ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

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NARUTO-ナルト- 660:裏の心 今週のジャンプ・ナルト感想 (WJ06/07合併号) その1

NARUTO 660:裏の心 その1

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年頭から我愛羅のおでこ…いや《愛》。
 
《愛》がNARUTOの最重要ワードの1つなのは確かだけれど、今週も充分伝わってきましたぞ…先生が全てのキャラを総動員して伝えてくる《愛》を! 
溢れんばかりの《愛》に、もう「圧倒」されてしまいそう…。
 
12月のジャンフェスでは「広げた話を畳む」とか「納得してもらえるように描く」とかクライマックスに向けた発言をされていた岸本先生。その「本気」を、今年はのっけから色々と感じさせて頂きました。
 
そして、タイトルの「裏の心」・・・
 
ようするに隠された本心とでも言いましょうか。「心裏」とは「心の中」であり、「心」の漢字は「うら」と読んだりもします(“表には見えないモノ”の意味)。「大切なものは目には見えない」という事でもあるのかな。
 
そして「表には見えていない本当の姿、真実の大切さ」は、NARUTOの重要テーマの1つでもあります。 
 
例のイタチの名言「人は誰もが己の知識や認識に頼り縛られ生きている それを現実という名で呼んでな」「その現実は幻かもしれない」でもそれは示されていたし、戦争編でも「二代目チョビ影(水影)戦」でチョビ影は「本物は見えないところに隠れている」「幻ばかり見ていてもダメだ」と叫び続けてましたよね。あれも「見えているものだけを真実だと思い込んでしまうのが人間」という話だったと思っていますが…(チョビ影、いいキャラだったなぁ…水月のご先祖)。
 
「表には見えない大切なもの」…「裏の心」。
 
《さて、九喇嘛を外道魔像に引きずり込もうとするマダラと、必死に抗う九喇嘛&ナルトですが…》

(ナルト)(そうだ この九喇嘛モードを解けば…!!)
 
(マダラ) 「無駄だ 一度捕えたら放しはせん」
 
(ナルト) 「ダメだ!」 (九喇嘛がオレん中へ戻らねェ…!!)
 
(驚いたように) 「!?」 
 
このナルトの「!?」なんですけど、何かに驚いてますよねぇ…ナルト。
 
表面的に外から見たんじゃ「何だかさっぱり分からない」んですが、これ、九喇嘛がナルトの「中で」何かを伝えたんじゃないでしょうか…おそらく「作戦」を。
今週最後に九喇嘛が何かを我愛羅に託していましたが、それをこの時にナルトにも伝えてたんじゃないかと思います(あくまで推測ですがね)。
でもごく稀にですが、読者にも説明が無い「ナルトの謎の反応」が挟まれることがありますよね…例えば64巻51頁最後の《ビクン》とか。そーゆー時は、だいたいナルトが何かを「感知」してるか、あるいは九喇嘛と「内なる会話をしている」時。 これもまた「表には見えないもの」の1つですね。
 
(マダラは白ゼツに「(一尾から)順番に入れるんですよ」のアドバイスを受け「分かっている」というマダラ、ホントに分かってた?…というか実は忘れてたんじゃ?)

(マダラ) 「まずは こいつからだ」 

我愛羅) 《砂漠・叛奴(ハンド)!!》
  
「守鶴は渡さん!!」
 
(守鶴) 「・・・・・・!」「・・・・・・」
 
我愛羅の「砂の手」、「砂漠・叛奴」っていう術だったんですね。そして守鶴の、あの「孤独な目」が驚いたようにジッと我愛羅を見つめている…
 
かつてサスケが《ゾクッ》とする殺気を感じ、ナルトが《何て寂しい目だってばよ…とても孤独な目…》と言っていた「守鶴の目」。だけど我愛羅が必死で守ってくれるのを見て、その「憎しみと孤独に満ちていたはずの目」にも本来の「優しい」輝きが見えたような気がする。
昔から我愛羅は守鶴の「唯一の理解者」だったみたいですが、今もそれは「変わってない」…守鶴のあの「優しい目」は、我愛羅の「心」をしっかりと受け取った証でしょうか。
 
(守鶴は「小さな我愛羅とのかつての会話」を思い出す)。
 
 「表には見えない真実」は、残念ながら大人にはなかなか見えないんだけれど、幼い子供って案外と鋭く見抜いたりします。まだ純粋な子供の「澄んだ目」は大人と違って「余計な知識や思い込み」で曇ったりしてないから、真実が見えるのかなぁ…(羨) 幼い頃の我愛羅も、そうだった。
 
