ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

NARUTO-ナルト-の考察(伏線、言葉、人物考察などなど!)続行中!

NARUTO-ナルト- 650:眠るのは 今週のジャンプ・ナルト感想 (WJ46号) 1

NARUTO 650:眠るのは

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今週№650のタイトル『眠るのは』を見て思い出したのが、№587の『9時になったら』。 カブトが「こんなとこに閉じ込められなきゃ今頃戦争に勝って、とっくに寝てる時間だったのに…」と呟き、ウルシが「もう9時か…」「さっさとこの戦争を終わらしてゆっくり寝たいと思ってな…」と言っていた、あの話です。
特に「末端の忍」であるウルシなんて、この戦争だって「何が何やら」状態で、彼が望んでいるのはただ「早く家に帰ってゆっくり眠りたい」ってこと…穏やかに平和に安心して眠れる場所に戻りたいという事でした。
 
この戦争に限らずだけど、忍達は「戦え」と命じられれば戦い、“これ”に従えと言われればそれに従い、ずっと《何が何やら》のまんまでいたんじゃないだろうか。
それが積もり積もって忍世界のシステム(無秩序)が作り上げられ、忍達はその無秩序を成す「何が何やら」の“何”が何であるのかという答えを今、皆で探しているのかもしれません。
 
・・と出だしから話逸れてますけど(すみません)、今さら「カブトとウルシ」の話を出したのは、今週のタイトル「眠る」つながりの他、アニメも61巻カブトの話あたりに差し掛かっているせいもありますが、今週(№650)は何よりももう《変わらぬ友情》、つながりの不思議さ、ありがたさに心を打たれたから・・最近そうじゃなくてもナルトとサスケの共闘姿に涙腺緩みっ放しなんですが、今週も最後に「静かに、だけど熱く、強く」寄り添った2人の姿に胸が熱くなる思いで・・・。
 
「共闘」を繰り返す度に、少しずつ確実に距離が近づいていくナルトとサスケ。
 
彼らの「つながり」は本当に不思議だなぁと(何を今さらですが)…3年以上ものブランクがあり、その間交した言葉は殆ど無く(少なくともサスケは腑を全然見せようとはしなかったし)、この戦場での再会後だって、会話らしい会話はまだ殆ど無い。それなのに全く“空白”を感じさせない見事な阿吽の呼吸・・・
これがサイが言っていた《人は変わる…でも変わらないモノもある》《つながり…それを確かめたいんだ》というモノなのかなぁと思ったり…。
 
『カブトとウルシ』だって、十数年以上も離れているのに ウルシは今もカブトを「弟」と呼び、今でもカブトが帰ってくるのを待っている。おそらく…「カブトがこの戦争で穢土転生を操っていた事実」をウルシが知ったとしても、ウルシならカブトを「何も無かったように」弟として受け入れ迎えてくれると思うんです。なぜなら、ウルシは《カブトが小さい頃から忍世界に翻弄されてきたこと》を知っているし、カブトが院の皆やマザーの為に忍になった事もたぶん知っている。カブトという人物が「本当はそういう優しい奴なんだ」ってことを、誰よりも知っているのがウルシだから…
 
《人は変わる…でも変わらないモノもある》…それが「つながり」。
 
実は、今の戦場にサスケが増援に来る事を知ったら、ナルトは「嬉しくって号泣か?」なんて想像していたのですが、結果はご存知の通りナルトは極めて冷静に「ずいぶん遅かったじゃねーのサスケ!」と言って迎えただけだった。 それにサスケも「色々あったが…オレは木ノ葉の里を守ることに決めた」の一言で説明を終わらせてしまった。
…なんだか拍子抜けでもあったのですが、その後の完璧な「共闘」を見ていると、あっさりだったナルトの反応も、余計な事を語らなかったサスケの言葉も「なるほど」と思えてきました。ナルトがサスケの帰還をごく自然に受け入れ、サスケと自然に共闘している理由…それはナルトのサスケへの信頼が《絶対》なモノだからだと思うんです。
 
