ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

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NARUTO-ナルト- 652:ナルトの轍(わだち) 今週のジャンプ・ナルト感想 (WJ48号) その1

 

NARUTO 652:ナルトの轍 その1

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〝夢〟の在り処、〝忍〟の在り方を懸け、今…!!!
 
 
NARUTO連載14周年記念の表紙《歩んできた戦いの軌跡!!》。
「かつての」ナルト、サスケ、サクラと「今の」ナルト、サスケ、サクラ。
「今のサスケ」がまだ笑ってないのは気になるけど…あれからもう14年経つのですね。連載開始当初から読んでいる方が羨ましい…。
 
「軌跡」といえば、今週のタイトル「轍(わだち)」も軌跡といった感じの意味ですよね。轍とは車輪が残した“輪”の跡のことですが、ナルトが歩んだ後には不思議と“輪”が残る。
人と人の輪が繋がって、それが大きくなって、振り返ってみたら大勢の人達の輪が一緒に居る…それがナルトの「轍」。岸本先生のこういう言葉の使い方、私は好きです。
 
さて今週の扉絵なのですが(上の模写)、“十尾人柱力”オビトを中央にして左右に2組の《運命に選ばれた者たち》が並ぶ… 
 
肉体エネルギーを預かる「陽」の柱間とナルト(背景は「うずまき」家紋)、
そして精神エネルギーを預かる「陰」のマダラとサスケ(背景は「うちは」の家紋)。
柱間とマダラはまだ「対立の印」を組み、向かい合って戦っている姿ですが、ナルトとサスケは…「背中合わせの共闘姿」と私は受け取りました。「次に運命に選ばれた2人」であるナルトとサスケは、先の2人とは異なって「一緒に闘う」道を選択した…。この2組のことを「運命に選ばれた2人」と言ったのは十尾の「代理人」とも言えそうなオビト、結局は彼がこの2組を(結果的に)引き合わせ、そして「ぶつけた」とも言えるんじゃないだろうか…この扉絵はそんな事を語ってるようにも見えるのです。
 
《さて、貫かれたオビトですが…ナルトの中の尾獣たちのチャクラに呼応して、オビトの中の尾獣たちのチャクラが引きずり出される…》
 
「思った通りだ!お前がもらってた尾獣共のチャクラに呼応して一撃で奴から尾獣チャクラを引っ張り出せたぞ!」 (九喇嘛)
「だな!」 (ナルト)
 
(あの時尾獣共に気に入られチャクラをもらってなきゃできなかった芸当だ …ナルトお前って奴はホントによ…!) (九喇嘛)
 
以前から出ていた《チャクラはチャクラでしか掴めない》、《チャクラの綱引き》の話は、ここへ繋がりましたか・・! 一気に尾獣チャクラを引き出して「尾獣達を助け出し」、そして「術者を止める(神樹の動きを止める)」。
 
そういえば、前にナルトはイタチの問いに《木ノ葉は守る!そんでもってサスケも殺さず止める!》と答え、“甘い、お前の話は絵空事だ”とイタチに言われてましたけど、今回は「尾獣の救出」と「術者を止める」の両方を、ナルトは一度にやってのけてるんですね。で、それを可能にしたのは「ナルトの圧倒的な強さ」とかではなくって、「尾獣共に気に入られたから」というナルトらしい理由。
つまり、ナルトが尾獣達の事を知り、尾獣達と分かり合ったからこそ「絵空事が現実となった」わけでして、九喇嘛に《ナルトならではの芸当》と言わせるだけのことはある!と思うんです。
 
従来の忍世界の発想でいえば、ナルトの《木ノ葉は守る!そんでもってサスケも殺さず止める!》だとか《サスケは何とかしてみせるし、戦争だってどうにかしてみせる、そしていつか九喇嘛の中の憎しみもどうにかしてやりてー》なんて夢は絵空事(非現実)でしかないのかもしれません。なんたって、それまでの忍世界の“常識”では、力は力で、憎しみは憎しみで征するしかなかったのだから…。
 
だけどナルトは「(本来敵である相手と)仲良くなること」で道を拓いていく…
力に対しても愛で答え、憎しみに対しても愛で向き合う。そこから導き出されるのは従来の“常識”だけでは出せない答えであって、その発想こそ新しい忍の在り方、新しい平和な世界の創り方なんじゃないかと思うんです。まさにナルトの「轍」のおかげ・・なのかな?
 