(守鶴) 「お前が眠りに入ったらオレ様がお前の心と体を乗っ取り…お前ら人間共を皆殺しにしてやる!!」「うかつに熟睡しない事だ」

我愛羅 「……」「お前は…人間が嫌いなの?」

(守鶴) 「ああ!大嫌いだ!!」

我愛羅 「…でも…お前はボクの里を守る為に居るんでしょ?」

(守鶴) 「誰が好き好んでお前らなんかを守るか! お前ら人間はオレ達獣以下だ!」
 
澄んだ目を持っていた「幼い日の我愛羅」は、直観的に守鶴の本心(“裏の心”というのかな)を見抜いている…小さな我愛羅のツッコミは実に「鋭い」。
「お前は人間が嫌いなの?」とは、「お前は本当は人間が嫌いじゃあないんでしょ?」という意味なんだろうし、“皆殺し宣言中の守鶴”に向かって「でも」「お前は・・守る為に居るんでしょ?」なんてツッコむ… 
守鶴が《本心とは裏腹に》憎まれ口を叩いている事を分かったのは、我愛羅自身が「同じような気持ち」だったからかもしれないですね。それは「孤独を知る者どうしならではの“理解”」…
 
幼い我愛羅は、守鶴が頑なな態度を取っている「孤独」を感じ取り、本心を引き出す取っ掛かりを作ろうとしてたんですね。だけどまだこの時の守鶴は、我愛羅が差しのべた手を「受け取らなかった」。受け取れなかった。でもホントは嬉しかったんでしょうねぇ…しっかり覚えているっていう事は。
 
そして、我愛羅「お前は里を“守るため”(防御の為)に居るんでしょ?」とも言っていますが、しかし当時の砂隠れの里では『守鶴は“攻撃”の為の存在』として扱われていたハズなんです。それは第130話(15巻)、夜叉丸の「守鶴は本来“攻撃の為の生き霊です」というセリフから分かるのですが、夜叉丸のこのセリフから当時、守鶴が里で「どういう扱いを受けていたか」を窺い知ることが出来る…。
 
そもそも「攻撃は最大の防御」とも言われるのに、それでも「守鶴は“防御”の為の生き霊」とは言われずに「本来“攻撃”の為の生き霊」と言われてきた…これは「攻撃専門の存在」というような言い方なんですね。つまり、砂の人達にとって守鶴が「里を守ってくれる存在」という意識はまるで無かったということです。 尾獣とは「攻撃のための道具」でしか在り得なかった…その事実が夜叉丸の言葉から垣間見えてくるのです。

その事を考えると、我愛羅「でも、お前は里を守るために居るんでしょ?」のひとことは、オトナには無い発想… 誰も知らなかった守鶴の「本当の心」を我愛羅だけが分かっていたんですよね。 守鶴にとって、人間からそんな事を言われるのは「意外」だったと思うし、守鶴は「本当の自分」をこんなおチビに見透かされた事に焦って「大袈裟な否定」に走ったのかもしれません。
「大嫌いだ」とか「誰が好き好んで…」とかいう守鶴の「否定」は、何だか「○○ちゃん(君)のこと好きなんでしょ?」と誰かに突っこまれて「ち、違うし、大嫌いだし!だって○○は~だし…」と慌てて否定する照れ屋さんみたいというのかな(笑)、私もそういう傾向があるから守鶴の気持ちはちょっと分かります(余計な話)。
 
我愛羅だけが守鶴の「理解者」だった…そして我愛羅だけが守鶴の「存在を認めていた」…
 
 
(そしてかつての人柱力、老僧・分福を思い出す守鶴。老僧・分福は「守鶴」と呼ばれ、里の忍から酷い扱いを受け疎まれていた)
 
なるほど…砂では一尾の事を「尾獣」ではなく「老僧の生き霊」と言っていたのは、そういういきさつでしたか(納得)。 人柱力と尾獣(守鶴)が「ごっちゃにされてた」のなら納得です(ここにも「皆に納得してもらえるように描く」とおっしゃっていた岸本先生の本気を感じちゃう)。一尾(守鶴)は人柱力の中に居るから人々の目には通常「見えない」し、分福=守鶴になってしまうのも、もはや狸の生き霊じゃなくて「老僧の生き霊」と言われてしまうのも分かる気がします。 ナルトだって「ナルト=化け狐」と言われてゴッチャにされてきましたもんね。人間、やっぱり目に見えないモノは認識できないもんなんですね(たとえ「知識」としては理解しているつもりでも)…
 
