ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

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NARUTO-ナルト- 660:裏の心 今週のジャンプ・ナルト感想 (WJ06/07合併号)その2

NARUTO 660:裏の心 その2

 
(その1の続きです)

(守鶴は、自分を必死で守ってくれる我愛羅を見て、「風影になったばかりの頃の我愛羅(服装から判断)」を思い出す…)
 
「お前の事は今まで疎ましく思ってきた」  
「だが人柱力であったからこそナルトに会うことが出来た …お前に感謝することが一つだけできた」
 
(守鶴) 「・・・・」
 
「今まで~だったけど、今では~」と正直に語る我愛羅の言葉に、彼の誠実で真面目、几帳面な人柄を感じちゃいます。物事をきちんと整理して考え、ちゃんと説明するのが「我愛羅流」かな。そして分からない事を放っておかず追究しようとするのも「我愛羅流」。
 
ナルトと出会う前は『なぜ自分は存在するのか』という問題を追究しすぎて、マイナス方向にばかり向かっていた我愛羅ですが、ナルトと出会ってからは「つながり」の意味、「影を背負う事」の意味、「守鶴と一緒に居る事の意味」そして『なぜ自分は存在するのか』という問題を全てプラス方向に向けて考えていったんですね。 でも、まだこの回想の時(風影になったばかりの頃)は、守鶴と一緒に居る事の意味は本当に「ナルトに出会えた事」の《一つだけ》しか見付からなかったのかもしれない…。
 
でも、たった《一つだけ》であっても、その《たった一つ》が重要だったんですよね。
 
その一つが「尾獣に感謝する」だったのですから…その発想そのものが大きな変化なんですから… 人柱力の多くが「尾獣と一緒にされること」で「恨みと絶望」しか見出せなかった中で、我愛羅は「感謝と希望」を見つけられた、これって大きな一歩ですもんね。
そして「そんな事を考えるのは分福だけ」と思っていた守鶴にとっても、「本当に他にもそんなヤツが居た」という発見は、ものすごく大きかったハズ。どっちにとっても」大きな、新しい、大切な「一つ」だったと思うんです。
 
だから、たった《一つだけ》であっても、それはとっても大きな《一つだけ》…大切な《一つだけ》。
 
大切な《一つだけ》といえば、分福は「アナタが私の名前を知ってくれていますから(別にいいのです)」と言ってましたよね。 分福の名前(その意味)を理解してくれているのが たとえ《守鶴一人(一匹?)だけ》であったとしても、たった《一人だけ》でもいい…分かってくれる人がいたから、分福は救われた。
 
ナルトだって、最初はたった《一人だけ》。
イルカ先生がナルトを受け入れてくれたから、すっごく世界が変わったんですよね。誰か一人でもいい…誰かが受け入れてくれれば誇りを取り戻せる、救われる。
我愛羅だって、最初はたった《一人だけ》…ナルトが我愛羅を受け入れてくれたから、誇りを取り戻せて救われたんですもんね。最初は、まず《一人だけ》でもいいから…誰かが受け入れてくれたら、それが取っ掛かりになっていくと思うんですよね。
 
だけど、感謝するにしても「ありがとよ!」とか「お前に感謝している」とか言わずに「お前に感謝ことが(一つだけ)できた」なんて言い方をするのは「いかにも今の我愛羅らしい」っちゃらしいんですが、でも我愛羅「感謝」という言葉を使うのは「よほどのコト」。それを受け取った守鶴も「・・・・・」と黙ってますが、あの口の悪い守鶴が「黙って聞いている」時も「よほどのコト」。
 
 
(守鶴) 「オレ様のモットーは絶対防御だ! 守鶴としてのプライドもあるんでな」
 
我愛羅) 「分かっている…」
 
(守鶴) 「・・・・・・・」 (ニヤリ)
 
 
「守鶴」の名前は、六道のじじいから貰った大切な名前。それに守鶴の「守」は守りの「守」。腑を見せ合い、受け入れ合った「絶対防御コンビ」…守鶴、相変わらず嬉しい時は「・・・・」ですけど(うちは一族かぃ!)ニヤリ付きですから、よほど嬉しかったんだろうなぁ…。 
 
守鶴の「絶対防御」といえば、君麻呂戦での「最硬絶対防御・守鶴の盾」を思い出しますが、守鶴は守ってこそ本来の実力を発揮できるのでしょう。 
“守鶴の「守」は守りの「守」”なのに、「その名の意味」を解さない人間達に「攻撃の道具」として使われ続け、《守鶴としてのプライド》もズタズタだったのでしょうねぇ。
 
