ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

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六道仙人(大筒木ハゴロモ)について (ハゴロモの「間接話法」と「過程法」について)

六道仙人(大筒木ハゴロモ)についての雑考 
ハゴロモの「間接話法」と「過程法」について)

 
 
 
 

「つーかそれは言いすぎじゃね? 宇宙人って何だよアハハ!」
「つってあんま違わねーか… それと」

 
…ずーっと神秘のベールに包まれていた「六道仙人」こと 大筒木ハゴロモ、職業「忍宗」開祖、年齢不詳…

鬼瓦みたいな形相は「想像以上の神っぽいイカつさ」だったけど、雰囲気は「そこらの爺さん」風。 結局、彼の事は、最後までよく分からなかったけど、分かったのは想像以上に「人間ではないらしい」ということと、想像以上に「人間臭かった」ということぐらいでしょうか。 
 
 
 さて、ナルトとサスケが「終末の谷」に向かった時、ハゴロモは「ただ信じてやるのだ」とか 「今ワシらにはそれしかできぬ」と言っていましたが、そうは言っても、それまでの時間…ハゴロモは「限られた時間」をフルに利用して、出来る限りの布石を打っていたと思うんです。 それもさりげな~い介入の仕方で、こっそり忍達を導きながら…
 
今回は六道仙人の、その「さりげない指導法」ちょっと見ていこうと思います。…
 
 
・直接話法ならぬ「間接話法」

さて、691話でハゴロモはこんな事を言ってましたよね、
 
「…だから言った… よくぞ皆を導いたと」
「お前は迷いながらも ナルト達の師で…オビトの友であり続けた」
 
「でなければ おそらく母は止められなかったであろう」
(カカシに言った言葉)
 
そして、
 
「これこそワシが思い描いたモノ 尾獣達すら己から協力したくなる 
…そういう忍が現れたのだからな」
(ナルトの事を語った言葉)。
 
 
 第七班がカグヤを封印して帰還した時、ハゴロモはこのように「カカシとナルト」を絶賛しますが、同じく活躍したサスケには「特にお褒めや労いの言葉を掛けてない」んですよねぇ。一見するとサスケの事はスルーしたように見えるのですが、でも、上記のナルトやカカシあてのセリフは 実は《サスケに向けて語られた言葉》だったんじゃないかと私は思っています。
 
 
 カカシが皆を「協力」に導いた事、 オビトの「友であり続けた」事を絶賛し、カカシが「迷い続けた事」は問題ではないと語り… そしてナルトが「あの尾獣達でさえ協力に導いた」事を嬉しそうに語る。 《サスケの目の前で》やや大げさにほめることで、ハゴロモは自分の想いを《間接的に》サスケに伝えていたんじゃないだろうか…?
 
 これ、61~62巻でイタチがやった事と全く同じですよね。 イタチも、サスケに《直接的に》語る代わりにカブトに語りかけるという形をとり、《間接的に》自分の想いをサスケに伝えていましたっけ。
 彼らが直接ではなく「間接的に」想いを伝えたのは、《失敗した自分たちが、今さら上から語っても伝わらない 》と考えていたから… 間接的に想いを伝える方法なら、強引に一本道に誘い込む「道標」にはならないですもんね(一応)。
 
 
 
 ミナトも「答えは自分で見つけるんだ」とナルトに言ってたことがありましたけど(47巻で)、答えってのは「上から教えてもらう」もんではなく、自分で考え経験して見つけていくもん…そうすることで本当に理解する事も出来るんだろうな‥と思います。、失敗したり迷ったりする「過程」にも、大切なものがある…ハゴロモもそう考えていたんじゃないだろうか。
 
 
 
・仮定法ならぬ「過程法」
 
 
 
 
 
 
 以前「岸本先生が大切にする過程について()」という記事でも似たような事を書いてるんですが、何事においても「答えに辿り着く過程」って大切だと思うんです。  「考察」とやらも同じことで、たとえば予想するにしても、伏線や言葉から考えて推測の根拠を積み上げていく「過程」こそ面白いんでして、結果として推測が当たる当たらないは重要じゃないと(私は)考えてます(この話も、過去記事:自由に語り場2012春にて)。 イタチの「イザナミ」は、カブトに「自分自身で気づくように」仕向けた術でしたけど、たとえばハゴロモも、ナルトに対してこんな事をしている…
 
 
 ナルトが「カグヤ」について質問した時のことなんですがね… 「カグヤってどっから来たの?」「六道仙人より強い?」という質問に、ハゴロモ「母は強かった…誰よりも」とは答えたものの「どこから来たか」は「どうでもいいこと」と言って答えてないんですよね。うーん、カグヤ達一族がどっから来たのか、私も知りたかったんですけどねぇ~…。
 それに、これも会話中でハゴロモが「さらーっと」語っていた事なんですが、《民の信望厚き女神だった母カグヤが 鬼と呼ばれるように変貌した理由は分からぬが》 《おそらくチャクラの実を喰らった時から何かが始まっていたのだろう》って言ってる部分… 理由については《分からないけど何かがあったんだろう》って…それじゃ、全然答えになってないってばよ(笑)
 
 かぐやはいつ「どこ」から来たのか、「なぜ」神樹の実を食べようとしたのか、そして「なにが」彼女の身に起きたのか…そして彼女は「どのように」変わってしまったのか。 結局、ハゴロモはそれらを語ろうとはしなかった。
 