シカクがお得意の「分析」をする時、《全ての情報を頭の中で反復し、使えそうな情報を紡ぎ対策案を作るんだ》と自分に言い聞かせていましたが(57巻で)、ナルトが採った方法は《様々な情報が入り乱れる中でも、自分が信じるサスケの本質を見失わない》ことだったんじゃないだろうか。
ナルトが昔から知っている「サスケ」の本質とは「愛情深けー奴」…だからイタチの真実を知ったサスケが憎しみと怒りで里に敵意を持つのも「分かるってばよ」なんだろうし、イタチの意志を守るためにサスケが戻ってくるのも「よく分かる」のかもしれない。
 
そして、サスケも余計な事を語らずとも「ナルトと通じ合える」と思ったのは、イタチとの共闘でそれを体験していたからでしょうか。「確固たるつながり」があると信じる仲ならば、行動の中で「心を交す」のが一番だと…つまり、サスケもナルトとの繋がりを信じている。お互いの本質、本当の心をよく知っているからこそ、交す言葉は少なくても、その繋がりはブレることもなく、深い深い信頼で培われた共闘が自然にできてしまうのだと思います。
 
だから今週、オビトが「仲間にはいずれ裏切られる」「サスケもお前を裏切ってきた」「またいつ仲間がお前を裏切るかも分からない」なんて脅してきましたが、サスケが裏切るなんてことは無いだろうし、ナルトとサスケ…2人の信頼、絆はこれからも崩れることはないだろうと思うのです。
オビトの問いや挑戦に「何度も何度も」懲りず諦めず、互いを信じて力を合わせ共闘を繰り返していく《ナルトとサスケ》の姿は、「これから先の忍世界の在り方」に見えてくる・・・
  
今のナルトとサスケを見て思い出すのが第3巻、波の国での「木登り修業」…
 
2人とも最初は苦労して、意地張って協力する事もなく別々の木を登っていって…2人ともそれぞれの天辺まで登りつめ、そして最後には「帰るか」「オウ!」なんて…“2人ともてっぺんまで登ったぜ”なんて言ってボロボロになりながらも肩車して一緒に第七班のところに「帰ってきた」。 
 
あの時の2人の姿が、今週ラストの2人に重なります。
 
 
そして、変わらないつながりは「師弟(三代目と大蛇丸)」の間でも…
 
大蛇丸…お前はただ傍観するだけか?」
 
「…この戦争に興味はないわ」
 
「・・・・・」
 
「ただ…彼の言う夢とやらは私の大切な大きな実験場を捨てるのと同じ…容認できそうにないわね」 
 
現実世界を「私の大きな実験場」と言うあたり、いまだに香燐や水月のことを「私の実験体」と呼ぶ大蛇丸らしさが全開・・・とはいっても、「実験場」や「実験体」という言葉ではなく、いちいち「私の」と付けるところにオロらしさを感じるのです(過去に「私のサスケ君」と言った時は、ナルトが「自分のものみてーにサスケの名を口にすんじゃねーってばよ!」って怒りで九尾化しちゃいましたけど)。
 
大蛇丸の口癖「私の」は、かつては全てを自分のモノとし、自分で全てを成そうとした「野望」を語る言葉であったと思いますが、今の大蛇丸は意識的にワザと使ってるんじゃないだろうか・・・世間のイメージ通りの「毒」をちらつかせ、危ない匂いを発して「遊んでいる」のかもしれませんが、既にその毒は「無毒」になっているような…今は親愛の情をこめた「私の」という言葉にしか聞こえませぬ。
 
そして「彼の言う夢とやら」… 以前「“とか”と“とやら”」についての雑考で、大蛇丸が使う「とやら」という言葉の効果を考えたことがあるのですが、大蛇丸が「とやら」を使う時は、その存在を「仮の存在」とし「認めない」時。「容認できない」という表現ではありますが「夢の世界」は断固として認めないというぐらいの強い否定かと。この世界も、今は大蛇丸にとって「先を見ることが出来る」大切な守るべきモノ…
 
 「なら手を貸せ」
 
大蛇丸の潜影(大)蛇手が神樹を抑え、ヒルゼンがそれを斬り「師弟の共闘」を果たす)
 