でも、口の悪い暴れん坊の本当の姿は、「守る事をモットーとする」心優しいタヌキだった… 須佐能乎にやられた我愛羅を「…我愛羅無理すんな…」なんて心配したり、守鶴優しいじゃないですか…。もう、その「優しさ」を隠す必要はないもんね。“モットー”(人間だったら忍道とも言うのかな)ってのは、余程のことが無い限り変わるもんじゃない(と思う)。次々と「裏返しにした本当の心」が見えてくるこの戦場は、まさに「水鏡」なのかも。
 
 
そして、守鶴が「その名の本当の意味」と共に取り戻した「誇り(プライド)」・・・分福やイタチがどんな境遇下でも失うことが無かった「誇り」。
 
「誇り」とは、己の中に自分自身で見つけなくちゃいけないモノなのだと思います。たとえばカブトが節操なく他人の力をお取り寄せしたり、大蛇丸様の「物真似」をしたのは、あれは己の誇りを見失っていたからじゃないだろうか。他者からの評価っていうのは相手の都合などにより流動的に変化するモノであり、相対的なモノ。だけど自分自身の評価は絶対的なモノ。
 
ここでまた、私の大のお気に入り「ゲンマ&ライドウの会話」を例に出しちゃいますが(詳細は※過去記事=56巻526話)、忍達は今まで他者からの評価を基準として生きてきたんですよね。誰かに決めてもらった「基準」に頼り、誰かから貰う「勲章」が誇りだったわけでして。でもね、そろそろ、忍達が本当の意味での「誇り」を取り戻すべき時が来てるんだと思います。
 
 
「オレは人柱力ではなくなった」
「やっと・・・」
 
「お前と対等で夜更かしできる!」
 
「・・・・・」
 
この戦争って「解放戦争」とも言えるんじゃないだろうか…なんて思ったりもするんです。
 
イタチが穢土転生を「解」して、次々と「地」に縛られた魂たちが解放されて「天」へ昇っていった光景(62巻40~41頁)、あの画、綺麗でしたよね…あの美しい画がそれを象徴しているように見えました。
 
“己を己の器から解き放つ”…「運命」からの解放、「呪印」からの解放、己を縛っていたものから己を解き放ち己を取り戻していく戦い…「知らず知らず」縛られてきたモノから自分を解き放ってやる為の闘い…
 
我愛羅は守鶴を剥がされ人柱力ではなくなって「オレはもう…父さまの作った人柱力ではない」と言っていたけれど、今度こそ「やっと」本当の意味で“人柱力という縛り”から解放されたんだと思います。白ゼツに「人柱力で死ぬ訳でもないのに邪魔しやがって」と言われてたけど、そういう問題じゃあないんですよね。我愛羅は「自分の意志で」守鶴と一緒に居る…だからこそ「人柱力ではなくなった」。本当の意味で「解き放たれた」…やっとなんですよ、長い道のりだったけど…「やっと」。
 
そして縛りや呪印ってのは、術者(あるいは他者)によって解かれたのでは本当の意味で「解放」にならない、自分の意志で解かないと意味が無い(という話は時々ブツブツ言ってますけど…カカシVSオビトの時空間決戦の話とか)、そういう意味でも、穢土転生達はイタチによって解放される前(そして封印される前)に殆んどの人達が「この世(地)への縛り」から心は解かれていましたから…あれは本当の意味での「解放」になったんじゃないかと思ってます。
 
(でも、デイダラだけが正直言ってスッキリしないのです。それとスッキリしてないのは「ネジ」なんですよねぇ…彼を象徴する「鳥」は墜ちてしまったし、まだネジは「話が続く」と思っているんですけどね…きっと!)。
 
そして《人柱力からの本当の意味での解放》…これは我愛羅だけじゃなくて、ナルトとビーにもあるんじゃないだろうか(ラスト、ナルトから九喇嘛のチャクラが抜かれたようですが…)。チャクラが抜かれるというより、本当の意味での「解放」が(これに関連したことを後述します)。
 
そして我愛羅の言う《対等》なんですが・・・イタチが「同じ目線で真実を語り合っていれば」「上からお前に多くを語っても伝わりはしない」と言っていたように、相手と分かり合う為には「対等」である必要があると思うんです。どちらかが勝って説き伏せるとか、片方の正義だけが罷り通るような今までのやり方では「伝わりはしない」んじゃないだろうか。
 
