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NARUTO-ナルト- 659:輪墓・辺獄(りんぼ・へんごく) 今週のジャンプ・ナルト感想 (WJ04/05合併号) その2

NARUTO 659:輪墓・辺獄(りんぼ・へんごく) その2

 
(その1の続きです)
 
・遅刻の理由
 
オビトの『遅刻の理由』…これが一番重要なモノではないかと前々からブチブチと書かせていただいておりますが、やはり大切だと思うのです、何事にも「理由」というものが。
 
マダラやゼツ達が、オビトのことをやたらと「過小評価」している事も気になるのです。役立たずとか用済みとか、連れ戻すのに何年もかかったガキとか… 彼等はオビトが「17年もかかった(大遅刻)」という点と「仲間(マダラ)に迷惑をかけた、失敗したり負けて足を引っ張った」という結果だけで判断し、評価を下しているんです。それって、599話のサイレント過去描写と共通してませんか…?
 
599話のサイレント描写、そこで描かれた『少年時代のオビトの周囲の評価(印象)』といえば、いつも「大遅刻してくる(何時間もかかった)」、そして「仲間に迷惑をかける、術を失敗したり負けて仲間の足を引っ張る」、だから「あいつは落ちこぼれ」という烙印を押されていたというものでした。今、マダラやゼツが判断しているのと同じ基準です。
 
でも599話の回想では、同時にオビトの遅刻には理由があったということ(人助けをしていた)、そして見えないところで人一倍「努力をしていた」ということも描かれていた…
 
通常人間ってのは他人を評価(判断)する時、その人の行動の「結果」および自分に与えた「影響」しか見ようとしない… 遅刻の「理由」だとか、見えないところでの努力なんてのは考慮しない事が多いんですよね。だけど本当はそっちのほうが「本質」を物語るモノ・・重要なんじゃないかと思うんです。だからあの「599話の過去描写」はあえて「セリフ、説明なし」にされていて、そこから何を読みとるのかは読者次第(受け取り方次第)なのかと考えています。だから私はオビトの「大遅刻の理由(なぜ17年もかかったのか)」は重要だと考えているのですが(まだこの本当の理由は明かされてないけれど)、それに目を向けていないマダラとゼツ達のシナリオは、いずれそこが「穴」になるのではないか…と、オビトをナメ過ぎているところにも意外と穴があるのではないかと(こっそり)考えています。
 
601話で、マダラはオビトの寄り道(遅刻)に対して「今まで何をやっていた」と尋ねているんですね… 長門はどうしたとか、具体的に何をどうしたのか流れ、手順を尋ねているんです。一方でカカシはオビトに「なぜ今まで…」と尋ねている…「なぜ」と。 
 
でもマダラは「なぜ」とは聞かないし、聞こうとしない… 結局マダラはオビトの遅刻に対しても「どいつもこいつも」とか「まぁいい」発想で処理してしまったのだと思うんです。マダラの発想の根本にあるものは「誰も信頼できない」信じられるのは己だけという黒ゼツと同じ発想…全部自分でやらなくてはと思うのだろうし、だから周囲の失敗や裏切りの「理由」まで知る必要も無いし、イヤ知りたくないのかもしれません…傷つくのが怖いのかもしれない。
 
たとえば今回も、外道魔像の右腕がもがれていた事も「まぁ特に支障はない」で済ませちゃっているし「なぜ」とかを追求しない…結果だけを考えてる。柱間が「過程」を重視する発想なのに対し、マダラは「結果」を重視する・・そこに2人の大きな違いがあるんじゃないだろうか。
 
 
・戦いの「優雅さ」
 
しかし、白ゼツのマダラへのツッコミが的確で実に面白いんですね、これが…
 
「こっちも少し時間がかかりそうだけど」とか、マダラがオビトのことをガキ呼ばわりすればマダラに「…血だらけですけど…」とか。
 
白ゼツってのは、黒ゼツほど信念を持っていないというか、様子を見てあっちについたりこっちについたり、状況をけっこう客観的に眺めていて面白がってる感じがあります。だから「マダラ様」とは言ってるものの、忠誠心からではなく、それも「半分面白がって」言ってるんではなかろうか… 今はマダラにくっついていれば「面白いものが見られる」という好奇心で動いている感じがする。
 
603話では「ガキに合わせて話すほど人間できてないからマダラ」なんて本音も出ていたけど…案外、白ゼツは客観的な分、マダラという人物のことも的確に見抜いているんじゃないだろうか…だから面白がってツッコんでるんですよね。
そして、マダラの言動の大半が「カッコつけ」であることも分かってるんじゃないだろうか…だからツッコめばつっこむほどマダラも「言い訳」してくるから、その反応が面白いのかもしれない。
 