(守鶴) 「クソ坊主… お前はもう自分の名前ですら呼んでもらえなくなっちまったな」
 
(分福)「それは別によいのです」 
「アナタが私の本当の名を知ってくれていますから」
 
いちいち「クソ」とか言わないの!とも言いたくなるけど、「一言余計なもの」をつけないとダメなのは、いかにも「守鶴らしい」…。これも照れ隠しなんでしょうね、《別にお前に同情していってる訳じゃないぞ》みたいな言い訳が必要なんでしょうね…(可愛らしいな、守鶴)。
 
そして分福和尚の「別によい」なんですが、これは「どうでもいい」ってのとは全然違う・・・

 《アナタが私の名を知ってくれているから》…老僧の本名『分福』、その名の「本当の意味を知らない人達」に名前で呼ばれても意味がないが、守鶴が『分福の名前と、その名の本当の意味』を分かってくれているから充分嬉しいということなのでしょうか。 それは、かつて九喇嘛が自分の本名を「知られたくなかった」気持ちと似ているような気もします。
たとえどんな名前で呼ばれようと「自分の名前」の誇りを失わなかった分福は、どんな境遇下でも何処に居ても「オレは木ノ葉のうちはイタチだ」という誇りを失わなかったイタチとも似ている…。
(「本当の名前」「その名の示す本当の意味」は、そのうち十尾の「本名」やらサスケの名の「本当の意味」という話に繋がっていきそう…)。
 
「いくら坊主でもお前を嫌う人間共に手を合わせ… 獣のオレ様なんかを相手にいいかげん寂しくねーのかよ」という守鶴の台詞からして、いつも分福は「自分を嫌う相手に対していつも手を合わせていた」らしい…(その「理由」は後で明かされる)。にしても守鶴、さりげなく「優しい」ですよね(本心はバレバレ)。
 
「人間と獣… それらを分ける必要はないのです 何であれ心の友がいれば心の平和が満たされるのです」 (分福)
 
「心の友」ですかぁ… 目には見えないけど心の中に居る友、心で繋がっている友…。 分福が言うように、本来「人と尾獣」は共に在るべきもので、あえて分け隔てる必要はないのかもしれません。だけど「分けられた」ことも無駄な事ではなく、それにも理由はあるとは思うんです。六道仙人が十尾を9つの尾獣に分けて「残した」事にも理由があるように…
 
カカシがこの前「心の穴は互いに埋め合う事を人はいずれは知る事になる」と言っていましたが、六道仙人もそれを望んでいたんじゃないだろうか、「いずれは」と。
 
人と獣が別々に存在するのは、憎しみ合い戦う為ではなく、本来お互いに「埋め合う(補い合う)為に存在する」のだと知る必要があるからじゃないだろうか…。 それは「言葉」によるお説教(説明)などではけして伝わらない、実際に体験しないと人間は本当には理解できない事なのかもしれません。 六道仙人は自分で歩いて「忍宗」を広めながら、「上からの説教」では伝わらない事を感じていたのでしょうか。
六道仙人が息子2人に己の能力を「分けた」のも、一時的に争いが起きようと「いずれは」互いに埋め合う(補い合う)事を知るようになると信じたから…それは「長い目で見た親としての愛情」だったのではないかと思います。イザナミのように「自分自身で気づかないと意味が無い」…  六道仙人が本来1つだったものを「分けた」のは、忍達に「気付いてほしい」という想いからだったのだろうと思うし、それも「親としての愛情」だったんじゃないだろうか。
 
とはいえ六道仙人だって「自分は失敗した」と思っていたのだし、六道仙人自身にも答えは「分からなかった」…だからこそ子供達(後世の忍達)を信じて託したのだと思います。 
 
これって、47巻のミナト(のチャクラ)がナルトに「答は自分で探すんだ」「その答えはオレにも分からないよ」「お前ならその答えを見つけられる」「…オレはお前を信じてる」「どこまでいっても子供を信じてるのが親ってもんだからね」と言っていた気持ちと同じだと思うんです。けして責任放棄して「尻拭い」させようとしたわけでは無く…答えは「自分で探さないと意味が無い」ことを、ミナトもよく分かっていたのだと思います。
 
そしてそれは「信じてるからこそ」出来る事、「愛があればこそ」何の保証も保険も無く出来る事…
 
後世の者を信じる気持ち…それは六道仙人と分福に共通する思い。何度も「お前みたいな人間はこれからもいやしない、他にいるとは思えねー」と繰り返す守鶴に「そんなことはない」「きっといます」と言っていた分福… 守鶴の「お前…やっぱ…」「六道仙人のじじいに似てるな…」の言葉に、涙を流して「ありがとう」と喜んでましたよね、六道仙人の「直弟子」守鶴からの「じじいに似ている」の言葉は、やはり嬉しかったんじゃないのかな。
 
