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“暁”についての雑考(その1)

“暁”についての雑考(その1)

 
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夏は暁・・・いや、夏は夜、月のころはさらなり(枕草子
 
皆様それぞれ、お忙しい夏をお過ごしのことと思います。 
この夏は私事色々とあり、まだゴタゴタしておりますが、NARUTOや皆様から元気を頂いている次第です。 改めて、立ち寄ってくださるNARUTO仲間の皆様に感謝いたします。 
 
さて、今回は“暁”について少々。
 
最近は“暁”についての雑考も全然書いてなかったなぁ~と古記事を見てみたら、顔から火が出るような小っ恥ずかしい的外れな代物でして…“暁”に対する認識も今では「かなり」変わりましたので、訂正も兼ねて少々「現時点での」雑考を書いてみたいと思います。
 
“暁”といっても、今では組織は形骸化し、メンバーも殆どが居なくなってしまった…ちょっと寂しいですね。 とはいえ、“暁”が物語に於いて果たす役割の重要性は《まだまだこれから》だと思っています。
 
“暁”は、正規の忍集団ではないから一般人から見れば「ただの犯罪者集団」かもしれません。 
とはいえ、正直言って「目的のためなら何でもしてきた」のは、正規の忍集団(里)も大差ないんですよね。 しかし“暁”は《忍社会を脅かす存在》であり、忍里にとっては《未知の危険な新勢力》。 忍里にとって脅威である点に於いては、ここ数年の“暁”も 弥彦が率いていた頃の“暁”も、大差なかったの「かも」しれません。
 
危険な組織“暁”も、岩隠れに雇ってもらって資金(お小遣い?)を稼いでいたり、シッカリ者の角都が金庫番を担当したり、ごく「普通」っぽい組織の一面もある・・・平先生の《フルパワー忍伝》に登場する“暁”の日常と、そう大差ないような素の面があったんじゃないかと思ったりします。 彼ら、けっこう人間臭いですよね。
 
もっとも、どの面子も二癖三癖もある個性派揃いだし、各々が《己の美学とやら》をシッカリ掲げていたりするもんだから、ちょっとだけ扱いがメンドくさい。 でも相方に《己の美学の穴》を突っ込まれると、上手く切り返せ無かったりもする… 誇り高いくせに、実はちょっとだけ「自信が無い」。 だから、その「脆さ」をツッコまれたくないから、己の美学こそ最高である事をムキになって主張する。 
でも…お互い「それ以上は踏み込まない」のがお約束。 それは「お互い様」…相手の気持ちも「分かってしまうから」でしょうか。
 
彼等が「仕事」をする時、必要以上に「派手に暴れようとする」傾向は確かにあるので、それが“暁”の悪名をさらに高めてしまう結果にもなったと思うんですが…彼らの派手な暴れ方は、相方に対する“自己アピール”やら“強がり”もあったのでしょうか。 そして、その「強がり」は、自分の実力の高さを見せつける為というよりは、自分の「内面の弱さ」をひたすら隠す為だったのかな(と思えます)。
 
里に居た頃も、おそらく「枠から外れた忍」だったと思われる彼らですが、なぜか“暁”のリーダー命令には絶対服従、忠実なんですよね。 
それは「忍」としての“プロ意識の高さ”の為せる業なのかもしれませんが、それだけにも思えないんです。 彼らが“暁”という組織に忠実に従う理由…そこには「里というシステム」内では手に入れられない、「何か」が“暁”にはあったからだと思うんです。 里では得られたかもしれない“地位や名誉”とは違う「何か」…勲章や恩賞よりも大切な「何か」が“暁”にはあったからじゃないでしょうか。
 
そして、元々「一匹狼」であった彼らが、なぜか「ツーマンセル」を組んだ相方とは信頼し合い、互いを思い遣る言動が多かったんですよね大蛇丸とサソリは合わなかったみたいですが)。 
それぞれが「掲げる」己の美学に違いはあったとしても、尊敬し尊重し合ってる… それは「今の忍システムでは得られない何か」を求める気持ちが共通してメンバーに在ったからだと思うんです。 
名誉や名声なんかよりも「大切」な何かが他に有ると信じていた事、或いは勲章や恩賞を得る為に「大切な何か」を犠牲にしたくはないと思っている事が彼らに「共通していた」んじゃないだろうか。
 
その「大切な何か」とは何なのか・・・ 
 
「人間らしい」生き方なのか、本物の自分を感じることが出来る「居場所」なのか…あるいは理解し合える「仲間」なのか。
 
求めるモノ、叶えたい「夢」はそれぞれ違ったかもしれないけど、彼らに共通してあったのは《現状の忍世界に居ては達成できない夢を諦めないで探したい、叶えたい》という意志だったんじゃないだろうか。

鬼鮫は「霧隠れのマダラさん」に聞かされた“月の眼計画”を実現させたいと願っていたみたいでしたが、本当に鬼鮫は「幻術世界」に憧れてたんだろうか…何だか鬼鮫のイメージと幻術が一致しなくって、少々(私には)意外に思えてしまうんです。 飛段が不死にこだわったのは「現実」へのこだわりなんだろうし、“暁”メンバー達はそれぞれ「現実で叶える夢」にこだわっていた…。 
 
彼らが“暁”という組織に居て探し求めたモノ、そして見つけたモノ。 
それは居場所であり、仲間であり、夢を諦めずに追い求め「実現する」ことだったんじゃないだろうか。
それを考える時、やはり気になってくるのが本来の“暁”の目的、“暁”の名前の由来、そして“暁”誕生のいきさつなんです・・・
 
 
(その2、弥彦時代の“暁”についてへ続けます…)