ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

NARUTO-ナルト-の考察(伏線、言葉、人物考察などなど!)続行中!

《永久の美》と《一瞬の美》の結末(“暁”デイダラとサソリの考察)

《永久の美》と《一瞬の美》の完結と未完が語るもの

 
・・・ついに、あの「こち亀」も終わっちゃうんですね。 
 
 NARUTO-ナルト-も、早いもので連載終了からもうすぐ2年経ちますが、最近読み返すたびに思うのは、NARUTOってのは《未完の完結》作品だなぁということなんです。 もの凄く緻密に構成された作品だし、隅々まで「読者が気付かないような」細かい工夫が仕込まれていたりするのに、驚くほど「未完」な部分もある。   謎や未解決部分が、けっこう残されているんですよね。 
 
  でも、それらも計算された「未完」なんだろうってことも、読み返すと何となく分かってくる(ような気がする)。  たとえば、「デイダラ」の話も何となく中途半端で未完な感じですが、それも「ちゃんと計画したうえでの」未完であるような気がしています。

 デイダラの話の「未完」は、対となって出てくる「見事に完結した」サソリの話と比較し対照することで、より鮮明になってきます。 
 

・《永久の美と一瞬の美》

「芸術ってのは長く美しく後々まで残っていくもの・・・永久の美が芸術だ」

「芸術ってのは美しく儚く散っていく一瞬の美をいうんだよ・・・うん」


(30巻「風影奪還任務エピソード」より、サソリとデイダラの会話)
 
 2人の言うところの《永久の美》と《一瞬の美》。 それは、傀儡のように永久に残せる造形と、爆発のように一瞬を魅せる芸術。 だけど、それに限った話ではないんですよね。 《永久の美》とは、受け継がれ、つながれていく想い。 肉体は朽ちて命は尽きても「想いや意志」は後継者に受け継がれ、つながれて永久に続いていく…それこそが《永久の美》、それは「死に意味を見出す」ことでもあります。
 そして《一瞬の美》とは、  長い時の流れの中では一瞬でしかない「人の命=生」も、力強く爆発するように美しく輝く。 「生きている歓び、生に意味を見出すこと」…それも《一瞬の美》なんだろうと思っています。
 
永久の美と一瞬の美、死に意味を見出す事と生に意味を見出すこと… その「対」となる「お題」は、NARUTO-ナルト-の中で極めて重要なテーマとして君臨しています。
 
 
・芸術コンビの「物語上の役割」
 
「サソリとデイダラ」・・・この2人が、NARUTO-ナルト-の物語上でいかに「重要な役割」を果たしているか、そして彼らの《芸術論》がいかに「大切なテーマ」であるか・・・それは、彼らが揃って(対となって)登場するタイミングをみればよく分かる(と思う)。

まず、彼らが「揃って登場する」タイミングなのですが・・

1.最初は28巻、第二部のオープニングである「風影奪還任務」

2.次の登場は55巻、戦争編のオープニングである「奇襲部隊の攻防」

・・・とまぁ、2人が「揃って」登場するのは どちらも「オープニング」なんです。 それも、大きな節目のオープニング。 そういった重要場面で、芸術コンビは《永久の美》と《一瞬の美》という「お題」を出して問いかけているんです。

 で・・・度々申し上げているように、岸本先生の「物語の展開法」は《エピソードの最初の部分で結論あるいは重要キーワードを呈示して、その後それを証明していく》パターンが多いんです。 つまり、サソリとデイダラが「エピソードのはじめの部分」に登場して《永久の美》と《一瞬の美》を呈示しているということは・・この「対となる2つのお題」は、第二部で最も大切な「2大テーマ」という事だと思うんです。 そして、そのお題を呈示する役を仰せつかっている「サソリとデイダラ」も、物語中でかなり重要な役割を果たしていると言える・・・
 
 しかし、この「対となる2つのお題」・・・両方とも第二部の「中心的なテーマ」になったかというと、それがそうでもないんですよね。 中心的に取り上げられたテーマは《永久の美=つながれる想い》のほう「だけ」だったと思うんです。
 
