ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

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NARUTO-ナルト- 624:相子(あいこ) 今週のジャンプ・ナルト感想 (WJ17号) その1

NARUTO 624:相子 その1

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『オレ達の言ってた…バカみてーな絵空事には しょせん……』
 
『届かねーのかもな……』
 
 
夢を諦めず「忍び耐える」覚悟を決めていた柱間と、諦めのような言葉を己に言い聞かせていたマダラ。
だけど、終末の谷でもマダラは『届いたのさ』と、こだわっていた。 マダラは諦めた訳じゃなく、形を変えて『絵空事じゃない現実』を造ろうと、この時から考え始めてたんだろうか…?
 
さて、やたらと長く感じた休載明け…皆様いかがお過ごしでしょうか。私は花樹界降臨にノックアウトされておりますが・・; 『柱間の回想』は今週、一気に先まで進みましたね。
 
で、分かった事は…『マダラ』という人物は、やはり分かりにくいということ…(おぃ)
 
柱間みたいに裏も表も無くて、『ガハハ』と笑って賭博好きを公言しちゃうようなキャラとは違い、繊細な『マダラ』像は、なかなか見えてこない。 今回は『柱間から見たマダラ』が語られてる訳ですが、回想を見る限り『腑(はらわた)を見せなくなったあとのマダラ』については、柱間ですら よく解っていなかったようだ…。マダラに限らず全ての「うちは一族」に言える事ですが、彼らは頑なに「本当の自分」を他人に見せようとしませんね~・・。やっぱり、アレかなぁ…後ろに立たれると『出なくなるぐらい繊細』な人が多いせいなのか、『背後』という無防備な自分を他人には見られたくないんだろうか。 
 
619話で、扉間が《うちは一族は愛情を封印してきた》と語っていましたが、愛情こそ『うちは最大の力』でもあり、かつ『最大の弱点』でもあると思うんです。 だから、ホントは愛情溢れる「本当の自分」を他人に見られることを、極端に警戒してるのかもしれません。そして写輪眼を開眼すると「己を隠そうとする傾向」は、さらに強くなっていくように感じます。
 
「心を写す瞳、写輪眼」・・・
 
写輪眼を開眼していく過程とは、「封印された愛情を解放していく過程」でもあると思ってるんですが、愛情が深くなる度に うちはは「弱点である愛情」を必死で隠そうとする。 だから写輪眼→万華鏡と進んでいくほど「己を隠す傾向」も強くなり、さらに周囲から理解され難くなるんじゃないだろうか。その結果が、『闇に落ち、悪に憑かれる』なんて誤解を生むのではないかと思うんです。本当は、うちはは「悪に憑かれた一族」ではなく、「愛に憑かれた一族」・・・
 
つまり…うちは一族の「その人の本当の姿」を知りたかったら、写輪眼を開眼する前の『子供時代』を見よ!ということなんじゃないか(と思う)。
 
マダラも、イタチも、サスケも、オビトも…だいたい「(開眼前の)子供時代」が丁寧に描かれてるんですよね。 仲間思いで親切で、兄弟思いで甘えん坊で、世話好きで見えないところで努力するタイプ…といった、彼らの「本当の性格」。 そして、それらの「子供時代の丁寧な描写」はけして無駄なものではない… 「大人の事情による引き延ばしのため」では無く、本当の彼らの姿を知る為に重要なモノだからだと思うのです。 たとえ今の彼らがどんな行動をしてようと、どんなに悪に憑かれてるように見えようと…『真実への答え』は、子供時代の回想にある(んじゃないか、と)。 
 
それだけに、柱間がじっくりと時間をかけて「マダラの子供時代」を語ってくれた事は、本当に有難いマダラを知る為のヒントだったと思うんです。 マダラも本質的に変わったわけじゃない…「己を隠すようになっただけ」じゃないだろうか。
 
 
さて、これじゃあロミジュリ展開かと思われた、前回の『両家のご対面』でしたが。
 
 
《偶然にも うちは側も同じ考えだったようだ まったく同じ状況・・・》
 
柱間は『偶然にも両方の親は同じ考えだった』と言ってる訳ですが、ようするに柱間とマダラが『同じように』忍としては優しすぎたり本当は戦闘好きじゃ無かったりと…親としては「長男たち」が心配で気にしてたんじゃないだろうか(正確には、マダラは「5人兄弟だった」と言ってるんで、元々長男だったのかは不明ですが)。 だから弟の扉間やイズナは、『兄者はお人好しだから騙されるんじゃないか』と心配しつつ、常に監視役(お守役)をしてたのかもしれません。。
 
《千手仏間とうちはタジマはほぼ同じ力だということは 互いにいく度の戦いで分かっていた》
 
つまり、“相子(あいこ)”という状況。
 
《忍は何があろうと戦場で心を乱さぬよう訓練される 一瞬の心の乱れがスキを生じ…それが生死を分ける》
《だが大人の2人は分かっているのだ… 目の前で我が子が殺されれば ほんの僅かだが己の心に乱れが生じるであろうことを》
 
