ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

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NARUTO-ナルト- 第568話:四尾・仙猿の王 今週のジャンプ・ナルト感想 その2 (WJ05/06 合併号)

NARUTO568:四尾・仙猿の王 (その2)

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『こいつ…』
『本気で言ってやがる・・・』
 
このナルト、九尾と友達になりてェ~(八尾とビーの事がむっちゃ羨ましい)と言ってるナルトなんですが、四尾はナルトの眼を見て《本気で言ってやがる…》と感じ取ってる。
 
いやぁ~NARUTOキャラの眼ってのは実に雄弁です。眼だけで真実を語れてしまう。本来眼に見えないはずの本心ってもんが、眼には表れちゃうんですよね(わかりづらい表現すみません)。感知系じゃない我々読者にもナルトの眼には「嘘が無い」ってことは感じ取れる・・・。
 
(すみません、雑考その1の続きです。)
 
4.九尾の「名前」
 
(さて四尾に飲み込まれちゃったナルト、精神世界の四尾に遭遇して 四尾は《水簾洞の美猿王 六道仙人より孫の法号を与えられし仙猿の王・孫悟空 斉天大聖》であることを知る・・・)
 
いやぁ驚きました、四尾は「仙猿」なんですね。
 
ってことは、仙蝦蟇の住む妙木山だけじゃなくて《仙猿の住む花果山》ってのもありそうですね~こりゃ。 
ならばヒルゼンの口寄せ・猿侯王・猿魔も仙猿なんだろうし、この調子じゃカカシの忍犬達が住む「仙犬の山」ってのも、ホントにあるかもしれない・・・。
 
同じ西遊記ネタと言えば56巻で六道仙人の5つの宝具(幌金縄、七星剣、紅葫蘆、芭蕉扇、浄瓶)ってのも出てましたけど、あれも花果山絡みの宝具なのかな。だとしたら、七人衆の忍刀ってのもどこかの「仙人の里」絡みの宝具だったりするのかも・・・ それはさておき。
 
気になるのは、四尾が「六道仙人から法号を与えられた」って言ってることなんです。
 
ってことは、尾獣達は《崇高な者》として六道仙人から高い地位、尊称を与えられてるってことですよね。尾獣達は、六道仙人によって「危険物扱いされて分散させられた」わけじゃあない・・・いや、それどころか彼等は仙人の意思を託されるわけだし、人間たちを見守る役割だったんじゃないだろうか。やはり、尾獣ってのは本来きわめて純粋で神に近い存在なんじゃないだろうか・・・
 
そしてもちろん、「十尾」も。
 
 
《お前の中にも居るな・・・ だからここへ入れたのか ・・・ 九喇嘛(クラマ)は人柱力の仕付け(躾の間違いかなぁ)がいいと見える・・》 (四尾)
 
「え!?」
「九尾にも名前あったの!!?」 (ナルト)
 
「チィ・・・」 (九尾
 
「そっか・・・ クラマってんだ・・・」
 
ニカーッと笑って嬉しそうなナルトに対して、チィ・・と目を瞑ってしまった九尾。 九尾の名前、「九喇嘛」だったんですね~(というか、尾獣に名前があるなんて思わなかったなぁ)。
 
でもなぜ、九尾は「チィ・・・」と言ったんだろうか?
 
 
5.九尾の「チィ・・・」
 
ちなみに「九喇嘛」という名前ですが、参考までに由来と思われるものを挙げてみますと・・・
 
《鞍馬(クラマ)天狗》と《ラマ(喇嘛)=チベット語で聖人》を掛けてるような気がします。
鞍馬天狗は鼻がとがった大天狗の1つだし(完全体須佐能乎のような天狗)、喇嘛っていうのはチベット仏教における「化身ラマ」(転生ラマとも言う)のもあって「この世の衆生を教え導くために如来、菩薩、過去の偉大な仏道修行者の化身(応身)としてこの世に姿を現した存在」という意味らしいんです(例によってウィキ知識ですけどw他にもあったら、教えてくださいな。)
 
実に崇高な名前を六道仙人からもらってるんですね、九尾は。 
 
仙人が尾獣達を創って「名前」を与えたのは、彼等の「存在」を受け入れ認めた、って証拠だと思うんです。彼等は誇らしい名前をもらって、嬉しかったんじゃないかなぁ・・・・・。名前ってのは、《自分たちがこの世に存在していいんだ》っていう証拠。だから、彼等は名前をとっても大切にしてるんだと思うんです。
 