 なぜ、あの時ナルトの質問に答えなかったのか… 「答え」を教えるのは簡単かもしれないけど、ナルト達が自分で調べていくことで重要な何かを知ることが出来るとハゴロモは考えて、あえて教えなかったんじゃないかな…なんて私は考えてます。 
 もっとも「カグヤの真実」については、699話以降にナルトじゃなくてサスケが担当して調べていたようですが…
 
 
 
 それともう1つ、「カグヤ封印」なんですが…あれは「鈴取り合戦のようなもの」だったと思ってますが、あれもカグヤ封印という「結果」そのものより「そのための過程である協力(チームワーク)」のほうがずーっと大切だったんじゃないかとも思います。
 
 
「見えざる神の手」のようにして、さりげな~く介入し いろいろと「整えていた」ていたハゴロモ
 
 だけど、彼が色々と(こっそり)整えていたのは なにも「ナルトとサスケ」に関してだけじゃないハズで、今までずーっと長い間いろんな形で色んな事柄にコッソリ関わっていたと思うんです(こっそりと)。だからって「全て」が計画通り順調に進んだとは思えない… 予期せぬハプニングだってハゴロモは当然「ある」と考えていたと思うんです。 そもそも、息子インドラが「アシュラに協力しない」事態を予想せず失敗した経験がありますから、長い間にはシナリオがあっちこっちで曲がりくねってしまう事だって、ハゴロモはちゃんと計算してたと思うんです。
 
 曲がってもいいように‥いや、「曲がったほうがいい」とさえ考えてたんじゃないのかな? で…そこで思うのが、あの「うちはの石碑」なんです。
 
 
 あの石碑を残した理由について、ハゴロモ「マダラのよう輩を止める為に、考えを改める導きを書き残した」と説明していましたが、本当にそういう理由だったのかちょいと疑わしいと思っています。  
 そもそも、かつて「強制的に一本道に導く」指導法で《失敗した》と言っていたハゴロモが、再び石碑という道案内で「強制的に一本道に導こうとした」とは 考えにくいと思っちゃうんですよね。 それに、あんな「道案内」を残せば、いつか黒ゼツのような輩が現れて「書きかえてしまう可能性」だってある… 
 
 なのに、ハゴロモはあえて「道案内である石碑」を残した。
 
もしかしたら、ハゴロモは「あの石碑に書かれたとおりに実行してもらう事」など、最初っから望んでいなかったのかもしれない。 
 石碑を残した本当の目的が「嘘と真実を見抜き、自分自身で答えを出させる事」だったとしたら……大切なのは碑に示された「正解」じゃなくって「自分で考えていく事」なのだとしたら……後世に何者かが石碑文を書き換えたとしても、別に「かまわなかった」のかもしれない。
 
 昔、カカシが鈴取り合戦で言っていた「オレの言った通りにしかしないボンクラは忍者失格」って話…アレは石碑にも言えることであって、石碑に書いてある通りにしか行動できないのは「失格」で、何が書かれていようが「自分の眼で何が大切なのか考える」って事が重要だったんじゃないのかな。
 
 おそらく、イタチは幼い頃から「石碑の嘘」や「仙人の意図」に気づいていたんじゃないかと思うんですが…それでサスケに何度も「石碑を読むように」言ったうえで「お前はどこまで見えている」と尋ねたり「その現実は幻かもしれない」なんて繰り返していたの「かも」しれない(「かも」って話ですがね…)
 
 
ハゴロモがボソッと言っていた「今は色々と条件が整った」というアレがずーっと気になってたんですが… ハゴロモを見ていると、母復活やら黒の画策を逆に利用して「真実を見る眼」を育てたり「ナルトとサスケの協力(チームワーク)」を体験させたり…うまくそれらを自分のシナリオに取り込んでいるようにさえ思えます。
 そして、自らが用意したシナリオが、演じ手によって どう転び、どう染まっていっても、その都度(たまに)ちょっとした「整え」をするぐらいで、あとは おおらかに推移を見守っていた… どんなハプニングが起こって横道にそれようが、それでもいつかきっと、自力で辿り着くとハゴロモは信じていたのかな…(その分、予想以上に時間がかかってしまい、九喇嘛に「長すぎなんだよ」と言われてしまったんだろうけれど)。 ハゴロモの言う《今は色々と条件が整った》というのも、そういう事だったんだろうか。
 
 
 
 誰よりも大局的に物事を見据え、誰よりも(いい意味で)したたかで、ちゃっかりで…そして柔軟でしなやかで。 「失敗」や「捏造」で遠回りになる事さえ想定の上で、長い長い忍達の曲がりくねった道をじーっと見守っていたのなら、ハゴロモほど「耐え忍んでいた」人はいないかもしれない。 それほどの「忍耐」を可能にしたのは「想いの強さ」…子供達(忍達)への愛情の深さがあってのことでしょうか。
 
 
 
 どーんと子供達を信じて「待つ」器の大きさは 父ちゃんっぽい愛情に思えるし(ミナトが言っていた「父親だから」的な)、それでも心配でこっそり「整えて」見守り続けるところは 母ちゃんぽい愛情に思える(クシナが言っていた「母親だから」的な)。 そういうところが、さすがは大物な「神っぽいイカつい風格」と、どこか親しみを感じる「そこらの爺さん風(人間臭さ)」両方を感じる理由なのかもしれない。 結局、最後の最後までよく分からなかったけど、「すっげー愛情深い人」だってことだけは 分かったような気もする。
 
 
 
 
…「人」じゃないかもしれないけれど(ボソッ)
 
 
 
 
 
 
 
 
☆長駄文、読んでくださって感謝。
 
 
 
(ナルト好きブログ! 2015/02/26)