ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

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NARUTO-ナルト- 670:始まりのもの…!! 今週のジャンプ・ナルト感想 (WJ18号) その2 「アシュラとインドラ」

NARUTO 670:始まりのもの…!! その2 

(その1の続きです)

「なので少し聞いてもらう… いやお前は聞かねばならない」
「まずはワシの母と息子たちについて…」 
 
《聞かねばならない》とか、やや強引な感じもしないではないですが、ハゴロモとしては「ナルトに託すしかない」と最大の賭け(あるいは懸け)に出てるのでしょう。ナルトを引きずり込むような(やや)強引な言い方、あの時のトビの言い方に似ています。43巻、サスケに「いや聞いてもらう いやお前は聞かなくてはならない!」「…兄うちはイタチの生き様を!!」と言ったあの時に…。そう言えばあの時トビはマダラとイズナの過去話をやたらと詳しく話していましたが、「あのマダラ」オビトに“自分の過去話”を教えたんだろうか…?という疑問もありまして、あの時は本当に「オビトが」語っていたのか?と今更ながら不思議に感じています。
 
…本題に戻しますが; 
 
ハゴロモにも兄弟が居たんですね。 一緒に十尾を封印しようとしている絵がありますが「兄弟」は長髪のほうでしょうか、今のマダラにそっくりです。
この兄弟には十尾を封印しなかったのか、その後どうなったのか等かなり気になりますが、ハゴロモ爺ちゃん…兄弟の事にはそれ以上触れませんね。
 
 
(さらにハゴロモの語りは続く) 
 
 
「それからさらに後 ワシも二人の子供をさずかった」
「兄をインドラ 弟をアシュラと名付け 忍宗を教えたのだ」
 
 
イメージ 1
 
「…優秀な兄インドラと」
 
 
イメージ 2
 
「落ちこぼれの弟アシュラ」
 
 
六道仙人の息子の名前が「インドラ(兄)とアシュラ(弟)」と判明しましたが、これでやっと590話の「あの絵」の意味が分かりました。「あの絵」とは、イタチがサスケに見せた記憶に登場する「忍宗の寺院」らしき建物の絵… 
建物の前には、片方に阿修羅(アシュラ)像、そしてもう片方には菩薩像のようなものがあったのですが、これはおそらく帝釈天(=インドラ)像かと推測します。
 
あの時、イタチは木ノ葉側(アシュラ像)につくか、うちは側(インドラ像)につくかダンゾウから選択を迫られ、無言でアシュラの方向に進むんですね。そのまま解釈すれば、フガクが最後に言った「そうか、お前(イタチ)は向こうについたか…」は「向こう=アシュラ側」という意味でしょうか。
 
我々世界の「阿修羅とインドラ」は戦いを運命づけられているらしい… そんな名前を息子達につけるなよ…とちょっとツッコみたくもなりますが、NARUTO世界に我々世界の世界観は通用しないので、仕方ないですな… (参考までに「アシュラとインドラ」については今週中にまとめて追記するつもりです)。
 
そして…またもや土下座事項が発生いたしまして(今週の土下座コーナーとか必要かなぁ;)今回は「長男インドラ」に関してです。
 
遥か昔?462話(49巻)で初めて「六道仙人の長男」の絵が出てきた時、兄者のほうの眼は「うずまき眼(グルグル模様眼)じゃないか?」と大いに勘違いしまして(当時のジャンプの大きな絵をじーっと見て、そう思った…私にはそう見えた)、輪廻眼でも写輪眼でもないし、この人の眼は何だろう?と一人で大発見した気分で騒いでいたのです(土下座)。ここは視力の低下のせい(苦)ということで、ご容赦いただきたい…でも、そう見えたんだってばよ… しかし、真実は「写輪眼」。
「写輪眼は白眼から派生した」という初期のカカシ先生による説明は、えーっと…今後の説明を待ちましょう(あるかなぁ) 
 