しかし、粋な事をしますなぁ…分福の「お師匠さん」。どんな人だったのかすごく気になっちゃいます。
 
「人の心とは水鏡… …本心とは裏腹に口を開き揺れ動くものです…」
「ですが本来人間の持つ裏の心は受け入れあう事を望んでいるのです」
「獣ともです…」
 
(分福が右手に刻まれた裏返しになった「心」の文字を水面にかざすと「本当の心」の文字が映される)
 
「アナタにはアナタを守り救済し導く者が必ず現れるでしょう」
「そしてその者の裏の心を受け入れた時 アナタも悟るでしょう…」
 
「私の師が 私の手の中へ刻んでくれた言葉の意味を」
 
(右手に刻まれた「(裏返しの)心」と、左手に刻まれた「受」の文字と合わせると… 我愛羅の額の「愛」の文字のアップになる←いやぁ・・・この描写、お見事!!!)。
 
 表面的に見えているのは「裏腹な心」、だけど水鏡に映すと見えてくるのは「本心、本当の心」…うむ、なるほど! 小さかった頃の我愛羅の瞳も、水鏡のように澄んでいたから守鶴の「本当の心」が見えていたのでしょう。
 
尾獣に限らず、人間だって「本心」をストレートに語れる人ってのは少数派だと思うんですよね。「本心丸出し」で相手にぶつかっていくなんてのは、防具なしで相手の懐に飛び込んでいくようなものですから… ナルトみたいなタイプは稀有なんだと思います。忍世界を見渡しても「本心は隠したままの人」は多いし、中には「本心とは真逆な言動をする」人までいますから厄介です(特に「うちは」の皆さん…!)。
 
「極端な例」マダラなんて今も憎まれ役全開で大暴れなさってますが、でも本当は「後ろに立たれたらダメな位シャイな人」なわけだし(何度もコレ言ってすみませんね、マダラさん)、だけどその「本当の姿」を知ってるのは柱間、オビトぐらいかなぁ…(あとはゼツ)。
 
人間、だいたい「表っ面」の見えている言動でしか判断されない事が多いもんですよね。そこでまたまた《見た目や思い込みだけで…人を判断しない方がいいですよ》という「例のイタチの名言」が響いてくるのです(25巻の)。
 
今までNARUTOに登場した数々の敵の事を考えても、本心は優しく愛情溢れた人たちばかりでした(いつも例外として「ガトー」を挙げてきたんですが、ガトーだって描かれてないだけで「何かあった」のかもしれないし)。 敵を「ただの悪い奴」として描かないところが、私がNARUTOが大好きな理由の1つでもあり、そこに岸本先生の最大のメッセージがあるとも考えています。敵の心でさえ分かってしまう、知ろう、理解しようとする…そして「受け入れようとする」ナルトならではの「不思議な力」が平和への最大の鍵になるんじゃないだろうか、と。
 
敵を想い、敵のために涙するなんてのは、よほどの「愛」が無いと出来ない業ですが、NARUTOで描かれているのは、こういった類の「最大級の愛」であると私は思います。
 
本来、忍者漫画は「敵をやっつけるカッコよさ」がウリなのかもしれないけれど、血なまぐさい戦闘の中で「敵を理解し、分かり合っていく事の大切さ」を伝えるには「そんじょそこらの愛」ぐらいでは伝わらないと思うんですよ… 岸本先生が描かれる「愛」は「汝の敵を愛せよ」「汝を迫害する者のために祈れ」レベルの最大級の愛だけど、そのぐらいじゃないと読者に「愛」は伝わってこないのかもしれません。
 
我々の世界では、ルールや掟やら法を遵守することで「最低限の平和」が保たれるわけですが、そこに何か「+α(アルファ)」出来る何かがあるとすれば、やはり互いを知り理解しようとする「受け入れ合う」気持ちじゃないかとも思うんです。NARUTO世界の様にはいかないのが現実だけど、だからって諦める事もないんじゃないか・・・ 私はNARUTOからそういうメッセージを受け取ってます(あくまで個人の感想です)。
 
でも、大人になると子供の頃持っていた「水鏡のように澄んだ目」も余計な知識や認識で曇っていき、真実がどんどん見えなくなってしまう… かつての我愛羅のようにはいかなくなってしまうもんですよね。 
だからといって悲観的になる事もなく、ちゃんと「方法」もあると示してくれてるところが有難い… 幼子のように「直観」で見ることが出来ないのなら、「知識としての理解」をさらに「本当の意味での理解」に進めればいい…今週の「分福と我愛羅(そして守鶴)」がそれを教えてくれている。
 