 
・「完結=昇華」と「未完=封印」
 
 NARUTO-ナルト-後半(第二部)を振り返ってみると、ほとんどは「つながれる想い」の話です。 第2部はイヤってほど「死」が出てきて、ナルト達は「悲しみを昇華する方法」を探していき、「死んだ人も心の中で生きている、想いはずっとつながっていく」という答えを出していく・・・ そして師から弟子へ、親から子へ、兄から弟へ、友から仲間へ、敵から相手へと意志や想いが託されていく。 そうしてサソリの《永久の美》の物語は、道に迷いながらも・・NARUTO-ナルト-の中では見事に「完結(昇華)」します。  もちろん、その答えも「完璧」ではないにせよ、少なくともNARUTO-ナルト-の中では「完結」するのです。
 
 その一方で、デイダラが追求した《一瞬の美(生きている歓び、生の意味)》は・・・それほど取り上げられていないような気がするんです。 なかには「アスマの子供の誕生」とか「ナルトの誕生日」とか、ナルトの物語は「死に様」ではなくって「歩く道」だとか、「生」に関する話も出てくるっちゃ出てくるんですが、だからといって「生きるってのはこういう事なんだ!」とまで強いメッセージや答えは出ていないんですよね。   「生きている」のは「当たり前」だからなのかもしれないし、そこまで余裕は無かったとも言えるけど・・・ デイダラの《一瞬の美=生の意味》については、真正面から考えられる事は殆ど無いまま未解決・・・「未完(封印)」で終わっているのです。
 
 完結と未完・・・その「明暗」は、デイダラとサソリ2人の物語の流れ、特に2回めの登場である「奇襲部隊の攻防」の結果にハッキリと出ています。 戦争編のオープニング「奇襲部隊の攻防」で再登場した二人がどうなったかというと・・・ 
 
《サソリは「つながれる想いこそ永久の美」という答えを確信し、安心して満たされて「昇天」していく。 一方で、デイダラは「己の芸術=一瞬の美」が理解されていない事や、サソリの昇天に戸惑い喚きながら「封印」され、最終的にはあの世に「強制送還」されてしまう》。
 
 スッキリと答えが出された「永久の美」・・・そして「昇天」したサソリの話もきれいに「完結」します。 しかし、答えが出ないままの「一瞬の美」・・・そして戸惑ったまま「封印」されて終わったデイダラの話は中途半端で「未完」です。
 
40巻では、自信と誇りの中で死に様を迎えたデイダラが・・この世に戻って「戸惑ったまま」終わるってのは、どういう事なんだってばよと・・・この「明暗」は何だってばよ?とこっちも戸惑いました。 でも、この結末にも「意味」があったんじゃないかと今では思っています。  デイダラの話は、あえて《未完》にされたのだろうと・・ デイダラの話の「未完」は、ナルト達が《一瞬の美=生の意味》について答えを出さず「未完」に終わる事を予告するものだったんじゃないかと思っています。
 
 なにせ、先ほど申し上げたように・・・岸本先生の「物語の展開法」は、《最初に結論あるいは重要キーワードを持ってきて、その後それを証明していく》パターンが多い。 戦争編オープニングの「奇襲部隊の戦い」も、その典型的な例でして・・・その内容は「戦争編のその後の展開」を予告したり、「結論」を見せる話になっています。
 
 たとえば、このエピソード中の「カンクロウとサソリ」の話は、「ナルトとオビト」の話の予告のようなものだし、さらに「サイとサイの兄さん」の話は「ナルトとサスケ」の話へと繋がります。 それも、ネタバレレベルな「予告」内容・・・
 
カンクロウはサソリとチャクラを繋げてサソリを引っ張り出し、“先輩”サソリは“後輩”カンクロウに想いと意志を託して昇天する⇒ナルトはオビトとチャクラを繋げオビトの仮面を引っぺがし、“先輩”オビトは“後輩”ナルトに想いと意志を託して昇天する。  「血のつながりの無い兄弟」サイとサイの兄さんは「戦う運命」にありながら、最後には手をつないで微笑む⇒「血のつながりの無い兄弟」ナルトとサスケは「戦う運命」にありながら、最後には手をつないで微笑む)。
 