ちょっと前のナルトとサスケの共闘でも「同じ比率でチャクラを合わせて」いたし、エービー兄弟の雷犂熱刀も「同じ力で合わせる」のがコツだったし、補い合う対となる2つは「同じ力で」対等でなければならない…分福が「人間と獣を分ける必要はない」と言ったように、本来人間と尾獣も「主従関係」ではなく敵でもなく「対等」であるべきなのだと思います。
 
そして今週の《守鶴も我愛羅》を見ていても、どちらも「お互いのおかげで」救われている…これも「対等」の関係なんですよね。 
 
我愛羅が守鶴を守り、守鶴が我愛羅の心を受け入れて「守鶴としての誇り」を取り戻せた》だけでなく…《守鶴が我愛羅を守り、我愛羅が守鶴の心を受け入れて「人柱力」から解放された》。どっちかが一方的に「救ってやった」のではなく「お互いさま」、互いに助け合い受け入れ合い、どちらも「己を取り戻せた」…だからこその「対等」なんだと思うんです。
 
(ナルトは尾獣たちを「救ってやった」けど、今度は尾獣たちがナルトを救ってくれる番なのかもしれません。それでこそ「対等」になれるのだから…)
 
そういう意味で「本当の意味での終戦」とは、お互いの「隠された本心」を受け入れ合い、「対等」の関係になった時なのだろうと思います。十尾とも、マダラとも、オビトとも…。
オビトについては、今のところ一方的に連合側がオビトに「勝った」(説き伏せた)形になっていますが、そういう意味では戦争は「まだまだ」なのかな…と思うんです。オビトの隠された本心を受け入れ「対等」の関係になった時が、オビト戦の本当の終わりなんじゃないだろうか。まずは、最初の取っ掛かりを誰かが作らないと…(それはカカシの役目でしょ)。
 
そして分福が左右に「分」けた「福」、つまり「(裏の)心」と「受」を合せて「愛」にしたように… そうやって2つに分けられたモノは対等に受け入れ合ってこそ「本当の力」になるんじゃないだろうか。 
ナルト(千手)とサスケ(うちは)も受け入れ合って「同じ力」で対等に在ってこそ、同じ力で共闘してこそ「本当の力」が生まれるのだろうし… 
 
「写輪眼は左右揃って本来の力を発揮するものだ」(マダラ)、つまり「オレ(オビト)がカカシと揃えばより強くなれるってことじゃねーか」(オビト)のように、「分けられた左右の写輪眼」も揃えば「神威の本当の力」が発揮されるハズです(よってカカシとオビトの「共闘」は絶対ある!と断言しちゃうのですが、でもその前に2人が「対等」になるのが条件なんですよね…)。
 
六道仙人が石碑に遺した「相反する二つは作用し合い森羅万象を得る」…「分けられた二つが対等に作用した時、本当の幸せがある」・・・
 
 
マダラは柱間の力を得てそれを「一人で」為そうとしてますが、オビトが「ナルトとサスケ」を次の二人として指名して「ぶつける」と言っていたのも石碑の内容を意識してのことと思われるし、オビトのまだ明かされない「意図」は大いに気になるところです(いずれ分かるでしょうが)、ナルトとサスケの「力を合わせて」の共闘の「本番」は、これからなのでしょう…きっと。
 
 
我愛羅…お前は)
 
(分福に似てるな)
 
我愛羅が「愛」の言葉の意味を見失った時に、額に「愛」の文字が浮かび上がったのは、なぜだったんでしょう。以前は「我だけを愛する修羅」の意味だったのかと思ってましたが、あれは我愛羅の心を想った守鶴が、手を合わせていたのかな…我愛羅の中で。 その守鶴も、今、しっかりと「愛」の言葉の「意味」を感じている事でしょう…。そして我愛羅も自分の名前の「本当の意味」を感じているのかもしれません。それは「自分だけを愛す修羅」ではないよね…。
 
(マダラ) 「イヤ・・・何も分かっちゃいないな」
 
マダラってさりげなく「会話」に参加してきますよね(楽しんでいる感じがある)。オビトは真剣に問いただすように会話してたけど、マダラは後輩に胸を貸してる先輩みたいな余裕の対応…。
 
「分かってる」「分かっちゃいない」「分けた」「分福」…やたらと今回「分」連発なんで、一応「分」についても述べますと、「分」には「本領、能力」という意味と、「左右に切り分ける」という意味があります。「分けられたモノ」を「合せる」ことで「分かる」…「分かり合う」。…何言ってるのか分からなくなりましたが(苦笑して逃)、「分けられた福を自分一人で抱えた」マダラは、ひたすら淡々と作業をこなしている感があります。彼が目指しているモノ、それも一種の「解放」だったりしないだろうか。
 
