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NARUTO-ナルト- 618:全てを知る者たち 今週のジャンプ・ナルト感想 (WJ10号)  その1(サスケが見るもの・・)

NARUTO 618:全てを知る者たち その1 (サスケが見るもの・・)

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・・・・・・
ここも・・・
 
ずいぶん変わったな
 
 
 
久しぶりの帰郷をした、サスケの目は いったい何が見えているんだろう・・・?
 
木ノ葉はサスケにとって懐かしい、大切な故郷。 兄さんとの、仲間との思い出が詰まってる宝物みたいな場所のハズ。そして、サスケの帰る場所でもある。
でも、その眼には、もう迷いも曇りもないように見える。決意を新たにしながら、サスケは憎しみでは無く、故郷への愛を確認しているんじゃないだろうか。
 
見つめる遠く先に在るのは、歴代火影の石像・・・・全てを知る者たち。
 
しかし・・・今週は、
 
 
 
 
ついに登場しましたねー歴代火影!
 
 
 
 
意外にもアッサリとご登場だったので驚きましたが、 これからは話も加速して、マダラ戦場で募ったモヤモヤした謎も一気に解けてくるんじゃないかと期待しちゃいます。
 
 
・仮面と封印の話
 
 
が・・・まずは、サスケ達が到着した場所、これが《うちはの南賀ノ神社》では無かった(汗)
 
「鳥居」を見たら南賀ノ神社でしょ、という思い込み・・・イタチに「思い込みで判断しない方がいい」と言われたんじゃなかったっけ(反省)。 確かに、サスケが大蛇丸に「案内しろ」って言ってたんだから、サスケが知らない場所のハズですよね。 で、ここは・・・
 
うずまき一族の「納面堂」だった。
 
なるほど、正面にはうずまきの家紋がしっかりついてるし、ずらーっと並んでいるのは不気味な般若の仮面。 
大蛇丸はそこから1つ「屍鬼」の仮面を選び取ってますが、じゃあ他の仮面は何なんだろう?
・・・それぞれ「○鬼」と名がつく「鬼各種」の仮面なのか屍鬼では無い般若達なのか。それとも屍鬼(死神)が何人もいるのか。何番隊とか分かれるぐらいに・・ いや、気になるのは何故うずまき一族が《納面堂》なんてモノをもち、これだけの般若面を持っていたかって事です。 屍鬼というより“神”というべきなのか。
 
そして、もっと驚いたのは、この仮面の「使用方法」。仮面を着けることで、その神(今回は屍鬼=死神)の人柱となり、己に憑依させることができるということ・・・。もちろん、既に口寄せ契約をしているからこそ、可能なのでしょうけれど。
 
以前、六道仙人のシルエット絵を見ていて、仙人は般若面を着けてたんじゃないかと思っていたことがあるんです(例えば49巻462話トビの説明に出てくる仙人のシルエット顔)。 元々そういう顔立ちなのかもしれないけれど、仙人は十尾神本来の姿の「仮面」を着けることで己に十尾を憑依させ、人柱力になった可能性もあるのかなとも思ったりで・・。
オビトやマダラはどうやって十尾の人柱力になるつもりか分かりませんが、今までオビトが仮面を被っていたのも、正体を隠す目的以外に己に何者かを己に「憑依させる」目的もあったんだろうか・・・十尾か うちはの何者かの精神を憑依させるつもりだったのか、或いは実際に魂を憑依させる訳じゃなくても 精神的に「その者になり代わる」意味だったのか。
 
そして、うずまき一族が長けていたという「封印術」。
 
屍鬼封尽」とは、ミナトとクシナが《万が一九尾が暴走した場合に備えて開発した術》かと私は思っていたのですが、うずまき一族に以前から伝わる封印術の1つだったのかもしれません。《○鬼封尽》みたいな各種鬼(?)と共に封印する術の1つだったのかも。
 
そして「封印術」というものは、そもそも相手を滅ぼしたり無くすための術では無く、「大切にしまっておく」術と言えると思うんです。 つまり、いつか必要な時に開けて取り出すことを目的とした「保存術」の一種とでもいいましょうか・・・ナルトに封印された九喇嘛のように。
 
