「芸術作品」として表現したっていいんじゃないか。  「生命の力を表現するもの」と解釈したっていいんじゃないだろうか。 「儚い」一瞬の美。  短い、だけど「力強い」確かな生きた証。 デイダラが表現したもの、この地に残したかったものも、その「生きた」証・・・ 
 
 デイダラのアートが見せてくれたものは、“生きている”  “生きている歓び”だったんじゃないだろうか・・なんて思うのです。

 
☆長駄文、読んでくださって感謝・・
 
 
 
イメージ 2
 
岡本太郎が自分の手に書いていた「眼」)
 
(岸本先生は「芸術家」デイダラにどんな想いを重ねておられたんだろうな・・)
 
 
 
 


岡本太郎の言葉は「今日の芸術~時代を創造するのは誰か~」  光文社、
「自分の運命に盾を突け 」青春出版社  より抜粋。
 
 
 
 
(ナルト好きブログ! 2016/08/14)