そして、九尾が《自分だけは人間に簡単に尻尾を振ったりはしねェ》と慎重な態度を崩さず そしてプライドが高いのは、自分は六道仙人の意思を預かっているという「責任感」からなのかもしれない。 
 
九尾がナルトに本名を知られて「チィ・・」と言ったのは、知られちゃったら照れ臭いって訳じゃあないと思うんですよね。憎い人間共に、自分の《大切で誇らしい名前》を易々と呼ばれたく無かったんじゃないかって思うんです。九尾にとって六道仙人から与えられた九喇嘛の名前は「唯一の誇り」・・・
自分を傷つけ、縛り上げ「九尾」と呼び、ただの「力」・・・つまりただの「道具」としか見なさない人間共に 自分の“誇り”を穢されたくないんじゃないだろうか。
 
四尾は『お前ら人間は オレ達をただの力としてみてねェ・・・ だから名前すら知らねェし 知ろうともしねェ・・・』
『オレ達を閉じ込め、存在を否定する』・・・と言う。
 
「鎖」で縛り上げられ、唯一の誇りであった名前すら否定され・・・・己の存在を否定されてきた尾獣達。
人間共の酷い扱い(裏切り)に、九尾は自分が《あの誇り高い九喇嘛だった》ことを思い出すのも辛かったんじゃないだろうか・・・。まさに「九尾と好きに呼べばいい」、もはや自分は誰でもいい、誰でもいたくない・・・という気持ちになっていたんじゃないかと思うんです。
 
(名前と言うと思い出すのは鬼鮫なんですよね。鬼鮫は「仲間殺し」という汚名を背負い、己の存在価値ってものに悩み続けていた・・・・それでも会う人に必ず「干柿鬼鮫、以後お見知りおきを」と名乗っていた彼。どんな思いで鬼鮫が名乗っていたのか考えると・・・心が痛みます。ガイ先生~)。
 
「オレも少しだけど お前の気持は分かんよ オレはよくいたずらやった ・・・叱られたくて」 (ナルト)
 
イタズラすることで自分の存在を証明しようとしていたナルト。尾獣が暴れてしまうのも、否定された自分の存在を示したかっただけなんだって・・・ナルトは尾獣の悲しみを少し分かってやれただろうか。
孫悟空は「ハァ?」と言ってるけど、自分たちの暴走を「イタズラ」と同列扱いされてピンとこなかった、ってのもあるだろうけど・・・・それ以上に『自分たちの気持ちをわかろうとする人間がいる」ってことが「ハァ?」だったのかもしれない。
 
 
6.大切な形見
 
『・・・オレは人柱力だ・・・』
『けどちゃんと大切なナルトって名前がある 両親と師匠の形見だ』
 
『だから・・・』
『自分を誰でもいいなんて言うあんな奴が… お前らを言いなりにさせてんのが ガマンならねーんだ!』
 
トビが言っていた「トビ・・マダラ・・・好きに呼べ」 「オレは誰でもない、誰でもいたくないのさ」という言葉。
これは九尾・・・尾獣達の言葉を代弁したものだったんじゃないだろうか、と私は思うんですよね・・・。(そして、今までの忍達の心の声でもあるわけだけど)。
名すら捨て、己の存在を否定され続けた忍達と 尾獣達。 トビは彼らの心の叫びを演じて見せたんじゃないだろうか、と思うんです。(仮面をかぶってるって時点で、彼は本心を隠して演じてますからね;)
 
そして「お前は誰だ」「お前の名前は何だ」ってことにこだわって本気で怒ってきたナルトに、トビは「希望」を確信して、「骨が折れる」課題を与えてるんじゃないか・・・と思えてならないんですよね・・。 
(なぜなら・・・「誰でもいたくない発言」に反応してナルトが怒った時の、564話のトビのこの表情・・・・嬉しそうに見えないですか・・?見えないかなぁw↓)
 
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そして今回、一番ドキッとさせられたのが
 
『けどちゃんと大切なナルトって名前がある 両親と師匠の形見だ』ってナルトの言葉です。
 
名前は、大切な形見・・・そうなんですよね、ナルトは自分の名前に込められた愛情を知って、自分の存在を肯定することが出来た。名前ってのは、親が子供に与えられる《最大のプレゼント》なんですよね。
 
