ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

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NARUTO-ナルト- 657 :うちはマダラ、参る 今週のジャンプ・ナルト感想 (WJ02号) その1

NARUTO 657:うちはマダラ、参る  1

 
今週の感想の前に、また横道にそれますが、言い訳です。
この数日コメントのお返しが短く遅くなってホントごめんなさい。おそらく今週も記事をあげる事で手いっぱいになりそうです。実にプライベートなことですが、事情がありこの数日病院に籠っており(私自身は健康ですが)、病室内でパソコンとジャンプ新号を抱えてコソコソやってるもんですから、書けるときに書ける分だけ書いてアップするペースになりそうです。どうかご了解ください(いつも載せてる模写も、時間が取れたら書き加えます)。
 
今週は、久々の「マダラらしさ」が炸裂して、爽快なまでに面白かった・・!
それに黒ゼツとの絡み・・さまざまなシナリオが交錯し、そのあやとりが何とも面白い。写輪眼にまつわる話も進みそうだし・・感想も長くなりそう(おぃ)。
 
まず今週のタイトルの「参る」なんですが(参る・・ですよね?)、実は「参」の文字が滲んでよく読めず(老眼になっただけなのかも笑)、「参る」なのか「舞る(まいる)」なのか最初迷ったんです。明るいところで観察した結果、単純に「参る」だったと分かった次第でして(視力低下しすぎぞ)。 
そもそも「舞いる」なんて言葉は無いんだけど、マダラは「よく踊る」とか「踏み込みがなってない」とか踊り関係の言葉をよく使う。 それに、以前のタイトルにも「忍び舞う」という言葉があったりで、今週の『力を取り戻したマダラ』の切れのいい動きも、「舞い踊る」の言葉にもふさわしいモノでした。
 
それと、本来「参る」という言葉は「自分より目上の存在、神仏のところに詣でる」という意味でありまして、マダラの場合はどっちかというと「降臨」という雰囲気といえましょうか。 
だけど、もし(万が一)「参る」という言葉の中に、マダラが「神の戦場に馳せ参じ参る」という意味が(こっそり)含まれているのだとしたら、それはそれで「参る」という言葉も活きてくるのかもしれません(かも、という話ですが)。
 
そしてマダラと柱間が子供時代にやっていた例の「水切り」にしてもなんですが、少年柱間がやっていた水切りには「願”賭け”(自分の実力を試す)」の意味があり、少年マダラがやってた水切りには「願”掛け”(神仏に願う)」の意味があったのではないかと私は解釈しております(勝手にですが)。 
同じ目標に「届かせる」ために、自分の力を試して夢に「賭ける」のか、あるいは神仏の力に託して夢に「掛ける」のか。二人は同じ向こう岸を見つめながら、すでにあの時から考えに「微妙な違い」があったのではないかと考えております(このあたりは当時の雑考でも触れ済み…)。もしそうだったとしたら、マダラが「神」の力を得る手段を知れば、それこそが「届く手段」と考えるのも当然だったのかもしれません。そして、マダラはようやく神の居る戦場に「参る」、参上したという事なのかもしれないいつものごとく考え過ぎだとは思うけど)。
 
 
《さて、「生」に悦ぶマダラにいきなり天照を食らわせるサスケですが・・》
 
やっぱり・・・またサスケが「真っ先に」動きましたか。 
 
サスケは、十尾にもオビトにも「真っ先に」突っ込んでましたが、うちはの生き残りとして「旧時代の遺物の後片付け(尻拭い)」をやっているんじゃないかと思うんです(前の雑考でも述べましたが)。イタチが一族の愚考愚行の片づけを一人で背負ったように・・
 
とにかく・・
 
ついに出会いましたね、《マダラとサスケ》 (やっとか!)
 
これでようやく「新旧の運命に選ばれた二人どうし」が顔を合わせたことになります。
 
ナルトとサスケは、既に能力的には旧二人組を超えているのかもしれませんが、まだまだ足元に及ばない点もあるんだなと・・それが今週初めの部分、新旧二人のセリフの中に感じられるんです。
 
「旧時代の遺物がしゃしゃるな」 (サスケ)
 
「オレに届きもせん砂利ごときが… それはこちらのセリフだ」 (マダラ)
 