「いいでしょう」
「今はほんの少し思い出しましょうか――」
 
「懐かしき師弟の関係を」
 
《今はほんの少し》だなんて協力や懐かしき師弟関係は「一時的」であるかのような言い方してますが、ホントは「一時(いっとき)だって」忘れたことは無かったのでしょーよ、大蛇丸…。木ノ葉崩しの時だって、師にクナイを突き付けていたその背中は「震えていた」のですから…
 
だけどこの再会でも、大蛇丸は三代目に謝罪したわけでも無いし、三代目も許しを与えたわけでも無い。
それは、お互いに自分の信念を貫いた行動に負い目を感じているわけでも無く、お互いの信念を尊重し合っての事なんじゃないだろうか。だから、あえてそれには触れない…。
 
忍世界での「対立」なんてのは、どっちがいい悪いという問題ではなく、それぞれの守るべきモノの為、貫く意志の為。 今までの忍世界の中で迷い、悩み、そして真剣に「大切なもの」を探していた「共通の想い」があればこそ、互いの信頼の絆やつながりは その程度で崩れるようなモノじゃあないんだろうと思います(ナルトとサスケ、イタチとサスケのように)。
だから「色々あった」としても、三代目と大蛇丸…「師弟」の間にも、余計な言葉なんかいらないのかもしれない。交すのは「拳」、共に闘うことが忍の和解のやり方なのかもしれないですね。
 
そして…相変わらず言葉で「毒」を見せてはいても、今の大蛇丸は己の力を「仲間をサポートする力」として使う・・・それは穢土転生開発者として「散々言わちゃった扉間」も同じ。 彼も「飛雷神」を仲間を守る力として使い続ける…
 
「四代目 お前とナルトのチャクラの繋がりを利用させてもらうぞ」
「お前と違い一度には無理だが ワシなりの瞬身の術で皆を援護する」
 
(扉間-ミナト-ナルトつながりで、忍をミナトの飛雷神マーキングの別の場所に飛ばす扉間)
 
「ワシの瞬身の術で危険な奴は逃していく」
「臆さず行け!!」
 
その「飛雷神」の術ですが、これも本来は恐るべき必殺術だし、マーキングされたら一生消えない「必ず抹殺される運命にある」。 味方としてはカッコいい術だけど、相手の立場から見れば残虐な恐怖の術・・・ カカシ外伝でミナトは「一瞬で」敵50人を抹殺していたけれど、使い方次第で「穢土転生」とはまた別の意味で「恐ろしい術」なのです。 しかし穢土転ミナトも扉間も、この恐怖の飛雷神を《仲間を守るために》使っていく・・「神」から預かった力を「仲間を守るために使う」。「神樹」への答えを、ナルトだけじゃなく皆が自然と出し始めているんじゃないだろうか…それもごく自然に。 ナルトの仲間を守りたいという気持ちが皆に伝染して、元々皆が持っている「仲間を守りたい」願望が自然と引きだされていった・・とでもいいましょうか。
 
そして、さすがはインテリ扉間と言いますか、「ワシなりの瞬身の術の使い方」…どういう仕組みですか、コレ(汗) 扉間自身は飛んでないので、ミナトが尾獣玉を結界経由で別のマーキングの場所に飛ばすような方式で、ミナトのマーキング先に飛ばしたって事でしょうか(今ひとつ理解できていません)。ミナトのマーキングはミナトのチャクラを帯びており(仮にミナトチャクラの凹型)、ナルトチャクラ経由でミナトのチャクラ(仮にミナトチャクラの凸型)を帯びた忍達が、そのマーキングの凸凹に吸い寄せられるように飛ぶんだろうか・・とは思っているのですが(仕組み的にはトロイの磁遁方式)、ただトロイの磁遁とは違うのはあくまで飛雷神は「時空間経由」という事…
 