そしてナルトが貰ってなかった「一尾&八尾」のチャクラは、一尾は元の宿主である我愛羅が、そして八尾は当然ながらキラービーが、チャクラをくっつけて「綱引き」。
 
やっぱり、一尾(守鶴)は我愛羅担当でしたかぁ。
 
 「元々はオレと繋がってた一尾だ オレがやる」  
(こっちへ来い 守鶴!!) 
 
我愛羅と一尾・守鶴の関係ですけど、私は彼らはかなり「共鳴」していたと思ってるんです。我愛羅は人柱力時代も今も「守鶴の力」を使うし、人柱力時代には意識的に「狸寝入りの術」で守鶴に身を預けていたし、我愛羅の孤独と悲しみが、守鶴の孤独と悲しみと共鳴し、ふたりは心の奥でどこか「つながっていた」んじゃないだろうか。
守鶴の孤独、我愛羅の孤独。夜叉丸に「アナタは愛されてなどいなかった」と言われた夜…満月に向かって《ウォォォォォ》と悲しく啼く守鶴の声は、我愛羅の絶望の悲しい叫びでもあって、あの時、我愛羅と守鶴の心は共鳴していた…
 
狸寝入りで表に出た時には「キィエーィ!やりィー!」なんてかなりヘンな奴でしたが、ホントはすごく寂しがり屋で孤独な目をしていた守鶴・・・我愛羅の《こっちへ来い 守鶴!》の声に素直に従ったのだとしたら、やっぱりこの2人も「分かり合えていた」んじゃないのかな。
 
「引き抜け!そうすりゃ奴の力は十尾の抜け殻だけになる!大樹の花も開きはせん!」 (九喇嘛)
 
(花弁の「ペリペリ」が止まり、動きが止まる神樹)
 
んっ、九喇嘛の話によれば、オビトから尾獣のチャクラが抜ければ「奴の力は十尾の抜け殻だけになる」・・もう「十尾の人柱力の力」は使えないが、「十尾の抜け殻」の力が残る。つまり、十尾のチャクラが抜けた分『再び』十尾の抜け殻の力が使えるようになるという事でしょうかね、コレ。
十尾の抜け殻と言えば「外道魔像」ですが、オビトは以前のように「グルグル」の能力を使えるようになるのかもしれません「すり抜け能力」が再び使えるようになるのかもしれない)。それが今後、どういう意味を持ってくるのだろう・・。
 
 
そして、尾獣チャクラ経由でオビトのチャクラと繋がったナルトの中に、オビトの「心」が入ってくる(拳であいさつした状態でしょうかねコレ)・・・
 
 
(ナルトの顔つきが変わっていく・・・)
 
火影の夢を語るオビト、それを励ますリン、ミナトの下でカカシと共に任務に就くオビト、そしてリンの死・・・
 
(ナルトの目にジワ…と涙が浮かぶ)
 
こ、こんな時でさえ敵の心を見て涙を浮かべてしまうナルト…敵のために涙を流す》なんて、ナルトぐらいしか出来る奴はいない。
 
思わず九喇嘛が「奴とチャクラが繋がってるからだ!奴の心が入って来るが惑わされるな!!」と注意しなくちゃいけないほど、ナルトの心は揺れちゃったんですね。ナルトは「オビトの心」を知って素直に涙を流した…やっぱりナルトだ…これでこそ、「ナルト」。 
私はナルトのこーゆーところに惚れこんでおります。だからNARUTOを読み続けていると言ってもいいぐらいに…ナルトのこういうところが大、大好きなのです
 