・・・「遺物」と「砂利」と。
 
サスケにとっちゃマダラは「終末の谷の石像」、完成されてるけど、もはや風化もしてる過去の遺物。 マダラにとっちゃサスケは未知数で「可能性もある」けれど、まだちっぽけな形もない砂利の一粒でしかない。 
お互いの「言い合い」・・・サスケのほうは真剣に精いっぱいの「罵詈雑言」を浴びせているんだけど、一方のマダラにはサスケの言葉に「応じて」砂利呼ばわりして「返答してやった」感が強い・・精神的な余裕を感じちゃうんです(サスケを「試してみたい」気持ちもあるんだろうけど)。いくらサスケが意気込んでみても、いかんせん風格というものに「差」があるわけでして、同じ「強気な物言い」同士でもまだその差はかなりある(当然ながら)。
 
 そして一方の《柱間とナルト》・・
こちらはサスケの天照攻撃に対しての反応に「差」が・・・。
 
「…!?」 (なぜ目を閉じた…?) (柱間)
「サスケ!こいつにただ術をぶつけても意味ねェーってばよ こいつは忍術を吸収すんだよ!」 (ナルト)
 
柱間は「マダラが天生されてからずっと眼を閉じたままで、天照の黒炎も輪廻眼で吸収しない」ことをチェックしてるのに対し、ナルトはサスケが「勇み足的な攻撃」をした事をチェックしてる・・ここに「差」が出てるんです。
 
もちろん、ナルトが指摘した点も間違いじゃないし、正しいアドバイスなんです。だけど、ナルトは「つい」サスケがまた先手を取ろうとしたことが気になっちゃったんじゃないだろうか。 サスケが戦場に来てから、ナルトとサスケはお互いを意識し過ぎなんですよね・・ライバルだから当たり前だけど《戦ってる相手以上に「お互い」が気になってる》のは確かだと思う。
 
ナルトはサスケが「やたらと先手を取ろうとする」のが気になる。サスケはナルトが「やたらと冷静に分析し作戦を打ち出す」のが気になる。
本来なら自分のほうが『得意』と思ってる分野で相手が上を行ってることに、焦りやら戸惑いを感じ、どうしても意識しちゃうんじゃないだろうか。
 
だから・・・つい、ナルトも肝心なマダラの観察より「サスケの勇み足」のほうが気になって、「この前のお返し」的な発言を言いたくなってしまう(「この前」とは、ナルトが「十尾人柱力には仙術しか効かない」のを忘れて突っ込もうとした失敗を、あとでサスケに「お前と一緒にするな」みたいな言い方をされちゃった件)。 その点、柱間はライバル・マダラの様子も冷静に観察してる・・そういうところは同じ「いい意味でのバカ」同士であっても、柱間とナルトにはまだ差はある。
 
前のナルトの「オビトへのお説教」もそうなんですが、言ってることは「ごもっともでカッコいい」ものであっても、年長者、大人から見たら「まだまだだよ」ってことも中にはあるのです。ナルト達の年代にはありがちな、もう一人前という自覚、自信の中にある危うさ・・ それが同じ事象を見ながらも、ナルトと柱間の見て取るものが「差」となって出る。やはり年長者の年の功、経験値の差というものがあると思うのです。彼ら「遺物」から学ぶべきところも多くあるはずなのです。
 
一方で、マダラは子孫の事を「オレに届きもせん砂利」扱いするのも相変わらず。
 
マダラが「誰もオレに届かない」と言うのは、『誰もオレに届いてくれない絶望』にも聞こえるし、『誰かオレに届いて超えてくれ』という願望にも聞こえる。
 
マダラが一族の長だった頃、彼が一番嘆いていたのは《一族に骨のある奴はもういない》事だったと思うのだけど、サスケに対してもそう簡単に及第点をつけたりはしないのでしょう。とはいえ、マダラがサスケの「写輪眼」には興味津々なのは、サスケの眼が「相当なレアもの(直巴)」だと見抜いているからなんでしょうが、眼の価値でしか判断できないのも哀しい・・(直巴については後述)。
 
にしてもマダラがずっと目を閉じたままで「眼を欲しがっている」という事は、穢土転生は輪廻天生の「器」としては使えても、「眼」までは復活されないってことなんだろうか(その理由についてはちゃんとした説明を待ちたいと思いますが)・・ そこで気になってくるのが、あの「大量の写輪眼が保管された水槽」なんです。
 
