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“暁” 飛段についての考察 (平和な里出身者が知った外の世界の現実)

飛段についての雑考 (「平和な里」出身者が知った「外の世界」の現実) 

 
 厳しい寒さが身にこたえる今日この頃…皆さんいかがお過ごしでしょうか。
 
この前『陣の書』をパラパラめくっていまして、ちょいと気になったのが「湯の国の大名様」。 説明によれば、彼は一度も戦争体験が無いのだとか… あれだけ戦いに明け暮れていた忍世界の中に居て、60年以上も平和を貫けた「湯の国」とは、一体何ぞ…とね。

「湯の国」は観光国として潤っていたらしいですが(湯、ですもんね)、ン十年間も不戦を貫けたということは、他里に威嚇できるほど「それなりに強大な防衛用の軍事力(忍力)」があったという事でもありますよね(きっと)。 不戦の国・湯の国が抱えていた《忍の隠れ里・湯隠れ》…  今回は、かつてそこに所属していた、“暁”の忍・飛段の話を少々… 
 
 
・飛段が嫌った「現実」
 
  1つ前のデータブック「者の書」では、飛段は平和ボケした里に不満を持ち里を出た…というような説明がありました。 「外で」実力を試したかったのか、それとも「ジャシン教」にハマったように「理想的な平和=正統派的な神」に疑問を感じていたんだろうか。 かといって飛段は「戦いに明け暮れる里の外の世界(忍世界)」に憧れていた訳でもないらしい。 身勝手な「それぞれの目的」の為に戦いを繰り返す忍達のことを、飛段は「罰当たりな無神論者共」と思っていたようだった…
 
  《外の世界に放たれた飛段は“暁”に入り、自由を謳歌するかのように《邪神サマ》の教えに従って「殺戮」を繰り返し、ひたすら邪神に犠牲を捧げていくのですが…》 
 
  “暁”で飛段の相方を務めた「角都」…彼は「滝隠れ」の出身でしたが、「滝隠れ」もちょっと変わってまして、七尾を所有していたし、角都の「豊富な戦歴」から考えても「かなりの戦力大国」なのに…昔っから「影会議」には参加していないし「五大国」にも入っていないのです。 徹底して「協調路線」を取らず、他里を信頼せず、独自路線を進んできた国(里)なのでしょうか…忍界に於いても、もっとも現実主義的な里だったのかも。
 
 (あの世界に於いては)非現実的とさえ思える理想郷出身の飛段と、現実的な考えに根差す里出身の角都…まさに凸凹コンビ。 超がつくほどの現実主義リアリスト、角都は…「信じられるのはお金だけ」の拝金主義。 
「信心深い」飛段にとって、俗の象徴である「カネ」にこだわるのは卑しい事であり、カネカネ言ってる角都に何度もキレそうになる… そして自分だけは「信心深く崇高」と考えていたらしい飛段は、周囲の俗っぽさにウンザリし、“暁”の組織の目的やら命令さえ「どうでもいい事」のようだった…
 
 そもそも飛段が“暁”の目的を知ったのは、36巻のことでして…それまで彼は組織の目的を「知らなかった」んですよね。たぶん「知りたい」と思った事も無かったんじゃないのかな…  
 他の“暁”のメンバーは「組織の目的」を知った上で行動し、彼らなりに「忍界の現実」を変えたかったんだろうと思うんです。 でも、飛段は『邪神サマの世界』にしか興味がなくって、他のメンバー達の『現実に向けられた切実な想い』は どうやら彼には理解できなかったらしい…
 
 
・「お前はバカか…」
 
 飛段と他の忍との「感覚のズレ」…それは あちらこちらで見受けられるのですが、例えば…
 
 35巻、二尾の人柱力・ユギトを追っていた時の事ですが、飛段は「ここは話し合いで解決しないか?」なんて真面目に《話し合いによる交渉》を持ち掛けてるんですね。 で、ユギトにも「話し合いだと…(なんだコイツ)」と呆れられ、角都にも「お前は馬鹿か」と呆れられてる…
 
 それともう1つ。 アスマ隊との戦いの後、飛段と角都は「またここに戻ってくる」と言い残して立ち去ったのですが、6日後に飛段は(バカ正直に)その場所に戻ろうとします。 で、角都に「お前はバカか…わざわざ戻ると言った場所に行って、待ち伏せを食らう必要はない」と言われ、飛段も「……」「んー…そりゃそうだなホント」と素直に納得していた… うん、ホントにバカっぽい。 …というか「バカ正直」なんですよね。 
 飛段は「話し合い」という手段が「通用する」と本気で思っていたらしいし、それに「約束を反故にする」という発想も当初から無かったらしいのです。
 