そして…
 
「落ちこぼれねェ…親が六道仙人だってのに…」とナルトが(ちょっと他人事のように)呟くと、六道仙人は
 
「これは言うべきではないかもしれんが…両親がいくら優秀とて… その力をそのまま受け継ぐとはかぎらん …心当たりがあろう…」
 
「お前もそうだった様だからな… ……ナルトよ」 
 
(ナルト、ちょっとドキッとしたような顔)。
 
「…なんとなく分かってたってばよ…」とため息をつくナルト。
 
そうか…ナルトの心には「新たな落ちこぼれ意識」があったんですね。 
父ちゃんが「四代目火影」で、母ちゃんが強い「うずまき一族の元人柱力」…両親が「誇れるぐらい優秀な人だった」と知った時は、嬉しかったと思うんですよ。過去の《一人だった頃の落ちこぼれの辛~い記憶》が吹き消されるぐらいに。
この戦争でも、穢土転ミナトは「四代目火影としての、かつての勇姿」を彷彿とさせるような大活躍をしてますが、それを見ながらナルトは「さすが父ちゃん!」と思いつつ、大過ぎる父の姿に「なんとなく」引け目を感じていたのかもしれないですねぇ(ナルトってかなり繊細だし、こっそりストレスを抱えるタイプだと思うから)。
 
けれどハゴロモは、ナルトが「なんとなく分かってたってばよ…」と思わず心の内を明かした時、ちょっとだけ微笑む(口元だけしか見えないのが“そっと”微笑んだ感があっていい)。ハゴロモは、ナルトがその劣等感を「自信」に変えられるハズだと確信しているのだと思います。そして、あまりにもアシュラに似ているナルトを見て「息子に再会したような気持になって」微笑んだのかもしれない。いかつい顔だけど、あの微笑みに《本来の優しさ》が見えてきますね。
 
そして「落ちこぼれのアシュラ」に関してですが、49巻でトビがナルトに説明した時には生まれながらに仙人の“肉体”生命力と身体エネルギーを授かり」…なんて言ってたんですよね。 でも、厳密には「生まれながらに能力は授かっていたものの、それが開花したのは後になってからで、落ちこぼれで皆に助けてもらっていた」んですね。 トビ(オビト)がその「過程」を省いて語ったのは「不要」だと思ったからなのか、それとも「知らなかった」のか、あえて「言わなかった」のか…。 
 
本当はその「過程」こそ一番重要じゃないかと思うのですが、でもこれは「教えられて知る」のではなく、自分で体験して知らないと意味が無いんですよね。 
ハゴロモがナルトにその「過程」を語ったのも、既にナルトが自分自身でその過程を体験し知っていたからじゃないかと思います。
 
「お前は本当にアシュラとよく似ている…」
「やってきた事も…」
 
「修行の苦しみの中で…肉体のチャクラの力が開花し…兄と並ぶ力を得た」
「そして強くなれたのは皆の協力や助けがあったからこそだと理解したのだ」
 
「そこには他人を想いやる愛があることを知った」
「そして愛こそが全てを可能にすると悟ったのだ」
 
「ワシは弟アシュラの生き方の中に 新たな可能性をかいま見た気がした」
 
「己の中の十尾の力を分散し 個々に名をあたえ」
「“協力”という繋がりこそ本当の力だと信じたのだ」 (ハゴロモ
 
(頷くナルト)
 
アシュラは、「落ちこぼれ」という欠点を「仲間の力」で補い、そのおかげで協力と愛情の大切さを知った… それも己の欠点を潔く認め受け入れられたからこそ…そこは感想その1で述べたような「ハゴロモの自分の欠点を見つけ受け入れる考え方」をアシュラも受け継いでいたのではないかと思います。
そして《欠点があったからこそ、より良いものを手に入れられた》…それは《短所が分かれば長所が光る!短所も長所になる!》式な、マイト・ダイの発想法とも共通してます(これで668~9話のガイの話とも繋がるかな)。
そしてこの前の「ガイの攻撃を皆でサポート」は、元落ちこぼれのガイを「天才タイプ達がサポート」…六道仙人がインドラにも望んだような形だったんですね。

確かに、ここまでアシュラとナルトが歩んできた道は殆ど一緒。
そして天才インドラが「一人で何でも出来ると信じ一人で背負おうとした道」はほぼ、マダラやサスケの道と一致するのかもしれません。
 
そして《アシュラとインドラが闘う図》なんですが、アシュラのあの姿は、尾獣チャクラを借りているのかor己の肉体エネルギーを獣の衣としたモノなのか今ひとつ分からないのですが、インドラは「須佐能乎」使ってますよね。
 
むむむ、須佐能乎ってのは本来は「2つの万華鏡瞳術を持ってこそ使える」もの…
だけど、万華鏡を最初に開眼したのは「マダラとイズナ」だったはず…
ということは、須佐能乎そのものが「インドラのチャクラ」(あるいは須佐能乎=インドラ)という事なの「かも」しれません。
マダラとイズナは、万華鏡を開眼して須佐能乎(インドラのチャクラ)を使えるようになった…という事なんだろうか。
 