「柱間の治癒の力があると分かっている分…戦い方に優雅さが欠けてしまう」とか「もう少し丁寧にいく 輪廻眼本来の力を使えば高尚な戦いに見えよう」とか。
 
白ゼツのツッコミを『真に受けて反応しちゃってる』ところなんて、んーー、マダラって意外と無邪気とも言えるし、真面目とも言える。
言葉に乗せられちゃうところがあるのは、穢土転されたばかりの時、カブトの「見せて下さい伝説の力を」なんて言われて「よかろう」なんて反応しちゃった真面目さからも分かるのですがね… そして真面目なのは、前に女性蔑視とも思える発言を(綱手に)しておきながら「女がしゃべっている間は男は黙って聞くもんじゃ」というチヨばあが言ってたようなマナーをしっかり守っていた点からも見てとれる(って話は去年しましたっけね)。
 
そしてマダラが「見た目のカッコよさ」に意外とこだわる人だってことは、子供時代の柱間のセンスを酷評したり、立ちポーズにこだわるところからも分かるのですが、しかしマダラが生まれつき「センスがあるかどうか」はちょっと疑問に思うこともあるのです。 マダラの子供時代の服装とかヘアスタイルを見ると無造作に見えるし、どっちかというと父・タジマや弟・イズナのほうがビジュアル的にもポーズも決まっていたような・・・
 
マダラって、戦いに於いても常に柱間の次「二番手」だったけど、ビジュアル的なカッコよさも実はイズナの次「二番手」だったんじゃないだろうか。そのあたりが意外とコンプレックスになっていて、やたらと戦い方の美学にこだわる発言につながっているんじゃないかとも思えます(あくまで個人の感想です)。マダラのそういうところ、白ゼツも分かってて面白がってツッコんでいるんじゃないのかな…?
 
そして、マダラが言うところの「輪廻眼本来の高尚な使い方」とやらですが…
 
 
・《輪墓・辺獄》
 
どうやら尾獣に衝撃を与え動けなくしてしまう輪廻眼の術みたいですが、まずはこの術の語源なのですが…(まずは例によってウィキ引用)。
 
《辺獄(へんごく、リンボ、ラテン語: Limbus、英: Limbo)は、カトリック教会において「原罪のうちに(すなわち洗礼の恵みを受けないまま)死んだが、永遠の地獄に定められてはいない人間が、死後に行き着く」と伝統的に考えられてきた場所のこと。イエス・キリストが死後復活までの間にとどまった場所とも言われる》・・・
 
もちろん、これは作者がネーミングの参考にしたであろう「語源」に過ぎませんが、クリスマスも近い事だし時節柄、キリスト教関連で来ましたな… 
そしてクリスマスと言えばマダラの誕生日(12月24日、データブックによる)。
 
最近、データブックはどこまで考察材料にしていいのか迷う事例も出てきてますが、誕生日設定に関しては実によく考えられてるなぁというのが私の印象です。
マダラの誕生日が12月24日という事から、マダラという人には「救世主願望」が強くあるんじゃないかという雑考を以前書いたことがありますが、やっぱりこの人は『真面目に』自分が救世主になるつもりなの「かも」しれません。
実際に、オビトに対して「今日からお前が救世主だ」なんて事を言っていましたが(606話で)、つまりそれはマダラ自身が救世主になるつもりだった・・という事だと思いますから。
 
そして「辺獄」「世の原罪を一人で背負って死んだ救世主が、復活までのあいだ居た場所」と仮定するならば…マダラの魂も復活までの間「辺獄(=「あの世との狭間」なのかな)」に居たのではないかと思えてくるのです。
そしてマダラも、尾獣という「人間が神樹の実を奪った原罪」を一人で背負うつもりでいるんじゃなかろうか…? 「神」に許しを乞い、全ての忍達を「許してもらえる」ように… それがマダラの「この世界を地獄では無くす方法」、永遠に忍達を「見守る」方法なの「かも」しれません(不器用な「愛の人」マダラ流の)。
 
そして《辺獄》…それが復活を待つ魂の居場所、あの世には行っていない魂の居場所だと仮定したらですが、それこそ生死の外「外道の居る場所」神の空間、時空間なのではないかと…時空間好きな自分としては、またそう考えてしまうのです。
 
以前から「輪廻天生してもらえる条件」についてはアレコレ考えてきたのですが、長門が輪廻天生した時の描写から判断して、条件としてはこの世界に「魂が戻るべき肉体がある事」、そして「魂がまだあの世に行っていない事」と考えてまいりました(あの時、輪廻天生の対象となった「カカシの魂」が居たのはサクモの魂と会った焚火の場所・・あそこがあの世に行く「途中」だったという事は、サクモの「これで安心して(あの世に)行ける」の発言から分かるのです。このあたりについては、古~い時空間関係の過去記事参照ということで)。
 