その時空間への出入りを「口寄せ」以外で扱えるのは、今のところ(瞳術以外では)ミナトと扉間に限られているわけですが、扉間が相変わらず飛雷神の術を「瞬身」と言っているのも気になります。以前637話のところでも話題に出しましたが、ここまで「瞬身」と繰り返されると、「瞬身」を通り名に持つ「うちはシスイ」…シスイの使っていた「瞬身の術」が「時空間忍術(瞳術)」の可能性がさらに高まってきたのではないかと思えてなりません。シスイが最後に「己の存在を消したという例のイタチの言葉も気になっているし、さらに「時空間」は気になってくる。
 
綱手とサクラ、2人がかりで百豪の術で湿骨林から「蛞蝓本体の10分の1を口寄せ」し、連合の足場をすべて蛞蝓にし「回復エリアにする」って…なんかゲームみたいだけど(笑)、蛞蝓ってどろ~っと溶けることも出来るんですね。これも水月と香燐の能力を合わせたような、白ゼツのような・・いや「十尾のような」と言いますか(結局は全ての術は「全ての祖」である十尾に通ず、なんですよね)。これまた「仲間を守るための術」。
 
 
《少し攻撃形態にするか》 (オビト)
 
オビトが言う『神樹の攻撃形態』とは、まさに柱間の『木遁・木龍の術』と同じモノ。 ますます柱間が「木遁」を使えた理由が気になるのですが、「神(運命)に選ばれた一人」柱間が十尾(神)の体を与えられ、もう1人の「神〈運命)に選ばれた一人」マダラが十尾(神)の眼を与えられたという事なのでしょうか、「眼と獣」として…それも「後天的に」。だとしたら、「神」は柱間とマダラが水切りで「願掛け(願賭け)」した、あの時の「願」をちゃんと受け取ってくれていたのかもしれません。
もっとも、終末の谷の戦いという結果に終わった「柱間とマダラ」に代わる「次の運命に選ばれた二人(ナルトとサスケ)」を、“新たな眼と獣”として、神は選び直さなくてはならなかったのかもしれませんが・・
 
その「マダラ」さん・・・今回も登場はありませんが、今頃《メリメリっ》と花弁がめくれ始めた神樹を どんな思いで気にしているのだろう・・?
 
花の中に「眼」を持ち、木龍攻撃をする「幹」を持つ神樹…つまり「マダラと柱間の合体形」でもあるような神樹は、マダラにとって手塩にかけた子供のような存在なのかもしれません。 
なにせ長い間、独りで引き籠っていたアジトの中で、マダラは培養した柱間細胞に外道魔像を置いて「神樹の花が咲く世界」のような、小さな宇宙のような曼荼羅(マンダラ)の世界》を作りあげ、その中で魔像に繋がり、居眠りして「夢を見ていた」のですから…。
 
マダラはあのアジト(マダラの曼荼羅世界)のことを「あの世との狭間」と呼んでいましたが(601話で)、小南が言っていたように本来「外道」が居る世界は「生死の存在する世界の外にある」…つまり「あの世との狭間」にあるわけでして、だから外道魔像(十尾=神樹)と輪廻眼を開眼した者(マダラ)が居たあの場所のことをマダラは「あの世との狭間」と呼んだのだと思いますが…
 
でも、それはホントの「外道の居場所=あの世との狭間」ではない…。
 
ホントの《あの世との狭間=外道の居場所》とは《時空間》のことじゃないかと私は思うのですが、それはグルグルの「すり抜け能力」の空間でもありそして瞳術「神威」の場所(今カカシが居るところ)なのだろうと推測していますが(根拠の説明は過去にしてるので略しますが)、それだけにカカシがまだあの場所に居ることは重要な気がしているのです(って、何だかこのまま外に出てきちゃうかもしれないけど)。
 
でも、もしこれから忍達が「外道(神)」と向き合う事になるのなら、やはり「時空間」はより重要になってくると思われるし、ここの戦場で「時空間忍術の秘密」が一部明かされ、何度も何度も時空間忍術(瞳術)が使われてきた事にも意味があったのだろうと思えるのです(なかなかナルトが飛雷神を覚えてくれそうにないのですが・・苦笑)。
 
 
…というところで記事の字数制限を超えそうなので、肝心な続きはその2で…(いつも長文すみません、そしてここまで読んでくださって感謝)。