「須佐能乎」についても、そろそろ詳しい説明があってもいい頃じゃないかと思うんですが、サスケ側の話になれば分かるかな。
 
「アシュラの生き様」に新たな可能性を垣間見て、「協力」こそ本当の力と信じ、十尾のチャクラも分散させた六道仙人… 
それでも彼が「失敗」してしまったのは、「忍宗の後見人をアシュラ一人に指名した」せいでもあるんじゃないかと思うんです。 六道仙人は「兄インドラも弟に協力してくれるだろうと思った」と言っているし、たしかに元落ちこぼれを天才がサポートする方が理想的なのかもしれない(扉間が名補佐であったように)。
ですが、できればそこは「弟主導・兄の補佐」の主従関係ではなく、二人とも対等に…「兄弟二人とも後見人」にすれば良かったんじゃないの?と思ってしまうんです。
 
「後見人」が2人だと、決定がスムーズに行かない等問題もあるかもしれませんが、所詮その段階で問題が生じる程度ならダメなわけで、凸凹が補い合って《同じ力で対等に》語り合い、向き合い、力を合わせるべきだったのではないかと思います。だから…ぜひとも、ナルトとサスケには「2人で協力して火影」になって欲しいと願ってしまうんです。
 
 
「そして この時より長きにわたる争いが…」
 
「始まったのだ」
 
兄と弟の争い…これこそが“本当の始まり”だったというわけですね。
 
 
「そして肉体が滅んでなお 二人の作り上げたチャクラは消えることなく 時をおいて転生した… いく度となくな…」
 
 
《消えることなく時をおいて転生》…永遠に続く鳥居(チャクラの象徴でしょうか)は、まるで終末の谷の「流れ」のよう…
234話、終末の谷の川の流れを見て、カカシが《この流れを見てると…まるで永遠に止まることなく流れ続いていく戦いを見せられているかのようだ… 木ノ葉の里を作った この像の二人の運命と同じように…》と言っていたのを思い出します。柱間とマダラの二人も、その流れの中のごく一部。 
 
「…おばけに取りつかれるみたいでなんかヤダな 
…で… 今も誰かに取りついてんのか?」
 
「お前だナルト」
 
「!?」
 
「弟アシュラはお前に転生したのだ」
 
 
…アシュラがナルトに転生?? なんだかマジでおばけに憑りつかれているみたいでイヤなんですけど(笑)、実際にチャクラが『ナルトに憑りついている』のか、それとも「意志を受け継いでいる」という話なのか
それとも、あの《チリチリした尾獣モードのチャクラ》そのものが「アシュラのチャクラ」という意味なのかもしれないし(須佐能乎=インドラという意味である「かも」しれないように)。
 
そして、九喇嘛達が言っていた《ナルトはジジイの…》アレは何だったんでしょうね。ジジイの「生まれ変わり」と言いたかったのかと思ってましたが、どうやらそうじゃないらしい… 
ジジイの「意志を受け継ぐ者」なのか、それともジジイの「息子アシュラの転生者」と彼らは言いたかったのでしょうか。もし尾獣達も、ナルトの中に「アシュラ」を見ていたのだとしたら、十尾もそれを感じているかもしれない。
 
それと、以前から気になっているトビ(オビト?)の「心の中の」セリフがあるんですが…
 
《ナルトはサスケへの当て馬…オレにとっては余興でしかないガキだったハズだ!!》 《この違和感は力からくるものではない…!》
《なら何だというのだ!?いったい何が…!?》
《イヤ…そんなことはどうでもいい》
《ナルトが何者かなんてのは どうでもいいことだ…》
 
(60巻、尾獣達からチャクラを貰ったナルトを見ての、トビの焦りまくった反応)
 
これ…「オビト」の心の声にはあんまり思えないんです。オビトはナルトに「ガキ」って言葉を使いませんし、しかもこの時点で「ナルトが何者か」分かって「焦った」みたいだった。もし「ナルト=アシュラの転生者」だと分かって焦ったのなら、それは何者なのか… それじゃまるで「兄インドラ」のような反応じゃないか…と思えてしまったんですね。
 