分福が、自分を憎む者達に「手を合わせていた」のは、彼等(いわば「自分にとっての敵」)の「本当の心」を想い、受け入れようとしていたから… そしてその行為は「愛」そのものです。 《自分の事を憎み傷付けようとする相手の事を想い、受け入れ、そして愛す…》最大級の愛です。
 
相手が自分を傷付けようとすればするほど、分福は手を合わせ相手の「裏の心(本心)」を受け入れようとしていた… でもそうすれば、今まで見えなかった「真実」も見えてきたのかもしれません。相手だって本当は「受け入れ合う事を望んでいるのだ」という事も…
 
《左右の手に分けた裏の「心」を「受」け入れると浮かび上がる「愛」の文字》・・・
 
岸本先生の「漢字の術」ファンの自分にとって、こういうのは、もうたまりません… 岸本先生の「漢字の術」については、過去記事を参考にしてみてくださいな… 「なぜ砂“瀑”の我愛羅なのか」「“懸け”橋について(509話感想)」「マダラの“造る”とオビトの“創る”」とか。ホントにヒマな、お時間のある時にでも…)
 
そして分福のお師匠さんの凄いところは、「愛」の文字を「左右の手に分けて書いた」ことですよね。「愛」という完成された文字を直接書くのではなく、わざわざ「分けて」書いたのは、分福に「自分で答えを見つけさせようとした」からでしょうか。 そして、かつて夜叉丸が言ったように《愛》は他人からしかもらえない…人とのつながりの中でしか知ることが出来ないのが「言葉の持つ本当の意味」ですから。
 
大切なのは、その言葉が持つ「意味」を知る事・・・ 
 
以前、ナルトがサイに「お前、仲間って言葉知ってっか?」と尋ねて、サイが「仲間」という漢字をサッと書いて「もちろん知ってますが…それが何か?」とやって、ナルトがムカーッとしてた事がありましたけど(32巻天地橋任務)…あの時のサイは「仲間という言葉」はアタマじゃ理解してたけど「その言葉の意味は分かってなかった=本当の意味での理解はしてなかった」。だけどナルト達とのつながりの中で「その言葉の意味を知って」、最後に実際の第七班の仲間達に「仲間」というタイトルをつけるという感動的な話がありました(35巻27頁)。
 
我愛羅も、鉄の国でナルトにこんな話をしてましたっけ…
 
「かつてのオレにとって“友”とはただの言葉… それ以上でもそれ以下でもなかった」と。
 
我愛羅は幼少時から言葉には人一倍関心のある子で、「痛いって何?」とか「あいじょう?」と夜叉丸に質問し続けてましたけど、なかなか「その意味」を知ることが出来なかった…。我愛羅が自分の名前や「愛」の意味を知ったのは、ようやくこの戦争に入って父様に再会してからですよね。
 
そして我愛羅はナルトにこうも言っていた…
 
「だがお前と出会って気付かされた 大切なのはその言葉の持つ意味だと」・・・
 
目が曇ってしまって「直観で真実を見抜けない」オトナ達は、言葉の持つ意味を改めて「分かろうとする(知る)」必要があるんじゃないだろうか。その答えは辞書で見つけられるものではなく、実際に繋がりの中で見つけないと「分からない」のだと思います。
 
サスケも「里とは」「忍とは何だ?」と考えていましたが、あの時サスケも「その言葉の持つ意味」を考えていたのかもしれませんね。イタチから「愛という言葉の意味」を教えられ「大切なのはその言葉の意味」だと・・サスケも分かったのかもしれません。
 
ではサスケが考える「火影」の言葉の意味とは、いったい何なのか…?
 
マダラは「光」の対となる言葉として「影」を使っていましたが(ダンゾウは「光」の対として「闇」を使っていましたが)、「影」は「光を浴びる事で浮かび上がるもの」、そして本来「物を照らして明暗をつける光」という意味や「月の光」という意味もあります… サスケは「影」をどう捉え、何を考えているんだろうか。
 
そして「忍とは」…「刃」と「心」を合わせた「忍」の言葉が持つ本当の意味も、末端の忍に至るまでの「全ての忍」が、この戦場で知るべきなのだと思います…「彼ら自身で」。
 
 
 
☆その2へ続けます、その2は日曜or月曜にアップすると思います。
 
 
 
(ナルト好きブログ!2014/01/04)