ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

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NARUTO-ナルト- 663:絶対に 今週のジャンプ・ナルト感想 (WJ11号) その3

NARUTO 663:絶対に その3

 
(その2の続きです)
 
大蛇丸の奴…抜けおったか」  (三代目火影ヒルゼン)
 
「まあ…いっか 向こうへ行ってももう遅いからね」 (グルグル)
 
とりあえずグルグルは「時間稼ぎ、足止め成功」ってことでしょうか。大蛇丸達は何を見る事になるのか…。
グルグルはどこまでマダラに忠実なのか、あるいはマダラを出し抜こうとしているのか・・そのあたりが未だに分からんと思っているのですが、それによって足止めした理由も違ってきそうです。マダラの為なのか、サスケの「眼」が鷹となる為なのか、両方なのか…それとも…。
 
 
 
《そして、外道魔像…いや「十尾」を口寄せし、己に取り込んで完全な十尾の人柱力「六道仙人化」したマダラ》
 
 
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「これが六道の力か……」
 
「後は左目だな」
 
 
いやぁ、遂にマダラもこの姿になっちゃいましたか…!
 
にしても、驚くことがてんこ盛り。 口寄せ解除して「どこかに帰っていた」外道魔像はちゃんと十尾になっていたし、そしてこの「マダラの余裕」…。
マダラは十尾のことを振り返って見ようともしないし、しかも「歩きながら」己の中に簡単に取り込んじゃうし、さらにそのままアッサリと完全な十尾の人柱力姿までいっちゃったのですから… 柱間の仙人の力のおかげもあるのでしょうが、この余裕は何なんだと驚いちゃいます(オビトはあれだけ苦労したというのに)。 それにマダラのやる事には無駄が無い。やるべき事をちゃっちゃとやる。
 
勿論、マダラだって「ここに至るまで」に気が遠くなるほど長い年月をかけて計画を進めてきたわけだけど、それでもこれが「無駄のない最短ルート」だったのかもしれません。 放っておいたら、いつまで経っても「平和」なんかに辿り着けやしない…だからマダラは迷える子羊達(忍達)のために、一人で「最短ルートの平和への道」を無駄なく進めてきたんじゃないでしょうか(ちょっと「荒療治」だけど)。
 
マダラの「本当の想いと本当の目的」はまだ、分からないままですがね…
 
一方のオビトはやたらと道草を食っていたというか、丁寧というか、十尾も不完全で復活させたし、そのせいで「その後」もやたらと時間が掛かった… 
その間ずっと忍連合やナルト、カカシとの「問答」に時間をかけていて、オビトはあの長~い問答そのものを重要視していたような印象を受けたんです。まるで「最終戦」に向けての練習みたいな印象…。オビトの「本当の想い」もまだ分からない(と私は考えています)。 
 
マダラも遂に「十尾人柱力」にジョブチェンジしちゃって、正直このお姿を見た時は《またかよ…》と思ってしまったんですが、この姿…八尾九尾のチャクラが多く入っている分、マダラは完璧に近い状態なのでしょうか。オビトの人柱力姿が「お花の妖精」みたいな子供っぽい姿だったのにくらべて「オトナな」感じがします。
ちょいと「金銀兄弟」にも似ているし、角のあたりが額当て風にもなって、どこか自来也風でもあります。案外と元祖六道仙人の姿に一番似ているのは「自来也」じゃないかと思ったりしてるんですけどね…。
 
 
《そして、ナルトに口から息を吹き込み救命を行うサクラ。》
 
 
口で息を送り込んだり、口で噛んで回復したり、口で噛みついて呪印を与えたり…今週だけで3人が「口」を使ってましたね、そういえば。
 
鼻をつまんで口から酸素を送って心臓を手で動かし、目で胸の状態や顔を見て、耳で心音を聞き…サクラは「忍術」以外の手段でナルトを必死で助けようとしてる。何かと便利な「忍術」が「殆ど使えない、効かない」状態になって、サクラは初めてじゃないでしょうか…「己の力だけを頼りに」医療を行うのは。
 
それでもサクラは「諦めない」、自分を信じて「やれることをやる」。
人間本来の力「目、耳、鼻、手、口」を使ってみて、サクラも「本当の自分の力」を再認識しているかもしれないですね。そして「己」を知ると同時に、今まで当たり前のように使ってきたチャクラの有難さ、そして忍術を使えていた有難さも痛感しているんじゃないでしょうか。
 
人間に本来備わっている力と、天からプレゼントの力。
その両方が揃っている事の有難さ、その両方が助け合いながら共にある事の有難さに、人間はこんな事態にでもならないと気付けない…。
 