ナルトがどこまでオビトの記憶を知ったのかは分かりませんが、今はまだナルトも“オビトの全て”を知ったわけじゃなく、まだオビトを完全に「理解」するには至ってないかもしれない(今はそれどころじゃないし)。 それでも、チラッと見えた“敵”の心に思わず《こんな状況下でさえ》涙ぐんでしまうなんて、とてもフツーじゃできる芸当じゃないと思うのです。 
 
我愛羅が開戦時の演説で言っていた『その者(ナルト)は敵であるオレのために泣いてくれた!傷付けたオレを友だと言ってくれた!!』…これがナルト。
そして最初の敵だった再不斬と白の事を『オレ、あいつら好きだった』とニコッと笑って言えてしまう…それがナルト。
これ、忍世界では「キレイ事」なのかもしれないし、あるいは「非常識」なのかもしれない。だけど、これがナルトなのです。ナルトの「轍」の作り方。
 
でも、ナルトが敵であるオビトの心を垣間見たのはこれが初めてですよね。
今まではとにかく止めること、戦うことに必死で相手を「知ること」は後回しだった… オビトの心を知ったのは「偶然」の結果なのだろうけど、それがナルトのオビトという人物の見方を大きく変えるキッカケになったんじゃないだろうか。
 
前に九喇嘛とチャクラの綱引きをやった時、九喇嘛のチャクラと一緒に九喇嘛の中に積もった憎しみ、怒り、嘆きがドーっとナルトの中に入り込んできたんですよね、それこそナルトが制御しきれないほどの憎しみが。
だけどオビトとチャクラの綱引きをやって、ナルトの中に入り込んできたのは、オビトの中に在った《火影への夢》、そして《仲間を想う愛》そして《仲間を守れなかった悲しみ》それらはナルトが共感できる、いや共感出来すぎるほどの想いだったわけで、ナルトにとってオビトという人物の内面は《意外》だったんじゃないだろうか。オビトという人物は《敵という概念の常識から外れた人物》だったかもしれない・・。
 
「相手を知る」という事が、いかに大切な事か… たとえ戦う相手であっても、その相手のことを知らなければ「たたかい」はただの暴力的な「戦い」でしかなく、本当の意味で向き合う「闘い」にはなり得ないのではないか。 
知らない事が誤解を生み、知らない事が憎しみを生む… かつてイタチが言っていた「未だ見ぬ知らぬモノを恐れ憎しむ…愚かしき事」ってやつです。
 
 
「六道仙人と等しい十尾人柱力の力をなめるな!」 (オビト)
 
オビト…“かなり”焦ってますね;こんな焦った顔を見せるのは(面割れ以降は)初めてじゃないかな? 仮面を外された時の“無表情(強固な仮面)”に較べたら、随分と感情をはっきりとあらわすようになったもんです。もっとも、オビトって子供の時からかなり「感情を露わにする」子だったから、これが本来のオビトなんですよね。
そして《なめるな》って言葉も、いかにもプライドが高い「うちは一族」らしい。サスケもよく「なめるな」って言ってますが、オビトも子供の時に言ってましたよね「オレはあのうちは一族のうちはオビトだぞ!」って… やはり、うちは一族には「誇り」が似合います。あまりいい意味にならない事もあるけど、いい意味でも誇り高い。
 
だけど、オビトはやっぱり《十尾の人柱力》なんですねぇ… 
オビトは“六道仙人と等しい『十尾人柱力の力』という言い方をしてますから、オビトは自分があくまでも《十尾の人柱力》であると言っているんですよね。いくら六道仙人と同等の力を持ち、見た目も六道仙人風になっていても、自分は《六道仙人の成り代わり》ではない・・自分は十尾側、《十尾の成り代わり》だとオビトは考えているんじゃないだろうか(オビトと十尾は「共鳴」していると思われるし)。
そして「オビト」の名を捨てて「名前は無い」十尾の人柱力に徹している「つもり」なんじゃないだろうか?
 