つまり死後十数年たっても、マダラの魂は辺獄(あの世との狭間)に居たんじゃなかろうか…それは個人の意思次第で留まることは出来るのだと思います(サクモのように)。そしてマダラ爺ちゃんが「地獄の現実世界とは隔離された、外道魔像が居るアジト」の事を「あの世との狭間(辺獄)」と少年オビトに言ったのも、上手い喩えだったと思うのです…
 
そして、尾獣たちが「輪墓・辺獄」で動けなくなったという事は、その術が「原罪」を拘束するような術であり、尾獣たちは「原罪を形にしたもの」であるのかもしれません・・サスケが尾獣を滅しようとしたのも、そのせいだったのかな。
 
 
(外道魔像から尾獣を拘束するチャクラの鎖が放たれ、尾獣たちの首に鎖がつけられる)
 
「まずは八尾と九尾を… 人柱力から引きはがす!」 (マダラ)
 
「九喇嘛!!」 (ナルト)
 
「!!」 (ビー)
 
《くそ!!》 (九喇嘛)
 
ま、まずいんじゃないでしょうか…この状況。
 
もし、万が一九喇嘛のチャクラがナルトから引きはがされることがあったとしたらですが… それでナルトの命が脅かされるかどうか、その点はまだ「不明」じゃないかとも思っています。なにせナルトの中には「陽チャクラの九喇嘛」しかいないのだから…。
 
《人柱力から尾獣チャクラを抜いたらなぜ人柱力は死んでしまうのか》…それが尾獣チャクラと人柱力チャクラが密接に「くっついている」せいだとしたら、尾獣チャクラと一緒に全部チャクラが体から抜けて、死んでしまうのかもしれません(仮説)。でも、もし「陽」限定の九喇嘛チャクラの場合、ナルトのチャクラとくっついているのはナルトの「陰チャクラ限定」だとしたら…九喇嘛のチャクラが引きはがされても、ナルトのチャクラは半分量残り、全部引き出されないですむ可能性はあるんじゃないだろうか(あくまで可能性)。もしかしたら、オビトが尾獣達を引きはがされても死ななかったのは、尾獣たちのチャクラが「完全じゃなかった」から(八尾と九尾が不完全)というのも理由としてあるの「かも」しれません…
 
或いは、もしナルトとビーが九喇嘛や八つっあんと一緒に「外道魔像の中」に入ってしまうようなことがあったとしたら…それはそれで面白い展開になるのかなと思ったりもします(おぃっ!)。
 
いや、「魔像の中」ってのも面白そうだし、意外とそれは《外道の居場所=時空間》と繋がっているのではないかとも思えるので… ここから先「神」と向き合っていくのだとしたら、それも必要な過程なのかもしれないと思えたりするのです。
 
それに何と言っても、なぜかここには3人の心強い「神空間」に出入り出来そうな「神」の名を冠する時空間忍術ユーザー、ミナト、カカシ、オビトが揃っているというのも「これから時空間で何かあるのではないか」と思わされる理由なのです(扉間もどっかにいますが)。 彼等なら、ナルトが引き込まれても助けに行くことも出来るのではないか…?「時空間」と叫び始めてからかなり長い時間経ちましたが、ようやく時空間が重要な舞台になりつつあるんじゃないか…と期待しております(またズレるかもしれないけど)。
 
しかし、マダラが万が一、この世界の「おぞましい原罪」を一人でひっかぶって「救世主」になるつもりだと仮定した場合の話なのですが・・ オビトはそれも分かっていたのかもしれませんな… 
 
オビトがアレだけマダラを警戒していたにもかかわらず、それでも爺ちゃんの団扇を「爺ちゃんの意志」として大切に背負っていた「理由」も、それなら分かる気がするんです。 オビトの遅刻の理由は「年寄りを助けること」だと予め明示されている事も、それなら分かる気がする… あくまで「仮定の話の一つ」としてですが。
 
なんだかなぁ、オビトは弱々しく撃沈(したように見え)、マダラが派手に大暴れしている中で、それでも私にはこの2人組の行動は「表面だけで判断してよいモノだろうか」とますます疑問に思えてくるのです。 
それは子供時代の描写を「答え」のように見ているからでもあるのですが… これも私の読み方の「個性」、星の数ほどあるであろう解釈の一つと受け取っていただければ幸いです。
 
 
さて・・次号は来年、1月4日まで「お預け」。
年末まで、残りの雑考と、いくつかの記事を考えてます・・年末恒例の記事とかも。それまでどうか、よろしくお付き合い下さい。
 
 
 
 
 
☆長駄文、読んでくださって感謝・・ありがとうございます。
 
 
 
 
 
 
☆658話の雑考も、年内にアップするつもりです。
 
☆休み中、コメントくださった方々、お返事はしてませんが読ませて頂きました。有難うございます・・「質問コメント」はのちお返事させて頂きますので気長に待ってやってください。
 
 
 
 
(ナルト好きブログ!2013/12/21)