だから《封印と開印》はセットになっており、屍鬼封尽でさえ「解」を前提にして開発されていると思うんです。
だから屍鬼封尽をしたミナトも三代目も、「解」される時を意識しながら、術をかけたのかもしれません・・・。
封印術には、必ず解印術がある・・・納面堂にずらっと並ぶ仮面も、いつか「解」されるのを待つ封印たちの数でもあるんだろうか。
 
そして、うずまき一族と鬼(神かな)の密接な関係も気になるところで、彼らうずまき一族は「鬼」を口寄せし、憑依させる事ができた・・・・ 千手の扉間が「魂」を口寄せする穢土転生を開発出来たのも、うずまきの「鬼口寄せ」能力に近いものがあるんじゃないだろうか。そしてこれは、うちは一族が尾獣(九尾)を口寄せし、操ることができた関係と対比できると思うんです。
 
般若面達の正体が神なのか・・・分からないと何とも言えないんですけど、須佐能乎(神)にも似ているような気がするんです。もしこれらの仮面が神たちだと仮定したら、サスケとナルトは対称的と言えるかな。
 
ナルト(うずまき=千手)は神(鬼たち)を口寄せしたり、憑依させることができる一族。 そしてナルトは体内に九尾を持っている・・・
そして、サスケ(うちは)は 九尾を口寄せしたり、操ることができる一族。 そしてサスケは体内に須佐能乎(神)を持っている。
なんというか、お互い通帳とそれに合う印鑑を逆に持っているというのかな・・・。
 
以前、六道仙人が遺した封印に関する雑考で、ナルトとサスケつまり六道仙人の長男と次男の末裔が持つ《封印》を解することができる「鍵」は、お互いに相手が持っているのではないか・・と書いたことがあるんですが、二人が手を取りあえば、封印がいよいよ「解」の時を迎えるのではないか・・・なんて想像しているのですが。
 
六道仙人は力を「封印」という形で子孫達に残し、兄の分の鍵は弟に、弟の分の鍵は兄に仕込んでいるんじゃないだろうか、目には見えない形で・・こっそりと。 全てにおいて、六道の兄弟は『真逆』そして『対称』。
 
 
・サスケが見る、《目には見えないモノ》
 
仮面を手に入れた後、再び里の中を通り、今度こそ南賀ノ神社に向かうサスケ一行・・・・ということは、『うずまき納面堂』と 『うちはの居住区(南賀ノ神社)』は里の端と端、対極側にあるんですかね。 
一行は『フード被ったお忍び姿』で歩いてるけど、芸能人がサングラスと帽子で変装してるぐらい怪しすぎなんだけどなぁ・・・歩いている忍達は気付かないって、相変わらずセキュリティおかしいんじゃないの?木ノ葉は。 ペイン襲撃の時もその緩さに驚いたもんですが、戦時中でも平和ボケって言われちゃいそう。。
 
(ちなみに彼らが歩いているお店が並んだ通りですが、昨夏の映画『ROAD TO NINJA』に登場した街並みにそっくりな気がする。チャラスケがナンパしてた辺りの・・・余談ですが)。
 
 
(ふと、思い立ったように高い電柱に登り、里を眺めるサスケ・・・)
 
 
これ、ご記憶の方多いでしょうが《28巻でナルトが久しぶりの帰郷をして、電柱に登って里を眺めた時》と対称になっています。
 
サスケは「・・・・・・ここも・・・ ずいぶん変わったな」と言ってるけど、
あの時ナルトは「なっつかしーっ! 全っ然変わってねーってばよ!」。
 
・・真逆だし。
 
 
ナルトが3年ぶりに帰郷して見た光景だって、綱手の顔岩が増えていたり多少は変わっていたハズなんだけど、ナルトには全然変わってないように見えた。
ナルトにとっちゃあ待ちに待った帰郷で、高いところから一望する里は、ナルトを歓迎してくれてるように見えたんじゃないかな・・・自分を受け入れてくれる場所に戻ってきたという喜びが、全然変わってないように見えたんじゃないだろうか。
 
サスケが見た里の光景は、確かに復興中だからかなり変わっているとは思うんです。 だけど、再建中のわりには忠実に街並みを再現しているから、眺めそのものは意外と大差ないと思うんだけど・・・だけど、サスケにはずいぶん変わったように見えた。
 
今のサスケの目には、以前とは全く違うものが見えているんじゃないだろうか・・・?
 
