ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

NARUTO-ナルト-の考察(伏線、言葉、人物考察などなど!)続行中!

NARUTO-ナルト- №616:忍び舞う者たち 今週のジャンプ・ナルト感想 (WJ08号)  その1

NARUTO №616:忍び舞う者たち  その1

イメージ 1
 
 
「だから忍び耐える者・・・ 忍者なんだろ オレ達は」
 
「忍者とは忍び堪える者のことなんだよ」自来也は言ったけど、ナルトは自来也の言葉をちゃんと大切にしてましたねぇ。
 
だけど注目したいのは、ナルトは自来也の言葉を“そのまま”鵜呑みにしてるわけじゃあないってところなんです。ナルトは・・・ちゃんと“ナルト流に変化させて昇華してる。
 
自来也とナルトの《忍びたえる》の微妙な違いは、“たえる”の漢字が違うところにあります。
 
“堪える”と“耐える”。
 
毎度言ってて恐縮ではありますが、岸本先生の《漢字使い分けの術》は侮るなかれ!です。この「たえる」も、ちゃんと分けられてる(と思う。)・・・そして《分けられてる事に意味がある》とも思えたんです。
 
“堪える”と“耐える”ですが、どちらも「力いっぱいこらえる、我慢する」で意味は同じなんだけど、「たえるモノ、たえ方」が少々異なるんです。
 
で・・・自来也が使っている《堪える》ですが。
 
“堪”の文字の右側、「甚」は「甘+匹」で出来ており《甘いモノ=食と 匹(いろごと)=性》を表します。つまり食欲や性欲などの快楽欲望を土(山)のような重さで堪える、という事を意味らしいです。自来也らしいってばよ(笑) 
ようするに己を律して“重さ”に堪えるっていうこと・・・己が背負う傷や痛み、苦しみという重みに堪える、それが自来也の言う「忍び堪える」です。・・・そして、これは今までの忍達誰もが背負ってきたモノかもしれません。
 
そして、ナルトが使っている《耐える》。
 
耐の「而」はヒゲを表していて、ひげのように柔らかく粘り強く、“切れる事無く”強く耐えるという意味らしいです。 切れる事無く・・しなやかに、つむがれた糸のように長く、繋いでいく“耐える”が、ナルトが言う「忍び耐える」です。だから、同じ忍びたえるでも、ちょっと違う。 
 
ずっとずっと途切れることなく、朽ちることなく想いを繋いでいく者・・・それが忍、忍び耐える者。
 
先代から伝えられた言葉、想いを新しい時代に合わせ、自分のモノに新しく変化させながら受け繋いでいく・・・・
《変化させ続けること》ってのは《生き続ける》ってことでもあるんじゃないだろうか。 自来也の想いも、ナルトの中で変化しつつ、生き続けてるのだ。
 
さて、いきなりラストの言葉について書いちゃいましたが;
 
 
 今週、一番印象に残ったモノは何かというと《微笑み》なんです。 シカクといのいち、大蛇丸、そしてマダラさんの微笑み・・・つまり「託す側」世代の人達の微笑みです。
 
今は戦争、ここは戦場、辺り一面に死の臭いが満ちているってのに、印象に残ったモノが微笑みなんて変なんですが、彼らの微笑みは満月の光のような・・・包み込むような穏やかな笑みに見えたんです。
一方の「託される側」であるナルト世代、カカシ世代は、「今」と向き合っている真っ最中、微笑む余裕なんてないだろうけど、上の世代たちは《時代が動く手ごたえ》を確かに感じているのでしょうか。
 
「託した側も 託された側も・・・ 虚しいだけだ」とオビトは言っていましたが(597話で)、これはオビトとカカシの間だけの話じゃあないと思うんです。 「虚しさ、あるいは空しさ」は、忍世界の無秩序(システム)によって生み出されてきた呪いの鎖のようなモノだと思うんです。 その例がマダラであり、大蛇丸であり・・・彼らは自分の想いを本当に託せる相手がいないと思っていただろうから、自分自身が生き永らえ、復活してでも「自分で」成さねばならぬと思ってたんじゃないだろうか。 マダラは一族にも次々裏切られ、虚しい・・いや空しい思いが呪いのように彼に残り、「うちはの亡霊」になってまで生き永らえ、そして「今のマダラ」になっている。 
さらに、多くの先人たちの虚しい、空しい思いが忍世界には未練のように残り・・・死んでいった者達の想いをつなげられなかった「残された忍達」は、愛の為に戦い続ける・・・・その呪いの鎖が、今の忍システムになっているんじゃないだろうか。
 
