ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

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NARUTO-ナルト-外伝 ~満ちた月が照らす道~ (ジャンプ21・22合併号)感想、 その1

NARUTO-ナルト-外伝 ~満ちた月が照らす道~ (その1)

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「ボクは・・・」
「誰だ?」


 これを見た時、(え、またカブトと同じパターンか? 懲りてないのか大蛇丸!)と・・・61巻の《カブトが水面に写った自分の顔を眺めながら「これは・・誰だ?」とつぶやいていたシーン》を思い出してしまいました。だけど、どうやら今回は、そういう事ではなかったようで。


《己の道は 巳(へび)の道-----》


 さて、お久しぶりです!  待ちに待った、久々の岸本先生の漫画… だけど、先生が「NARUTO」を描かれるのは、これが最後なのかな・・とちょっと不安でもあります。
 今回は木ノ葉丸班の謎の少年にして“大蛇丸の子供”でもある「ミツキ」のお話です。 前回の外伝の主役サラダ、映画の主役ボルトと続いて、今回のミツキ外伝で「次世代三忍」の紹介は終わり、次回からはいよいよ月一連載の、これまた次世代の作者陣による《BORUTO》へとつながれていくんですねぇ・・・・

 で、今回の外伝ですが、読みきりという限られたページ数なので、さらっとミツキの紹介だけで《次回からのBORUTOでお楽しみに!》で終わるのかと思っていましたが、そこは岸本先生・・・ストーリーは「シンプル」ですが、岸本作品らしいエッセンスが凝縮されていました。
 たとえば、《オープニングとエンディングの凝った対比描写》は先生らしい「こだわりの演出」がたっぷりだし、そして中身の部分は当然ながら「ミツキの話」なんですが、「過去のNARUTO-ナルト-の話」を彷彿とさせるものもあって、それからは「大蛇丸自身がいかに変わったのか」そして「大蛇丸が今何を考えているのか」を感じることができました。

 「大蛇丸」・・・やはり「変化」していましたねぇ。 変化といっても、「さらに美しくなった」とか「おだんごヘア似合いすぎ」とか「ますます性別不明になった」とかではなく(それもあるけど)、考え方が・・・やはり《第四次忍界大戦》と《イタチ・サスケ兄弟との関わり》が彼を大きく変えたのだと思いました。

 前回の「外伝~七代目火影と緋色の花つ月」にも大蛇丸は登場していましたが、あの時は「相変わらず怪しい実験をしている」様子だったし、「クローン生産を否定しない」とか、「自分が利用した実験体を放置している」など、まだ問題点だらけに見えました。 大蛇丸は「自分がしてきたこと」をどう考えているんだろうか、それらに対する「ケジメ」をつけるつもりがあるんだろうかと・・・ サクラにも言われてましたよね「モラル欠如のヘビ野郎」って(一応、サクラとは子供どうしがアカデミー同級生で“ママ友”的立場だけど)。 いまだに世間のイメージは「ああいう感じ」だし、外から見た大蛇丸は「変わっていない」ように見えました。 でも、実際は本当のところはどうなんだろう・・・

そして、今回の話はその疑問に対する「答え」でもありました。 


ま、大蛇丸については「後半でじっくり」語るとしまして、まずは「オープニングの演出」から見ていくことにいたしましょう。


《闇の塒(ねぐら)から、物語は始まるー―――》


 「塒(ねぐら)」とか「坏(つき)」とか、今回は見慣れない漢字が出てきますが、今回は「月」と「坏(つき)」という漢字が重ねられ、キーワードのように出てきます。 その「重ね方」が実に美しい…そして、冒頭の「闇の塒」と夜空の逆三日月を見上げる角度の絵も、美しい… 



・オープニングとエンディングの「対比」描写と、「重ねていく」場面転換

 オープニングは、このように進みます・・《欠けた月→月に写るミツキの閉じた目→目覚めて開いたミツキのまるい目→空っぽな坏(つき=小さなまるい湯呑のような器)のまるい底》・・・次々と重ねるように場面は転換していきます。 「重ねてつなげていく」場面転換は、岸本先生お得意の演出法の1つですよね。
 