 もっとも、話し合いによる解決や相手との約束の遵守…これらは「我々の世界(日本と限定したほうがいいかも)」では当たり前のことですよね。 しかし、あの「忍界」に於いては当たり前じゃあない…。
 忍の世界では「駆け引き」やら「裏を読むスキル」のほうが必要で、「敵との話し合いによる解決」や「敵との約束を守る」なんて“常識的にはあり得ない事”だったのだろうと思います。つまり、飛段は「スレてない」とも言えるし、「実は」我々の感覚にかなり近いとも言えるのです(ああ見えても)。

ま、飛段のこういった発想は、おそらく「平和な湯隠れの里出身者」ならではの発想であって(だからこそ我々の感覚に近いとも言えるのですが)… 彼のこういった発言を聞いていると、いくら“暁”の衣を身に着けて鎌振り回して、ワルぶっていようが…狂気じみた《ゲハハァ》なんて頓狂な声をあげようが…根は「温室育ちの坊ちゃん」である事がバレちゃうといいますか…ようは「お里が知れる」のであります。
 
 
・飛段ならではの「視点」

だけど、「飛段ならでは」の忍界への「客観的視点」は、時には鋭い「ツッコミ」ともなる…。 
たとえば…ユギトが「雲隠れの二位ユギトの名にかけて 殺す!」と宣言した時なんですが… 飛段はイヤそうな顔をして「ハァ…?何?その殺す!とかさ… 何かそういう意気込みみたいなのぶつけられるとさ…イラッとくんだよね」とウンザリして言うんです。 かく言う飛段だって「ゲハハハァ、むちゃくちゃ痛てーから覚悟しろよ!」とか叫んだりしてるんですが…ま、そこはとりあえず置いといて… 
 
 飛段にとって「外の世界の忍達」は、「くだらない現実的な目的」の為にせっせとチマチマと戦っているように見えてたんじゃないかと思うんです。 なのに、サッサと戦わず、いちいち「意気込み」を言ってる事に、「違和感」あるいは「不自然さ」を感じたのかもしれません。 そして、その不自然な ぎこちなさの「理由」が分からないから…余計に《イラッ》ときたのかもしれない。

で、忍達がいちいち「意気込み」を言う理由なのですが… それは「カッコつけ」や「威嚇」、そして「礼儀」でもあるような気はしますが、それだけじゃないのかもしれない。 彼らは「意気込まなければ」戦えないんじゃないだろうか?
 いちいち「言い訳」(理由づけ、自分の正当化)をしないと「相手を傷つける事」に ためらいを感じるのではなかろうか…?
 
 なぜ「ためらう」のか… それは、忍達が《本当の痛み》ってもんを“知っているから”じゃないかと思うんです。  自分が生み出した《痛み》が、相手の家族、相手の仲間の心にまで《痛み》を生み出し、その痛みがさらに新たな痛みを生み出していく… その事を、彼らは「体験上」知っているから…だから、相手を傷付ける事に戸惑い躊躇し、その戸惑いを断ち切るために いちいち《意気込み》を言う必要があったんじゃないだろうか…?
 
 飛段には、意気込みが「なぜか不自然なもの」に思えた……だけど、その「理由」までは分からなかった。それは、飛段がまだ《本当の痛み》ってもんを知らなかったからじゃないか…とも思えるのです。
 
 
・飛段と《痛み》
 
 飛段の過去はよく分からないし一概にどうとは言えませんが…「不戦」の平和な湯の国出身なら、大名様同様に飛段も「戦争」未体験のはず… そして戦いで自分の大切な人を失った「喪失体験」も(ほぼ)無かったのではないかと思われるんです。 飛段は「心の痛み(本当の痛み)」ってものを、まだ知らなかったのかもしれない…
  
 飛段の発言を見ていると…「オレと一緒に最高の痛みを味わおーぜェ‼」とか、「これから痛みを一緒に味わおうぜェ~」とか「他人が死ぬ時の痛みがオレの身体の中に染み込んでくる!痛みを通り越して快感に変わるゥ!」とか…《痛み》についての発言がとにかく多いんです。痛み、痛み、ってね…。
 