だけど、「託す側と託される側」の片側である「託す側」マダラや大蛇丸の表情が、空しいものから微笑みに変わりつつあるという事は、あともう少しで・・・「呪いの鎖」忍システムも、「想いを繋ぐ」システムに変われるのではないかという気がします。 あとは「託される側」の問題・・・・
なので今週は「託す側の微笑み」を中心に追っていきたいと思うのですが(って、前置き長っ・・すみません。)まずは…この方から、
 
大蛇丸の微笑み。
 
さてお待ちかね、大蛇丸様ご一行・・・いや、サスケ率いる異色フォーマンセル。 
 
もう木ノ葉に到着したんですね、ど~も私には「木ノ葉から砂隠れまで急いでも三日かかる」という認識があるのですが、速いなぁ(まぁいいか)。木ノ葉の里、かなり復興が進んでますね。 
 
(ここにいる全員・・・ 感知タイプじゃないにも関わらず-チャクラを感じてる ・・・このチャクラは・・・)
(少し気になっているようね・・・)
 
(ナルトくんが・・・)
 
十尾の戦場から木ノ葉はかなり離れてると思うんですが ここまで九喇嘛のチャクラが届いているんでしょうか。
九尾事件の時の九喇嘛のチャクラは、感知系じゃない三代目やカカシ、イタチもゾッとするような冷たさとして感じてましたが、今の九喇嘛のチャクラは、ナルトのチャクラに転換されてるし あの時とは全く異質なものになっているハズです。
 
「今の戦争に興味は無い」と言っていた大蛇丸ですが、それは“人が始めた戦争だから直接関わるつもりはない”という意味であって、時代が動くのを見物し、外から間接的に関わる事には興味津々に見えます。で・・・時代を変える立役者の一人サスケを「預かってる」身として、大蛇丸は時代が動く場に立ち会える喜びを感じてるんじゃないでしょうか。
サスケのほうは相変わらず「・・・行くぞ さっさと案内しろ 大蛇丸なんて何様的な言葉遣いしてますが、礼儀にうるさい大蛇丸もサスケの言葉遣いは全然気にしてない・・・ それどころか、ナルトを気にしているサスケの顔を覗き込んで微笑んでいる・・・ ナルトとサスケが《運命に選ばれた2人》であり、この2人がぶつかる時に何かが起こることを、大蛇丸も分かってるんだと思うんです。で・・その時が確実に近づいていることに期待を隠せず、目を細めているんじゃないだろうか。大蛇丸のサスケ溺愛ぶりがここにも(笑
 
今週のカラー扉絵は、久々に「ナルト、サスケ、サクラ」第七班の3人・・・・次の時代を担う、新三忍。華麗な若武者姿で、忍び“舞う”。 いつかこの3人が“次世代三忍”として、大空に高く舞い上がってくれる時が必ず来ると思ってるのですが、大蛇丸の目には もう既に・・彼らが高く舞い上がる未来が見えているのもしれません。
(サクラについても、いつかきっと「舞い上がる」時が描かれるだろう、と期待してます!)
 
で・・・気になるサスケ達が向かう先なんですが。
 
木ノ葉の里内の、サスケもよく知っている場所のようなので まずは「うちはの集会所(南賀ノ神社の石碑)」じゃあないかと思ってます(というか、いい加減あの石碑の文面をサスケの万華鏡で読んでもらいたいしなぁ)。イタチがサスケに見せた記憶の中でも、謎の「うちは」の人物が石碑を読みに来ていたという話が出ていたし、サスケも気になっているハズですよね。
 
ただ・・問題はそこから先で、サスケが大蛇丸を復活させたのは、全てを知る者達に会うために大蛇丸にやってもらわないとならないことがある》からですよね。で、その為には大蛇丸が再び術を使えるように屍鬼封尽された「腕」を取り戻す必要がある》ってことだと思うんです(これについての理由等は593話雑考あたりで詳しく書いたと思いますんで略・・)。
つまり屍鬼封尽の「解」、“屍鬼解尽”(仮称)をする必要があると思ってるのですが、三代目の屍鬼封尽を見ていて「印」を知ってる大蛇丸に教われば、サスケでも可能なんじゃないだろうか、と。そうすれば大蛇丸の封印された腕と一緒に、封印された初代、二代目、三代目の魂も死神の中から「解放」されることになります
 