《つまりどちらが…》 
《…“先手”を取るかで勝負が決まることを》
 
まるで感情なんて捨てたような仏間さんだったけど、我が子を失えば当然ショックなんですね(それなら小さい子は戦場に連れてくるな、とも思うんですがね・・) だけどそれが「忍として一人前ということ」だとか自分に必死に言い聞かせるわけで・・根本から違ってる気がします。  でも、その発想は「戦場では仲間が死ぬ」と言い聞かせている「今の忍達」も同じであって、結局、大して変わってないってことだと思うんですよね。
 
 
今週のタイトル『相子』。
 
 
相子…引き分け、痛み分け。 なんで「相子(あいこ)」なんてタイトルなんだろ(しかも漢字)?と思ったんですが、ちょっとした言葉遊びが隠れてるんですね。 “相”『手』“子”供を『先』に取る…《相子》ではなく勝つためには《先手》必勝・・・
言葉遊びついでにですが、「相子」の「相」の文字は、見ての如く『木を対象に目で見ること』という意味を持つ漢字だそうで、《AとBが向き合う関係を示す》んだとか。 『』と『』の供達…まるで木遁の柱間と瞳術のマダラですが、「忍らしく心が乱れぬように、心を無くしていれば」相はずっと相のままであって「想」になることは無い・・・「木」と「目」の向き合い(対立)のままです。
 
でも束の間ではあったけど、柱間とマダラ・・・2人の「心」は1つの「想い」になっていたんですよね。
同じ側に並んで、同じ景色を見て・・・同じ夢を見て。 お互いに「意志」を交換して。
だけど2人が交した石(意志)は、大切な弟達を守るため戦いに投じられ、ついに交わることなく川底に沈んでしまった・・・ 623話までは「一緒の方向を見て並んでいた」絵が多かった柱間とマダラですが、今週はずっと「向き合っている絵」ばかり。 
 
「オレ達の言ってた… バカみてーな絵空事には しょせん… 届かねーのかもな……」
 
「…マダラ… …お前…!?」
 
「少しの間だったが 楽しかったぜ」 「…柱間」
 
そして、
 
「じゃあな・・・」。
 
「楽しかったぜ」のあとに、《わざわざ》添えられた「柱間・・・」のひと言。 それも「千手柱間」ではなく、姓無しの「柱間」。 
それは、友“柱間”に宛てた、友“マダラ”からの言葉なんだという念押し・・・ようするに《楽しかったぜ》の言葉は、マダラの本心(腑)からの言葉だったんじゃないだろうか。
 
《楽しかったぜ》・・・
 
この言葉、今の我々にとっては、さほど重たい言葉じゃあないと思うんです。日常的によく使うし、社交辞令的でもある、ごく当たり前の言葉。 だけど、あの当時のマダラと柱間にとって『楽しかった』という言葉は、どれだけ重たい意味を持っていた事か・・・・
 
明日の命も分からないし、兄弟が次々ころされていくような時代・・うっかり「友」も持てないような、憎しみと悲しみと裏切りだけが支配する時代。 そんな過酷な日々を生きてきた彼らにとって、「楽しかった」なんて言える「時」は、本当に掛替えのない、大切な大切な時・・・。
だから さり気ない表情で言ってはいたものの、「楽しかったぜ」の言葉には マダラが柱間に伝えたかった、全ての想い・・《一生忘れないぐらいの、嬉しい気持ち、ありがとうの気持ち》がギッシリ凝縮されてるんじゃないだろうか。 両家の手前、本音を言えなかったマダラが、最大限に自分の想いを託した言葉・・・それが「楽しかったぜ」だったんじゃないかと思うんです。「柱間」の一言に、これは「腑(本心)」なんだぞ・・というサインを忍ばせて。 
 
で…そのあとの「じゃあな」、それ腑を見せ合う友としての会話はここまでだ、という別れの合図だったのかな。この次再会するのは、互いに「弟を守るため」戦場で敵同士…
 
似たような状況として49巻463話、鉄の国の宿屋にお忍びでやって来たトビが、ナルトやカカシと話をして去る際に「お前らとの会話・・・楽しかったよ じゃあな・・・」と言って消える場面があるんですよね。
 
あれはオビトが宣戦布告のため五影会談場に向かう「直前」、つまり この次ナルトやカカシと会う時は「敵どうし」…戦場で会う事になると、オビトは分かってた。 だからあの言葉も、カカシやナルトに伝える「別れの言葉」として、オビトが選んだ精一杯の言葉だったんじゃないかと思うんです。 
「楽しかった」なんて表現に、本来隠さねばならない「本心」…ナルトやカカシへの想いを少しだけ…気づかれない程度に、そっと忍ばせていたのはないか。…それを考えると、やりきれないぐらい切ないんですがね。 
 
 
ったく、うちは一族って、どうしてこうも分かり難い「愛情表現」をしちゃうんだろう。
 
 
 
 
(その2へ続けます、すみません。)