 平和な湯の里とは違い、外の「忍界」では殺伐とした死が溢れ、あちらこちらに「痛み」が散らばっている。  飛段はそれらの「痛み」を実感してみたかったらしいけど、それでいて「くだらない目的のために安易に傷つけあっている(ように見えた)忍界の現実を蔑んでいるようでもありました。 飛段は「自分はお前達とは違う」という事を「外で」証明したかったんだろうか…? 「くだらない」現実的な目的の為の殺戮や痛みではなく、「邪神様の為の犠牲」として捧げる《崇高な痛み》を示したかったんだろうか。
 
 だから、こんな発言も飛び出す…「人の痛みを知らねェクソヤローには神の裁きが下るぜ」とかね。
 
 飛段は自分だけが「人の痛みを知っている」とも思っている…それは邪神教の不思議な能力のおかげで「自分と相手で痛みを共有できる」からなんでしょうが…ようするに、彼が言うところの《痛み、他人の痛み》とは「肉体的な痛み」の事なのです。 心の痛みの事ではなくって。
 
 だから、飛段がアスマやユギト、忍寺の僧侶たちを倒した時に見せた「無慈悲」も… 「痛みを知らない忍達」への《邪神サマに代わってのお仕置き(制裁)》のつもりだったんじゃないかと思います。 アスマに対しても「人の痛みを感じてみろ」と言いたげだった…
 
《しかし、このあとシカマル達との戦いに敗れ、飛段のほうこそ『本当の痛み』を知る事になる…》 
 
 飛段の敗因は、当然「シカマルの巧妙な作戦」にもありましたが、もう1つは「痛みの存在」だったのではないかとも思うんです。 アスマの死後、シカマル達の「心に残った痛み」と「消える事のない師への想い」…それは飛段には「理解できない」ものでした。
飛段がアスマに与えた《痛み》は、シカマル達の《心の痛み》となって深く残り、その痛みがシカマル達を動かした… 想定外だった、その「痛み」の存在に飛段は戸惑い、敗北に追いやられたのではないだろうか……?
 
 恍惚として『これから痛みを一緒に味わおうぜェ~』と“裁き”を下そうとしていた飛段…《人の痛みを知っているのは自分だけ》と思っていた飛段… 
 だけど「邪神サマ」の裁きに依らずとも、忍達はもう《本当の痛み》を知っていたという事を初めて彼は知ったんじゃないかと思うんです。 「痛み」を教えようとしていた飛段が、逆にシカマル達に「本当の痛み」を教えられたって事だったのかな…。
 
 飛段が「非現実で崇高なもの」として信奉した「ジャシン教」とは、いったい何だったのだろう…  「教え(任務)」として殺戮を求められ、戦いの前には「祈り(意気込み)」を捧げ…そして痛みを残し、痛みを知る。 飛段が崇拝してきた「邪神様の教え」とは、湯隠れの里の「外」の世界で忍達が従っていた「忍世界のルール」と同じようなものだった…とは言えないだろうか。 結局…飛段が従っていた「崇高」なモノとは、飛段が蔑んでいた「忍世界の現実」と似たようなモノだった…
 
「不死」の為に死ぬに死ねず、ずっと痛みを抱えながら生きる事になった飛段は…
肉体的な痛みよりも…相手の周りの人々に残す《心の痛み》の方がよっぽど深くて「痛てェ」って事を、ようやく…何となく分かったんじゃないのかな…。一瞬で終わる肉体的な痛みとは違い、永遠に続く消える事のない《痛み》… 
 彼が最後の最後に知ったのは、戦いの絶えない忍世界に生きる忍達の「本当の現実」と、そこに在る「本当の痛み」…そして痛みを抱えながらも、想いを心に残しながら「懸命に生きていく姿」だったのかもしれません。
 
 「もし」生きているのなら…飛段は今、この忍界をどう思っているのだろう…“暁”のメンバー達の切実な平和への想いをどう思っているだろう。 
そして…故郷の湯隠れの「戦いを知らない穏やかな日々」を、どう思っているんだろうな…

NARUTOの物語」と「我々の現実世界」を重ねて語るのは 正直あまり好きではないのだけど… でも、戦いに溢れた外の世界の「現実」を知らなかった「平和な湯隠れの里」出身の飛段を見ていると…なんとなく他人事に思えないような、なんだか複雑な気持ちになってきます。
 
 
 
湯の国の印…
 
 
あ~ぁ…温泉行きたいなぁ… 
 
 
 
 
 ☆長駄文、読んでくださって感謝…
 
 
 
 
 
(ナルト好きブログ! 2015/01/25)