ようするに、これから先、全ての“縛られしモノ”は解放へと向かうのではないか・・屍鬼解尽はその流れの1つにもなるんじゃないだろうか、などと思っております。
 
サスケとナルト両方のサイドから、里の興り、うちはと千手の真実、「今」に至るまで時代を動かしてきた裏方達の真実が少~しずつ明らかになっていくんじゃないかとワクワクしております。そして最終的には“この物語の出発点”であり、最大の謎である《本当の九尾事件の真実》が明らかになるんじゃあないかとね・・・。
 
・手渡されていくもの・・・
 
シカクの作戦は、九喇嘛チャクラをナルト経由で他の忍達に手渡すというモノで、九喇嘛のチャクラをナルトを通して手渡された忍達は、それぞれ信じられない程パワーアップする・・・ヒナタの八卦空掌でさえ十尾の手を跳ね返してますね。 シカクがカカシに確認していた情報とは、やはり「九喇嘛のチャクラ受け渡し」に関わるモノだったようです。
で、シカクが着目したのは、九喇嘛のチャクラの受け渡し方法と(あの時は九喇嘛がナルトに代わっていた)、そして九喇嘛のチャクラを受け取ったら何が起こるのか・・ということでしょうか。 
 
九喇嘛チャクラを貰った忍達が軒並みパワーアップしてるところを見ても、カカシが《八つっあんほど巨大なモノを神威で出し入れできた》のも、九喇嘛パワーによる能力拡大もあったと思うんです。ってことは・・・九喇嘛より遥かに大きな力を持つ“十尾”の力を得たオビトが「神威」を使ったら、かなり巨大なモノも神威出来るということだと思います(つまり・・・本部ごと神威するとか;)。
 
(これは・・・九尾の・・・ イヤ・・・ナルトのチャクラか・・・)とシーが感知してるし、九喇嘛も「うまくワシのチャクラを変化させ渡せたな・・・」と言ってるので、どーやら九喇嘛チャクラを手渡す時には、ダイレクトでは無くナルトチャクラに還元して手渡しするというコツがあるようです。 やはり尾獣のチャクラそのままでは重すぎで普通は耐えられないのかなぁ。
手渡しされた忍達は《コポコポ・・》という九尾チャクラの衣を纏ってますが、これは以前のナルトが「三本目まで」の意識を保って九喇嘛チャクラを使えていた時の状態ですよね(ビーの場合だと「バージョン1」)。 ここまではフツーの人でも問題ないのかもしれません。
 
で、ナルトは次々に手をパチンパチンと繋ぐ(というより叩く感じで)手渡ししていきますが・・・ 
ナルトが九尾チャクラモードになった時、腕にコードのような線が浮き上がるのが気になってるんですが、いずれサスケと拳を合わせたらサスケとビビビ・・とそれが繋がり、六道の封印が全解除され、眼と獣の完成になるのではないかと今から秘かに楽しみにしてます(って、かなり先だろうなぁ)。
しかし、九尾の力で忍達が守られ、輝いている・・ほんの少し前まで「ありえなかった夢のような光景」が、現実化しつつある。現実を夢にするんじゃなくって、夢は叶えてこその夢。今、忍達は尾獣との共存をどう思っているんだろう?これなら、十尾との和解だって、出来るんじゃないだろうか。
 
そして・・・ナルトが九喇嘛のチャクラそのまんまじゃなくって“ナルトのチャクラ”に転換させてから手渡ししてるってのは、《自分が受け継いだモノを ただそのまま、次へ手渡せばいいってわけじゃない》ってことも示してると思うんです。 《九喇嘛のチャクラをナルトが受け取って、ナルトのチャクラに変えて他の人に渡し、その人が自分の力とする》。そうやって、チャクラも術も形を変え、時に進化し、次々に繋がっていく・・・・同じように、言葉とか想いも、朽ちずに受け継がれ生き続けていくんじゃないだろうか。
 
大切に受け継がれながら、でも絶えず変わりつづけることで「生きていく」・・・・だけど、そこに宿る魂、想いだけは・・・・朽ちることがないのかも。
 
 
 
 
(その2へ続けます、すみません・・・全3記事の予定です)