 たとえば、今回の「まるいミツキの目」から「まるい坏の底」への場面転換は、54巻511話の「光が差し込む小南達の家の屋根に開いた穴」から「闇しか見えない仮面の穴」への場面展開を思い出します(これは「希望と絶望」の対比のようで、とても印象に残るものでした)。 今回は「月」と「ミツキ」と「坏(つき)」が重ねられ、「3つのツキ」(ミツキ?)が並んでいるんですね。

 そのオープニングと「対」になっているエンディングですが、こっちは《ミツキのしっかりの開いた眼→闇夜を明るく照らす満たされた月、満月(ミツキ)→「ボクの本当の名は―ー巳月(ミツキ)」のセリフ》と語る場面で終わっています。これも「ツキ」つながりで重なっていきますが、 エンディングのほうは欠けた月(坏)ではなくて、満たされた月(坏=器)。 

 そして、このオープニングとエンディングには今回の「ミツキの話」が集約されているんですよね。 ミツキは「自分の器(坏=つき)」を記憶消去という強引な手段で空っぽにされても、自分自身で自分の器(坏)を満たし、自分の名前「巳月(ミツキ)」を選び、夜空を明るく照らす満月(満たされた月)の道を選ぶのですから・・


 はじまりに登場する「空っぽな坏」(空っぽな器=記憶を抜かれたミツキ)を、大蛇丸が怪しい液体で満たそうとしていき、それを取ったミツキは坏を落として割ってしまいます(坏は「欠けた坏」・・オープニングの逆三日月のようになってしまう)。 こんな描写を見ると、「大蛇丸、お前・まだこんな事やってるのか!」と思ってしまうのですが、今回は違った・・ 大蛇丸はミツキが「第二、第三のカブト」にならないようにと願い、「試験」のようなものを課そうとしていたのですね。
 ミツキをわざと空っぽ状態にして、かつてのカブトのような状態にして・・ミツキがどのような道を選ぶかを試すための「極秘任務」のはじまりでした。



大蛇丸の「ことば」の戦術

 
「アナタは私にとって特別なの」
「さっきも言ったはずよ・・特別だって」

「私はアナタが愛おしい・・」
「あなた達は私が愛してやまない完全無欠の子供よ」


大蛇丸は「特別」や「愛」という言葉をふんだんに与えていきます。 53巻で、クシナやミトが「人柱力」になる前に《その「器」にミナトや柱間が「愛」を注いでくれた》という話が出てきましたが、大蛇丸はまずはミツキの空っぽな坏(器)に、最初に「愛」を注いでいくんですね。そして「自分は何者であるか」の答えも「親子である」としっかりと伝えていく・・ 

「私が大蛇丸 そしてアナタの親」
「アナタはこの私の子供なのよ」
「これは私達親子の問題」

ここまでは、ミツキに大切なものをまず授けているように見えます。
そして、賢いミツキは注ぎ込まれるだけではなく「なぜ」「どうして」「どうやって」と次々と「質問」をしていきます。

「・・ボクはどうしてベッドに?」
「記憶を取り戻すって・・どうやって?」
「何でこんな弱いボクなんかを連れてそんな任務に・・?」


「どうして、どうやって、何で」・・・ そういえば、61巻のカブトの回想にも、真っ白状態になったカブトが次々と大蛇丸に質問を浴びせ、大蛇丸が「アナタ・・知りたいことがどんどん増えるわね それはいいことよ」と言って「答え」を示してやっていましたね。 あれは「答え」を餌のように与えて「手懐け」、大蛇丸は答えを「教えてやる側」として絶対的な立場になっていったのです。 その結果、カブトは大蛇丸を崇拝し、大蛇丸に依存するようになってしまった・・・

「なぜ、どうして」の質問には、すぐに「答え」を与えてやる・・・これだと、子供は「教えられた通り」を正しいと信じ込み、もはや「自分自身で判断したり調べたりしなくなる」。 ようするに、これは「洗脳への第一歩」なんですよね。

大蛇丸は、カブトの時と同じように質問に「答え」を示していきます。

ここから先はカブトと同じようにして、ミツキが「カブトと同じような道をたどらないか」試していったのでしょうか。

そして、途中でミツキは「ちょっと待って」「なら・・」「その前回の任務ってのでボクとアナタがその男と接触したのは 何の為?」と質問し、大蛇丸は「・・・・」と満足そうな表情を浮かべています。 期待通りの「賢さ」を見出し、冷静な質問に手ごたえを感じたのでしょうか。 賢く、強く、美しい子(これ大事)が、彼のお気に入り・・・

