ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

NARUTO-ナルト-の考察(伏線、言葉、人物考察などなど!)続行中!

大蛇丸が夢見たモノ・・・

大蛇丸が夢見たモノ・・・

イメージ 1
大蛇丸のことを、「人間じゃないみたいな…人の形をした何かみたいな…怖いんだ」と言ったのはイビキさん。あのイビキにすら『怖い』と言われた大蛇丸。ゾッとする「死」を予感させるような冷気を纏っているのに、当のご本人は「死」を忌み嫌い・・・「生」に拘りぬく人だったりする。
 
さて、大蛇丸が「こんなになっちゃった」キッカケは意外と純粋・・《亡き両親に会いたい》という願望だったりしますよね。そのことは大蛇丸をよく知る三代目や自来也もよ~く分かっているわけで。
40巻大蛇丸の回想での話ですが、まだあどけない美少年・大蛇丸が両親の墓参りをしている時に「白蛇の抜け殻」を見つけます。付き添っていた師・ヒルゼンが「白蛇は幸運と再生の象徴」だと教えるのですが…その時ヒルゼンが大蛇丸へ向けた視線、なんとも温かいんですよね。幼くして両親を失った大蛇丸の心の傷を思いやるヒルゼンの「優しさ」が、とても印象的だったのですが・・。いい師弟だったんじゃないか・・・なんてね。
 
だけどその印象は、その後の自来也の台詞で変わります。
ナルトが思い出している自来也との会話(45巻)上でも、大蛇丸の両親の話が出てくるのですが・・・
 
大蛇丸がおかしくなってきたのは両親を殺されてからだ』
 
『・・両親に会いたかったのか ・・それとも両親を死に追いやった木ノ葉への復讐か』
『ワシは親を殺されてはおらんからの…』
 
《両親を死に追いやった木ノ葉》そして《両親をころされてから》という言葉・・・。これ、尋常じゃないですよね。
 
自来也は「大蛇丸がおかしくなる前=両親が健在の頃」も知ってるし、「おかしくなった頃=両親がころされた時」も知っている。ということは、大蛇丸の両親が「ころされた時」ってのは三代目ヒルゼンが火影だった時という事かなと思うんですヒルゼンはかなり若くで火影になっているように見えますので)。 
つまりヒルゼンは火影として「大蛇丸の両親の死」に、責任を感じていたんじゃないだろうか・・とね。。
 
しかし一体何があったんでしょう。「忍」である以上、戦死等の殉職はありふれた事・・・けして珍しいことではないし、それは時に名誉とされたりもします。だから普通は「ころされた」なんて言い方は、あまり言わないハズですよね・・(つまり普通の戦死・殉職では無かったのではないかと・・・)。
例えば他に「ころされた」という表現を使ったのは、20巻のカカシ…「(大切な人は)みんなころされてる・・・」とサスケに向かって言ってましたっけ。あの時も軽く違和感を覚えたんですけどね・・・忍なのに「ころされた」なんて表現をカカシはなぜ使うの?って。
 
カカシが言う「皆」には、父サクモやミナト、オビトも勿論入っていると思いますが どっちかというと彼等は「殉職」扱いだと思うんです(オビトの話によれば、サクモも一応、里では殉職扱いだったようですので)。
だけどカカシが「ころされた」という表現を使っているということは、リンの死が《ころされた》に近いモノだったからではないか・・という気がするのです(リンは忍と言っても医療忍者だし)。
殉職ともいえない、戦死ともいえない…犠牲になるような死に様だったのではないかと・・
なので、大蛇丸の両親の死とリンの死・・・それらは遺された者に深い心の傷を負わせているんじゃないのかなぁ。
 
尋常ではない両親の死。 それを知る三代目や自来也は、大蛇丸の心の傷を思って《大蛇丸の罪は憎んでも、大蛇丸は憎まず》の姿勢を貫いたのでしょうか。
 
大蛇丸の両親の墓前で、白蛇の抜け殻を見つけたあの日・・・ 
ヒルゼンが大蛇丸に向けていた視線はただ優しいだけではなかった・・・幼い大蛇丸に対して「申し訳ない」という辛い思いを抱えていたんですね。そんな負い目が、ヒルゼンの「大蛇丸への甘さ」につながっていったのかもしれない・・。
 
第二次大戦中、雨隠れで長門達に三忍が出会った時…
 
大蛇丸『殺す?この子達』 『ずいぶん戦争孤児を見てきたけど惨いものよ いっそのことここで殺してやるのがこの子達にとっても・・』なんてサラ~っと言ってるんですよね。やっぱり残酷で容赦ないな~とも思ったのですが・・・でもあれは大蛇丸の「優しさ表現」だったのかもしれないですね。《親を失って生きていく心の痛み》を知っている大蛇丸なりの「優しさ」だったのかな・・と。
 
ずっと「両親が殺された記憶」を抱えたまま生きる事の苦しさ・・そして悲しさ。長門達の姿は幼い頃の自分を思い出させるものだったのかもしれません。大蛇丸が六道の真理を解き明かし「究極の個体になること」を目指した理由も「両親に会いたいから」なんて純粋な願いだとしたら・・ 何だかあんまり憎めなくなってくるんですよね;
 
しかし、気になるのは大蛇丸は肝心の「両親」を穢土転生はしていない、ってことなんです。
 
一番会いたいはずの両親は穢土転生していない・・ということは、大蛇丸はまだ完璧な「生き返らせる術」は開発できていなかった、ということでしょうか。「完璧に転生させる術」を手に入れるには、もっと「データ」が必要なのだろうし究極の体も必要なのかもしれない・・。それこそ「長い時間を必要とする計画」…そのために求めた不老不死でしょうか。
 
長期計画と言えば本マダラもそうですよね、「一度死んで」その後を協力者に託し、復活の時を待っていた・・・そして大蛇丸も同じようなパターンなんじゃないだろうか、なんて思うんです。
 
大蛇丸の場合は、サスケに「わざと取り込まれ」…そして「カブトが自分を取り込むことを想定」し、「一度死んで」その後をサスケとカブトに託した・・・ そして復活の時を待つことにしたのではないかと(サスケの方に残っていた大蛇丸は、封印されちゃいましたが)。大蛇丸は今、カブトの中で「復活」の時をジーッと待っていたりするのかも、なんて思うと今後が少々楽しみにもなってきます。
 
そしてカブトが(サスケの体に転生して)究極の個体を手にいれたあかつきには、念願叶って復活し…そして究極の転生術で両親と再会する・・・それが大蛇丸が実現したかった夢だったりするのかもしれない(もっとも大蛇丸の「魂」はイタチによって酔夢の中に封印されてますがw)。
あれだけ両親に会いたかった大蛇丸が、両親を「転生」させずに終わろうとするとは思えないんですよね・・。
 
カブトはこの戦争で「データを取る」なんて言ってましたが、それも大蛇丸の夢の実現の為の「データ収集」だったりするのかも。 大蛇丸とカブト、二人が望んだのは「おとぎ話(夢)の実現」・・・それこそ六道仙人の力の再現、「想像の具現化」なのでしょうか。 
 
(・・・にしても、時を弄ぶと ろくなことにならないですぞw)
 
 

☆長駄文読んでくださって感謝。