つまり、奇襲部隊戦での「サソリとデイダラ」のえげつないほどの「明暗」も、この先の「予告」の1つだったと思えるのです。  永久の美(死の意味)を追求する話は戦争編で「完結(昇華)」するけれども、一瞬の美(生の意味)を追求する話は「未完(封印)」で終わるぞ、というね・・。
 
たしかに、それを語るように・・66巻で、仲間を必死に守ろうとするナルトに対して、オビトが「仲間の死の痛みを繋がりと のたまうなら 仲間を無理に守る必要もなかろう?」とツッコむのですが、ナルトは「ここ(心)に仲間が居ねーのが一番痛エーんだよオレは!以上!」と・・今一つはっきりした答えは言えていないんです。「仲間を死なせたくない=生にこだわりたい」理由は絶対あるはずなんだけど、そこんとこは「セオリーじゃない」という感じで、漠然としたまま終わっているんです。「以上!」で封じ込めるように終わってしまってる・・
 
 正直言うと私も、そこんとこはセオリーなんか要らない、「生」にこだわるのは当たり前であって、特に「答え」なんか必要ないと思っていたんです。 だけど「デイダラの物語の未完」は何を語っているんだろう…と思うとね、やはりNARUTO-ナルト-では「死の意味」ばかりクローズアップされてて「生の意味」については積極的に答えは出されていないんだと気づかされるんです。
 
 岸本先生は何かと「対照的な描写」をされるけれども、サソリとデイダラの結末も極めて「対照的」だった・・・ 作者はそこんとこを、ちゃんと明示しておきたかったんじゃないだろうか。 ナルト達は、憎しみを止める為に「死の意味、永久というもの」を考え、答えを出すのに精一杯頑張った。 だけど、全部を解決したわけじゃないんだと・・ 「生の意味、生の歓び」そして「生きている事の有難さ」を考えることまでは至らなかったんだと。 
 もしかしたら「生の意味、有難さ」を考えることは「チャクラの使い方」や「チャクラ、全ての祖(神樹)は何の為に存在したのか」という問題に発展していくのかもしれないけれど、そこんとこはまだ「未解決、未完(とりあえず封印)」という事じゃないのかな。
 
 そして、実際に「生の意味」については「忍達はまだ答えを出せていない」と・・・バッサリ“裁定”する人物が、物語の終盤に登場してきます。 それが「グルグル」・・・69巻で再登場したあの人物(人じゃないとは思うけど)は、忍達を前に「お前達はまだ生の意味を全然分かっていない!」というような台詞を吐いています。 ここで、デイダラの《一瞬の美》は意図的に「未完」とされたのだと確信いたしました(グルグルのこの「裁定」については、後日の「続き」にて)。
 
 穢土転生されたサソリの、安らかな昇天が示す《永久の美=つながれる想い、死に意味を見出すこと》の解決、完結(昇華)。 そして、デイダラの戸惑いの中での「封印」が示す《一瞬の美=生きている歓び、生の意味》の未解決、未完(封印)。 それらも、作者の「緻密に計算、計画された上での」結果だと私は思うんです。 そして、やはりNARUTO-ナルト-ってのは《未完の完結》作品なんだと・・・だからこそ(朽ちることなく)読者を引きずり込むような「底知れぬ魅力」を持っているんじゃないか・・と思ったりするのです。
 
 
 
 
 
 
☆長駄文、読んでくださって感謝・・・
 
 
(ナルト好きブログ! 2016/09/05)
 
 
 
 
 
☆いつか自由に語り場を開けたらと書きながら、なかなか開けずにいてスミマセン。何か、NARUTO関連あるいは岸本先生関連の新しいニュースでもあれば、そのタイミングで・・と思うのですが。 そういうタイミングが近いうちにある事を願ってます・・!