眼さえ保管していれば、白ゼツに故人のチャクラをコピーして作った「器(体)」に輪廻天生すれば「優秀な目を持つ、うちは一族の最強軍団」を天生させることだって可能なの「かも」しれません(もっとも天生には「魂」があの世に行っていなくて、まだ時空の狭間(あの世との狭間)に残っていることが条件なのかもしれないと考えております。たとえば「己の存在を消した」とまるで時空間に消えたような表現のシスイとか・・ オビトはシスイの眼を欲しがってたけど)。
話それちゃったけど・・とにかく本来の計画でも、マダラは天生されてから「長門に預けた目を返してもらう」ハズだったんですね。 
 

「相反する二つは作用し合い森羅万象を得る」
「柱間 かつてうちはの石碑の前でお前に語ったのを覚えているか?」
 
「相反する二つの力が協力することで 本当の幸せがあると記されている石碑だと」
 
「!?」 (ナルトとサイ)
 
「だが…別のとらえ方もできるとも言ったな」
 
「うちはと千手… 両方の力を手にした者が本当の幸せを手にする
そういうとらえ方もできやしないか…?」 (マダラ)
 
(鎧が脱げて、柱間の顔が浮き出た上半身を露出したマダラに驚く柱間… というか、柱間は黒棒を刺されて動けなくされている。マダラが黒棒攻撃してたのはこのためだったのか・・)

前にも五影の前でもはだけて柱間フェイス露出して『見せつけて』ましたけど、今度は柱間の前で柱間自身の顔を見せつけて・・これやりたかったんでしょうね、マダラさん。
 
遠山の金さんが桜吹雪を見せつける時の快感といいますか、水戸のご老公が葵の御紋を見せつける時の快感といいますか(もっといい表現ないんかい)。 相手の反応を「見たい」・・こういう悪趣味、いや(ホントは)茶目っ気たっぷりなところがマダラの「子供」っぽさでもある(と思う)。

千手とうちは、両方が永遠に手を取り合うのは「不可能」と考えたマダラは、ならばオレが一人で引き受けて叶えてあげようというね・・「柱間フェイスを付けた体」は悪趣味にも思えるけど、いわば「マダラの愛情を具現化した姿」なんだと思います。 父ちゃんが母ちゃんも兼ねちゃった両性具有化の姿みたいな・・(もっといい表現ないんかい)・・これも「ずっと先まで」里の者たちを兄弟として守るための、マダラの愛情表現なんだと思えるのです。
 
そして「森羅万象」・・これこそがNARUTO世界の物語(シナリオ)をどこかからか動かしている存在長門が言っていた「本当の神」とでもいうべき存在)そのものじゃないかという気もします(「岸本先生」ではなく)。それゆえ森羅万象を解き明かし知る事、その過程が重要になってくるのではないだろうか。
 
「うちは」の石碑に記された「森羅万象を得る」という言葉。
そして大蝦蟇仙人の夢に出てきた「森羅万象を見てまわる」という言葉。
自来也が世界をめぐり森羅万象を見てまわる・・という夢のお告げ)
うちはと千手側、それぞれに示された「森羅万象への道」。
 
「得る」ためには「体」が必要で、「見る」ためには「眼」が必要で、これじゃあ「うちはと千手」逆にも思えるけど、結局は「得る」も「見てまわる」も同じく「知る」という事なんじゃないだろうか。
「体」を持たないうちはは「得る」ことを、「眼」を持たない千手は「見る」ことを通し、互いを知り・・森羅万象(天地間のすべてのモノ、世界の真理)をやっと「知る」事が出来るという意味もあるんじゃないだろうか。
 
この前、オビトが《自来也という存在の大きさ》に触れていたけれど、彼は自来也が大蝦蟇仙人に「夢のお告げ」を託されてたことを知っていただろうか。
 
自来也が大蝦蟇仙人の夢のお告げを受けて書いた書物(シナリオ)と、マダラが六道仙人の石碑を読んで作った計画(シナリオ)と・・
この相反する二つが作用し合った時に、森羅万象への道が開かれるの「かも」しれません。
 
そして、それも「見えざる本当の神」のシナリオのうちだったりして・・
 
 
 
(まだまだ最初の部分だってのに、これじゃ長くなりそう・・・その2へ続けます。)
ただし事情がありまして、アップ時間は未定ですみません・・が「必ず」続けます。コメントのお返事は当分できないかもしれませんが、お許しください。
 
ところでサスケが乗っているのは「サスケが口寄せした鷹」かと思ったんですが、あれはサイが描いた鳥でしょうか(違うかな)・・いつの間に)。