 しかし、ミツキが「でも・・」という言葉を発した時には、大蛇丸はすぐに険しい表情になって、

「子供のアナタは私の言う事だけ聞いてればいいの」

と《威圧》し、「反発する言葉」は絶対に許さないんですね。


 「知りたい」に対しては答えを授け、「でも」は許さない・・・

こうやって大蛇丸は、飴と鞭を使い分けて「子供達を手懐け洗脳してきた」のだろうと推測できます(君麻呂に対してもこんな感じにしたのかな・・)。 実に汚いけど、実に見事な戦術ではありますよね。 かつて“根”や孤児院の子供達を観察して、そこに居る子供達の「認められたい願望」や「もっと知りたい願望」を分かっていたからこそ・・彼はそれらを利用することが出来たんだろうと思います。

《ボクはただ・・ 自分が何者か知りたいだけなんだ・・》

・・・大蛇丸の「言葉の戦術」によって、この時点でミツキは「かつてのカブト」に近い状態にされています。 大蛇丸が「試したかった」のは、こういう状態になった後、その先のことなのでしょう。 

しかし、このあとミツキは・・



大蛇丸が仕掛けた「ミズキならぬミツキへの極秘任務」


 このあと、ミツキは「衝撃的な己の真実」(ミツキは大蛇丸によって造られた人造人間であること)を知らされることになるのですが・・・これについては「やはりそうだったか」という感じではありますね。 前回の外伝では「クローン」の話が出てきたし、それに大蛇丸がノーマルな方法で子供をつくったとは考えにくかったし・・・  それに、ミツキに「仙人の力」があることについても、大蛇丸があれだけ「仙人研究」に熱心なことからも納得できます。 


そして、このあとの「任務(記憶を取り戻しに行く任務)」が「第1巻の第1話」にそっくりなのです。

 第1巻第1話は、《ナルトが「九尾の人柱力」であることをミズキによって伝えられ》、そして《ナルトが奪った重要な巻物の中には、ナルトにとって将来大切になるモノ(多重影分身)があった》・・・さらに《この事件をキッカケとして、ナルトは本来の力を発揮する》。
 今回の話は、《ミツキが「人造人間」であることを大人ミツキによって伝えられ、ミツキが奪った重要な巻物には、ミツキにとって大切になるモノ(ボルトの写真)があった・・・さらにこの任務をキッカケとして、ミツキは本来の力を発揮する・・》

・・・とまぁ、ほとんど同じなんですよね。

 なんだかなぁ・・私は常々、あの第1話のいきさつは「ナルトにいずれは真実を伝えなければならないと思っていた三代目が、ミズキに与えた極秘任務だった」疑惑を持っているのですが、やっぱり(ちょっと)そんな気がしてきたなぁ・・・

 今回は、大蛇丸が「大人ミツキ」に頼んで仕組んだ芝居だったわけですが、大蛇丸「ナルトの第一話の事件」を参考にして、同じようなシナリオを仕掛けたんじゃないかと思ってしまいました。 なぜなら・・大蛇丸は「自分自身を見失ってしまった優秀な忍達」の失敗例を数多く見てきましたし、だからこそミツキにはそうなってほしくなかったわけで・・それで《過酷な真実を知っても自分を見失ずにいられたナルト》を参考にしようとしたんじゃないだろうか。 それで、ナルトと同じような試練を与えて、ミツキがどう乗り越えるかを見ようとしたんじゃないだろうか・・なんて思ってしまいます。(大蛇丸はそのあたりの情報には詳しいでしょうから)

しかも、大蛇丸はその状況下で、ミツキに「究極の二択」を迫ります。 そしてこれは・・第2巻の「鈴取り合戦」にも似ているんです。


・究極の二択の中での三択法

以前ご紹介した「岸本先生の三択法」について、当時の記事をそのままちょっと引用しますと・・

(ファンブック「皆の書」で岸本先生とHUNTER×HUNTERの冨樫先生の対談があるんですが、読まれたでしょうか・・そこで興味深い話があるのでご紹介します。岸本先生の考案された演出法「三択法」の話がでているのです。三択法とは「AかB」という選択肢を読者に提示しておいて、それとは別の選択・結末を与えることで読者に驚きを与えるのだそうです・・ 479話感想より)