その他にも、九尾事件前半の「仮面の冷酷無慈悲な言動」も、オビトとは一致しない…という話を以前から度々しておりますが(「このわずかな隙を“どれほど”待ったことか」…とかオビトではあり得ない発言)、あのセリフが十尾なのかインドラなのか…うーん今もよく分かりません(苦笑) 
でも、インドラが「写輪眼」持ちで「うちは一族の始祖」とも言える存在だったと分かった今回、ロン毛仮面が「インドラ」の可能性、或いはインドラが転生した存在という可能性もけっこう現実味を帯びてきたな…とは思います。そして、インドラのチャクラがオビトに「(一時的にでも)転生していた」可能性も否定できない…と思えてきました(「インドラ」に限らないんだけど)。
 
六道仙人は、息子達のチャクラが転生し続け、争い続けるのを、ずーっと(漂いながら)手を出さずに見ていたんですね。そのうえで「今だからこそ」託せると確信している。 
 
「…とにかく…今は色々と条件が整ったのだ」
 
一体「何の」条件が「どのように」整ったのか…ホント、これ気になるんですが、千年に一度と言われる「神樹の花が咲こうとしている」タイミングもその条件の1つじゃないかと思うし、ナルトとサスケという「次に運命に選ばれた者」がここまで成長したことも含め、すべて「条件が整った」のではないかと思います。 
条件が整ったのは、それこそ長門が言っていた《本当の神の仕業》も作用しているような気がするし、それ以外の多くの条件を「やや強引な手段で一気に」整えたのはマダラとオビトでもあります(そして「謎の仮面」でもある)。「九尾事件」と「うちは事件」も、この「条件」を整える為の計画の1つだったのではないか…とも思えてきます。
 
それにナルトが瀕死にならなければ、六道仙人に会うことも無かっただろうし、ナルトとサスケを瀕死に(このタイミングで)したのはマダラです彼の「本心」がますます気になる…!
 
そして、59巻ではカブトが「あの偽マダラが 計画通り事を運ぶ気があるのかどうかは分かりませんが」なんて言ってましたよね。 で…カブトは「トビ=オビト」といち早く見抜くなど「鋭い」人なので、おそらくその推測も正しいのだと思います。 たとえばサスケを育てたり、ナルトに《お前達は次に運命に選ばれた二人》なんて教えたのは、マダラに指示された計画「外」の寄り道ですよね。
 
オビトのそういった「マダラの命令を無視した」行動は何の為だったのか… 案外、オビトは「マダラの《本当の計画》を見抜いて」その上で《本当の計画》の準備を「寄り道をしながら」こっそりと進めていたのではないか…と、これも気になっています。何だかなぁ…色々な人々の思惑があり、それらが六道仙人が待っていた《条件》を満たすことに繋がったようにも思える。
 
 
そして最後に…
 
 
《何をもって死とする?》
《簡単に己を“死”という言葉に置き換えるとは…気概を持つのだ新人よ》
 
“転生”を繰り返してきたと思われるアシュラとインドラのチャクラ。
どうやら我々の感覚の「生死」とはかなり違うようで、一度「我々の常識」の枠を外してみないと理解できそうにありません。《転生》忍術にこだわった扉間や大蛇丸は「真理」に近づこうとしていたのでしょうか。
 
そして《また》イタチのあの言葉が気になってくるのです…
 
 
…マダラは生きている
人は誰もが己の知識や認識に頼り縛られ生きている 
それを現実という名で呼んでな
 
しかし知識や認識とは曖昧なモノだ 
人は思い込みの中で生きている そうは考えられないか
 
《マダラが死んでるというのは お前の勝手な思い込みだ》
 
生きているとは何なのか…死とは何なのか。
アシュラがナルトに《転生した》とは、一体何なのか…
 
 
 
 
 
☆長駄文、読んでくださって感謝。
 
☆「偉大過ぎる父」ってのが、子供に「知らず知らずのうちに」負担になることもある。父とは違う… 違う道を歩くことで、父が見いだせなかった「より良いもの」を見つけられる事もある。
ガイにとって「ダイ」も偉大過ぎる父だったのかもしれません。が…父とガイは違う。違う道を見つけてほしいとも思います。
 
☆世の中、天才型(インドラ型)と努力型(アシュラ型=大器晩成型)の二組というのは結構ありそうで、サスケとナルト、カカシとオビト、カカシとガイ、大蛇丸自来也…(柱間とマダラに関してはどっちも天才型に思えるのですが「考え方」においては柱間はアシュラですね)。←書き落とし追加
 
 
☆次週、巻頭カラー…驚愕の真実って何なんでしょう(ワクワク)。
 
 
 
 
 
 
 
(ナルト好きブログ! 2014/03/31)