内に矛盾や問題を孕んだ「里」の真の姿。 イタチの犠牲の上で繁栄している里、笑っている人々・・・
 
見えない闇、夥しい“名も無い英雄”の犠牲・・・目に見えないものが地中に眠っている、木ノ葉という大樹。
それを知って眺める里は、たとえ上っ面は さほど変わって無くても、全然違うモノに見えていると思うんです。
 
今のサスケには、目には見えないモノが見えているんじゃないだろうか。
 
そう考えると、木ノ葉という大樹の輝かしい世界を見えないところで支えた“根”は究極の自己犠牲の忍達であり、それを束ね「忍の闇」の代名詞を一身に引き受けたダンゾウは、これまた究極の自己犠牲の忍なのかもしれない。 汚名を背負う覚悟は、火影になる覚悟以上の厳しい覚悟が要ると思うんです。
 
 
「私が木ノ葉崩しをやる前と同じね・・」
 
「たとえ彼や里が変わってしまったとしても ここは彼の故郷に変わりない」
「感傷に浸り 過去をなぞることで 己の決意を再確認する時間が必要なのよ」 (大蛇丸
 
珍しいなぁ~、大蛇丸が木ノ葉崩しの時の想いを自分から語るなんて。
だいたい過去の自分に重ねて語るなんてのは、“現役の人”がやる事じゃあない・・・引退した人がやる事。
今まで転生を繰り返し、醜いぐらい“生”にしがみついて《この私》にこだわってきた大蛇丸だけど、やっと託せる後継者を見つけられたんじゃないのかな。 だからもう…こんな穏やかに微笑むことが出来る。
 
あっちの戦場では、マダラがかつての自分を今のオビトに重ね、温かく見守り・・すっかり禍々しさが抜けているように・・・大蛇丸もかつての自分をサスケに重ね、温かく見守り・・すっかり毒が抜けちゃってる。 
 
マダラも大蛇丸も、やっと「後継者=己の意志を継ぐ者」を見つけけることが出来たんだと思います(これで二人とも昇天出来そうだけどなぁ)。
 
そして、大蛇丸も木ノ葉崩しの前にやってたんですねぇ・・・高いところから里を見渡して、「覚悟を決める」ことを。
 
607話「どうでもいいんだよ」で、オビトが久々に帰郷した時、やっぱり同じ位置の電柱に登って里を眺めてましたよね・・・ あの時のオビトも「己の決意を再確認」していたのでしょうが、大蛇丸、オビト、サスケ・・・皆同じような想いで あの場に立っていたんじゃないかと思います。彼らの目には「栄華を極めた里」は幻にしか見えなかったんじゃないだろうか?そして、ドロドロした「里の本体」は、目には見えないところに隠されている、と
 
だからこそオビトは《こんな(まやかしの)世界はどうでもいいんだよ》と己に言い聞かせていたんじゃないだろうか。 本物の平和とは言い難い、本物の繁栄とは言い難い里の矛盾にメスを入れ、その膿を掻き出す役割を誰かがやらねばならないと。
以前は、大蛇丸の里を潰す覚悟なんてロクでもないと思ってましたが、彼らは《名誉の代わりに汚名を背負うこと》をこの場所で覚悟していたんだと思うんですよね、それが愛する懐かしい里の為になると信じて。
 
今思えば、大蛇丸が木ノ葉崩しで流した涙は、本物の涙だったと思うんです。 
 
大蛇丸は「ここからは歴史が動く」、そして「“木ノ葉崩し”という風で私が風車を回したい」と言っていましたが、彼の真意は殆ど理解されなかった・・・いや、三代目だけは気付いていたのかもしれない。
「三代目VS大蛇丸」師弟対決も、今なら違って読めてくるような気がします(これは改めて別記事で)。
 
 
 
(その2、屍鬼封尽・解と歴代火影の穢土転生へ続けます、その2は少し遅くなるかもしれません・・・)