「形あるものはいつかは朽ちる・・・」 けれど、大切な想いは朽ちない。
 
親ってのは、子供より先に逝くことが多いわけだけれど・・・一体、親ってのは子供に何を遺してやれるんだろう?
お金とか家とか、記念品とか・・・そんなモノは、いつかは朽ちたり消えてしまうかもしれない。
だけど、名前ってのは絶対に朽ちない。生涯ずーっと子供と共に在るし、無くならないモノ・・・それが「名前」。
《こういう人になって欲しい》っていう両親の想いがギッシリと詰ってる、一生に一度の最高のプレゼントなんです。
 
木ノ葉丸が自分の名前を誇りにしていて、ナルトに「お孫様」じゃなくて「木ノ葉丸」と呼んでもらって喜んでいたことがありましたよね。それも木ノ葉丸の名前が「じいちゃんが里の名前にあやかってつけてくれた」大切な自分の存在証明だからだった。 そしてナルトって名前にも、我愛羅って名前の中にも・・・・両親の愛情と両親の「真実の姿」があるんですよね。
それを考えると・・・・「あの事実」はますます見逃せなくなってくるんです・・・
 
《サスケの両親・フガクとミコトが、猿飛サスケのような立派な忍になって欲しいと願って「サスケ」の名前を与えた》事実・・・・これは何よりも明確に「フガクとミコトの真実の姿」を語っているんじゃないだろうか。
 
25巻でフガクがヒルゼンのことを「火影様」という尊敬をこめて表現した事実・・・これも見逃しちゃいけない「真実」だと思います。一族の長の真実がそうなのだとしたら、「うちはのクーデター」そのものも真実では無いんじゃないか・・・? そして「うちは事件」そのものも、実は一族単位で仕組まれた大芝居なんじゃないか?という疑いが更に強くなった気がします。
 
58巻の穢土転生イタチの言動見てると、何だかなぁ~・・・イタチが「うちは一族」に誇りを持ってるってのがよ~く伝わってきて「意外」に思ったんです。もし一族が里を裏切るような行為を本当にしていたのなら、イタチがあんなに一族に誇りを持っているハズがない。逆にイタチが一族を「誇り」に思う理由ってものが、必ず存在すると思うんです。
もしかしたら、うちは一族は「仙人の本当の意思」を理解し、平和のシナリオの為に時間をかけて大芝居をうってる可能性だってあるんじゃないだろうか・・・・知らないのは一族が希望を託したサスケだけ、って事もあり得るかもしれない。
 
もしフガクとミコトが「本当の自分たちの姿」を欺き、幼い息子を残さなければならないとしたら・・・・
彼等は自分たちの本当の想いを《こっそりと》サスケって名前に託し、息子に遺した・・・ってことはないだろうか。
立派な忍者であり、当時の「火影」の父親であった猿飛サスケの名前をつけたってこと・・・フガクとミコトは、形見」になる名前だけには嘘をつけなかったのかもしれません。
 
 
どんな幻術のなかでも惑わされないモノ・・・それは「両親の形見である大切な名前」なのかも。
 
 
さて・・・今回は「名前と存在意義」でしたが、この調子だとナルトは順番に「1つ1つの課題をクリアしながら」全ての尾獣を縛りから解放していけそうですね(九尾は最後かも)。これも全て「トビのシナリオ」だろうと私は思ってるんですけどね~・・。
彼が仮面を自分でひっぺがすのは、ナルトが全部の尾獣を解放した時だろうか・・・その時、彼は自分の仕事が終わったと思えるの「かも」しれません・・・。
 
 
☆四尾は比較的アッサリとナルトに心を許しましたね;それは彼が「孫悟空」って名前をまだ大切にしてたし、九尾ほどの憎しみを抱えてなかったからなのかも。
(九尾が一番難易度高しなのでは・・・)。老紫とも、それほど険悪じゃなかったのかな。
 
☆四尾、さすがに「悟空と呼べ」とは言わなかったですね;「孫」かぁw
 
☆四尾を縛ってるチャクラ鎖もトビの縛りに因るものかなぁ。
  
☆四尾の鎖どうやって解くんだろう。チャクラの鎖を解くならチャクラで解かないとダメだろうし・・・
 
☆すみません、思いついたら今日のお題で雑考追加していきます。
 
☆皆さんはご自分の名前の由来を聞いたことはありますか・・・・?
 
 
 
長駄文、読んでくださって有難うございます。今年もマイペースにやってまいりますが よろしくお願いいたします。