 
 
《人は何かを失ってみて初めてその物事の本質に気付く…(18巻、大蛇丸の言葉)
 
 
そもそも人間本来の力とは何なのか、そして忍術とは何だったのか。
「忍者」とは何なのか。
 
 
「忍者とは何なのか」の問いに、かつて(三竦みの戦いの時)、自来也「忍び堪える者のことなんだよ」と答え、大蛇丸「忍術を扱う者を指す」と答え「見解の相違ね」と言っていた…。
あの時は自来也の答えの方が「正しい」と思っていたんですが、今になって「どっちも正しいんじゃないか」と思えてきたんですよね。 忍者とは「忍術を扱う者」、つまり天から与えられた力と人間本来の力を「合せて使う者」、天と地の共闘共存を扱う者・・それも答えの1つじゃないかと思うんです。ただ、忍達にはその「自覚」が足りなかっただけなんじゃないだろうか。
 
 
《そしてタイトルにも使われている「絶対に」、「絶対」という言葉…》
 
 
(かつてのアンタのバカげた夢は……今はもう…)
 
(逝かせない… 逝かせてたまるか!)
 
絶対に死なせる訳にはいかないのよ!!)
 
(今はもう目の前なんだから!!!)
 
(サクラ)
 
 
「絶対」っていう言葉、私は日常で軽~く使っちゃうんですよね、「絶対~したい!」とか言ったくせに、やらなかったり…(恥)。
だけどNARUTOを読んでいると、忍達はあまり軽々しく「絶対」という言葉は口にしないんですよね。それは忍達が「絶対」の難しさを知っているからでしょうか…やっぱり「出来なかった時」の事を考えてしまうのかな。「失敗」のトラウマを多く抱える人ほど、その言葉を使うのに慎重になってしまうのかもしれません。
 
だけどナルトは結構、使うんですよね。
 
「ぜってー負けねーってばよ」とか「サスケはぜってーオレが連れ帰る!」とか、「約束は絶対守るってばよ」とか。
 
…で、キバに「おいおいナルトォ!そんなこと言って大丈夫かぁお前ェ!?」なんてツッコまれていたけど、ナルトの「ぜってー」はガイやリーの「ナイスガイポーズ」と似たようなイメージです。 
 
でもナルトは「ぜってー」と言ったことを必ず成し遂げているかと言えば、実はそうでもない。 サスケに勝てなかったし(アカデミーの組手で)、それにサスケを連れ帰れなかった…失敗してる。
 
我愛羅「絶対防御」の1つである「砂の盾」も、砂の鎧に比べて防御力が高くオートで必ず我愛羅を守りますが、二代目水影の油っぽい水に砂は崩れてしまったり、これも「完璧」じゃあないんですよね。絶対=完璧じゃあない。 
でも、それでも、ナルトのサスケへの想いは本物だし、我愛羅の砂つまり母・加瑠羅の愛情は本物であって「絶対」なんですよね。どんな状況でも、どんな結果であろうと、変わらない「絶対なもの」
 
 
660話で、守鶴が言ってましたっけ…
 
「オレ様のモットーは絶対防御だ! 守鶴としてのプライドもあるんでな」。
 
そう言いながら守鶴は引きずり込まれてしまったけど、最後まで貫いた「絶対に仲間を守るという想い」…その想いの「強さ」に守鶴はプライドを持っていたんですね。 もし「失敗」したとしても、守鶴の「防御」に懸ける想いは絶対…だから守鶴は堂々と《絶対》の言葉を使うのでしょうか。
 
サクラと香燐の「大切な仲間を守りたい」という想いも絶対のもの…結果がどうなるかとか関係なく、どんなときにも見失うことが無い《絶対》なもの。
 
たとえ「今」は形にならず、目には見えなくても、《絶対な想い》だけはずっと繋がれ、ずっと在り続け… そして、いつかきっと「形」になるのかもしれません。
 
 
  
 
☆ラスト、サスケの元に「何者か」が表れてますが、あの足、マダラでもグルグルでもないように見えますね。 裸足といえばオビト…でも予告によればマダラがカカシ達の前にとあるし、まさかのカブト、えっと…“鷹”もそうでしたけど…ま、これはお楽しみということで。 
 
☆サクラの言葉から、ナルトが「火影」になる時(つまりラストかな)も「目の前」、近そうですねぇ…なんだか「エンディングフラグ」…
 
 
☆長駄文、読んでくださって感謝。
 
 
 
 
 
 
(ナルト好きブログ! 2014/02/11)