 2つしか選択肢を与えられていない時に示す「第三の答え」ということなんですが、ようするに「意外性の答え」ってことなんですよね。 規制や枠にとらわれず、己の信念で判断できるかという事でもあります。 これはかつての「サクモの選択」であり、カカシがナルト達第七班に「鈴取り合戦」として課したテストでもあります。 大蛇丸は、これも導入している。

大蛇丸が与えた二択は大蛇丸に「自分の存在」を認めてもらって、大蛇丸に「巳坏」の名をもらい、大蛇丸に従い依存する》(カブトが選んだ選択肢)か、あるいは《ミツキという存在も名前も、すべてを否定する(オビトが選んだ選択肢)か・・

 だけど、ミツキはどちらも拒否し、


「子供の・・ボクにとって・・」

「そんなの・・どっちでもいい事なんだよ」

「アンタ達大人の言ってる事なんてね ボクの事はボク自身が決める!」


・・と「3つめの答え」を自分で選択するのです(そしてついに、仙人化する)。

 さらに、最後には与えられた「巳坏」という名前ではなく「巳月」なのだと自分で自分の名前を決め、自分で自分の道を選んだのです。 

 これこそ「大蛇丸が望んだ結果」・・まさに《ごーかっく♡》だったのです(そしてミツキは巻物の中に「ボルト」の写真を見て微笑む)。 
 ミズキならぬミツキによる巻物作戦と、鈴取り合戦(もどき)の2つを、ミツキは見事にクリアしてみせたのです。 やっと…六度目にして(※すみません、ここんとこ前にあげた文、間違えてたので訂正してます)


 もちろん大蛇丸は、ミツキを仙人化させることが重要だったにしても、それ以上に自分自身で自分のことを決められ、確固たる自分を持つ忍・・どんな過酷な状況においても「自分」を見失わない忍になってほしいと願ったんじゃないだろうか。そうでなければ、仙人への道も難しい・・カブトの失敗例を見て、大蛇丸は思うところがあったと思うんです。

大蛇丸が「わざわざ何度もこんな面倒な手間をかけている」ということは、あれでも「かつてやってきたこと」が誤りだったと認め、「かつての実験体や子供たちにしてきたことに対する責任」のようなものを彼なりに感じているのではとも思います。 責任というよりは、これは彼なりの「愛情表現」なのかもしれません。

 その一方で、大蛇丸は「己のライフワーク」ともいえる「種の研究」や「仙人・仙術研究」、そして「理想の種の実現」は諦めていないらしい。 論議を呼びそうな「それに伴う人体実験」やら倫理上問題がありそうな操作も止めてはいないんですよね。 
 だけど、かつてのように無責任に実験体を放り出したり、使い捨てにはしていないんじゃないだろうか・・ということも、今回のことから伝わってきます。  彼らに愛情を注ぎ、愛情をちゃんと伝え、彼らが自分を見失わず「自分自身を認めてやれるよう」に手助けしたいとは考えるようになったんじゃないだろうか。いちおうカブトにしてしまったことへの反省はあるんじゃないかと(思える)・・

大蛇丸はミツキ(達)にも、愛情をちゃんと「言葉で伝えている」・・・

《どんな工程で生まれて来たにせよ あなた達は他と何も変わらない》 
《人が唯一何をしても許されるべきことがあるとするなら・・それは愛のための行為》・・

大蛇丸がもし「愛」を語っても、以前は「嘘」にしか聞こえませんでした。 しかし、今の大蛇丸の言葉に「嘘」は感じられないんです(たとえ作戦上で述べた言葉であったにせよ)。 
 「愛」は言葉でちゃんと伝えるべきであり、それが本当の愛なら「伝わる」ことを、大蛇丸は「イタチ」から学んだんじゃないだろうか。  なにせ、大蛇丸は・・イタチがサスケに「愛している」の言葉を遺したのを、唯一立ち会って見ていた(聞いた)人物なのですから・・・


 今回の大蛇丸を見て思ったのは、やはり「イタチ」が大蛇丸に与えた影響は想像以上に大きかったのではないか、ということでした。



 (大蛇丸とイタチのこと・・そしてミツキのこと、これらについてはもっと書きたいのですが、長文になってきたので(そして時間切れ)感想後半で書かせていただきたいと思います)。 





☆コメント欄は、感想の最後に開けますので、よろしくお願いします。
(今回は読みきりなので、焦らずってことで・・)