以前(52巻)、ナルトが(サスケに)言っていた「もし行き着くとこまで行ってお互い死んだとしても…うちはでもなく九尾の人柱力でもなくなってよ 何も背負わなくなりゃあの世で本当に分かり合えら!」の言葉がず~っとモヤモヤと気になっておるのです。いずれ何らかの形で「ナルトが九尾の人柱力でなくなって、サスケが写輪眼から解放される時が来るのではないか」と漠然と考えております(と、前も言いましたっけ)。
 
この前、マダラがサスケに「お前に残された時間は少ないぞ」と言ってましたけど、アレも気になるんですよね。あれは「お前が写輪眼を使える時間は少ないぞ」という意味じゃないかと…つまり「サスケもうちはの宿命(眼)から解き放たれる」という事なのかもしれないなんて…そういう可能性も考えています。 
「忍術」や「チャクラ」が神樹からの借り物の「夢のような力」だとしたら、忍達が本当の意味で《夢から醒める》為には、借り物の「夢のような力」を自分達の意志で「返納する」必要があるんじゃないだろうか…という1つの推測を以前いたしましたけど(642話で)、今もまだその可能性をモワモワ感じております。
 
今までのオビトの台詞(これから消える世界とか、偽物の世界とか)、それとオビトと弥彦が二人で“暁”(目覚めの時)という名前をこっそり組織につけた理由(この真相、まだ明かされてないんですよね)などを考えても、そういう可能性はあるんじゃないだろうか…と思ってしまうんです。
マダラがサスケに「直巴」の話をしたのも、マダラはサスケの眼が「うちはの高みの眼」“己の器から己を解き放つ“眼である可能性も感じたのかもしれません。「かも」という話ですが…
 
しかし「己を解き放つ」事…それが眼の能力を失うという事なのか、それとも「うちはの宿命」から自分で自分を解き放つことで「うちはではなくなる」という意味なのか、それはまだまだ分かりません。
特に、今週の我愛羅を見ていると、本当の意味での「解放」とは「失う」ということではないと思えてくるのです。
 
そして、ここにきて白ゼツが今迄みたいな「傍観して楽しんでいるような様子」ではなくなってきているのも木になる…いや気になる。「マダラ様」なんて言ってはいますが、それも本心からの忠実ではなく、どことなく「からかってるんじゃないか」と思えるような…白ゼツでさえマダラを利用するつもりなんじゃないかと思う態度が少々見えてきているのも気になるんですよね。
 

(九喇嘛) 我愛羅のガキ!! 頼みがある!!』
 
我愛羅) 「!?」
 
(九喇嘛) 『分かったな…我愛羅!』
 
我愛羅) 「・・・・・・」
 
何を頼んだんだろう…九喇嘛。
 
《ドクン》としているナルト…遂に九喇嘛を引き抜かれちゃったみたいですが「人柱力は尾獣を抜かれたら即死」はうずまき一族のナルトには適用されるとも思えず(それにナルトの中の九喇嘛は「陽チャクラ」だけだし)、ただ自分としてはナルトも「あの世との狭間(時空間=神、外道の空間)」に入り込んで十尾と向き合ったらいいとも考えているので、この先大きく話が動くのではないかと期待していますそれに九喇嘛が何を我愛羅に頼んだのか…我愛羅が「磁遁」の使い手であることも関わってくるんじゃないかと、少々気になります
 
我愛羅の「ナルト!!」の叫び。
 
前に我愛羅が守鶴を抜かれた時、ナルトは必死に追っかけて助けてくれましたもんね…だから、我愛羅は絶対に絶対に「ナルトを守る」と思っているはずなんです。その想いは人一倍強いと思うんです。
だから、今度は…これからも「対等」であるためにも、我愛羅がナルトを助ける番なのかもしれません。
 
そして時空間(神空間)に出入りできる4人(扉間、ミナト、カカシ、オビト)もどう動くのか… 物語も、複雑に絡み合った糸の「絡んでいる部分」についに差し掛かってきたのかもしれませんね。うーーん…ナルト…どうなる!?(こんな時に限って、次はまだまだ先なんだよなぁ…)
 
 
 
 
 
 
☆そろそろミナト班の「時空間トリオの神術」(「飛雷神」と「神威」)が気になる…と、また言ってみる。
 
 
 
☆長駄文、読んでくださって感謝。
 
 
 
☆次まで時間があるので、補足記事追加&人物雑考などやっていこうと思ってます。
 
 
 
(ナルト好きブログ!2013/01/06)
 
 
 
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