(力負けしそうなナルトに、サスケが「フン…」「いいから引けナルト」と力を貸し、「ナルト!手を貸せっつったのはお前だ!最後まで手はださせてもらうぜ!!」(キバ)と同期達も綱引きに加わる)…
 
「皆ァ…!!」
 
ナルト、嬉しそうな顔になりましたね(ちょっとメイクを間違った女の子にも見えるけど←ゴラッ)。 サスケが相変わらず「フン」付きでさり気なく(当たり前のように)手を貸すのも《今まで色々あったのに変わらない繋がり》を感じさせてくれるし、キバの言葉には、ペイン戦の時からの「成長」を感じさせてくれる…
 
ペイン襲撃の時、ナルトは「皆を庇いながら戦うのは逆にやりづれーから」里の皆には“手を出さねーでくれ”なんて言ってたんですよね。あの時は《ナルト、気持ちは分かるが、その言い方はないんじゃねーの?》とムカッとしちゃった記憶があります。でも、あの時の「過程」があって「今」がある。これもナルトの成長の轍なんですね。
 
作者は主人公だからって美化しすぎない。容赦なく「欠点」も「足りないところ」もちゃんと描いていく。ナルトはいつも「パーフェクト」ではない。でも1つ1つちゃんと「成長」していく。だから、いくら強くなっても、ナルトの生き様は読者である自分にも「共感」できるのかもしれません。
 
そしてペイン戦でのナルト(穢土転イタチに出会って《仲間を忘れるな》の忠告を受けるまでのナルト)は、「急速に力を付けた実力者」、しかも責任感が人一倍強いタイプが陥りがちな傾向、その典型的な例だったと思うんです。 
生前のイタチ、そしてマダラ、オビト、カブト…かなりの人達がそういう傾向にあり、彼らは知らず知らず「孤独」になってしまったわけだけど、ナルトがその状態から脱することが出来たのは、イタチのおかげでもあり、何よりもナルト自身が歩んできた道、轍のおかげなのだと思います。
 
そしてナルトにそれを実感させてくれる周囲の手助け… シカマルは連合の皆に《小さな力でも要は使いよう》だと「綱引き」に加わるように語りかけたわけですが、今までの忍世界じゃ強い者が強い者と戦い、そうじゃない者は「余計な手出しして足を引っ張らない」のが“セオリー”。
ペイン戦でも、シカクは「仙術を身につけたという事はもうレベルが違う 足手まといにならない事が今あいつにしてやれるチームワークだ」とシカマル達を諭していましたっけ。カカシも初期の頃「戦わないチームワーク」をナルト達に教えてましたよね。これも効率的に戦う為のセオリー…
 
この戦場でさえ、十尾の人柱力と歴代火影の戦いといった「レベルの違い過ぎる戦い」を前にして、忍達は《戦わないチームワーク》を当初考えていましたが、これも今までの“常識”やら“セオリー”から考えれば、当然の判断だったのかもしれません。 かつてのそれらの「常識」が、結局は個を孤独に追い込んでいったんじゃないだろうか…「チームワーク」を口にしながら「個」に追い込み追い込まれて。
 
でも、シカマルは《小さな力でも要は使いよう》と言い、キバは《最後まで手は出させてもらう》と言った… たとえ小さな力でも「一緒に闘う」チームワーク。 これも今までの“常識”をぶち破った、新しい忍世界をつくるためには「欠かせない」発想なんじゃないかと思います。ナルトだけじゃない、ナルトを助けてくれる周囲も、変わってきてるのを感じます…確実に!
 
(その2へ続けます・・)