ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

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NARUTO-ナルト- 587:9時になったら 今週のジャンプ・ナルト感想 (WJ26号) ・・・その1、イザナミのこと

NARUTO 587 :9時になったら (その1、イザナミのこと)

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『とっくに寝てる時間だったのに・・・』
 
先週は書くことが少なかったんですが、今週は多すぎてまとまりません;グダグダお許しください。タイトルの「9時になったら」・・・このタイトルだけで、今週の話はだいたい想像はできちゃいますよね。カブトにとっての「9時」とは・・・
 だから、読みだす前からタイトルだけで、涙腺が緩み始めてしまった(苦笑 

でも・・・
 
やっぱりキッシーは優しい・・・!と思った。

あれだけやらかしたカブトにも、ちゃ~んと温かい「帰る場所」を用意してやるなんてね。 やっぱり、NARUTOのこういうところが好きなんだよなぁ・・・ 
カッコいい「忍達の戦う姿」もいいけれど、彼らのどこか不器用な生き方だとか、だけど温かくて優しいところ・・そういうところが、たまらない。 生きるのに不器用な忍ほど、愛おしく感じる・・何だか共感できる。
 
さて、カブトの話はあとにして・・・まずは《イザナミ》から。

前回イザナミが無限ループってのは判明しましたが、今週はイザナミという術の「意外」な一面にちょっと驚きました(色々な意味で)。
 
術の詳細は後ほどまとめてみますが、瞳術でありながら「視覚」でハメずに「相手と自分の体の感覚でハメる」。 イタチが最初に刀で斬られた「感覚」を写輪眼で《写真》のように記憶し、似たような状況を再演して「再び記憶」、その区間をワンループと設定し、本発動と共にそのループが無限に繰り返される・・・(むむむ?どーゆーこと??)

つまり、一定パターンの動きを写真を撮るようにコピーして記憶、それを繰り返すということらしい。

イザナギイザナミについては別記事⇒にまとめます)。
 
 写輪眼で光景ごと記憶するってのは、コピー能力の応用ともいえますよね。

 イザナギ同様、「失明」というリスク付きではありますが、イザナミイザナギとは違って「千手の力」は必要ないらしいです(イザナギ発動には、写輪眼と千手の力も必要)。

イザナミは運命を決める術》・・・ この《決める》の意味なんですが、「運命をそのまま受け入れ、それで決める」ってことだったんですね。 選択するという意味ではなく、「受け入れてそれでよしとする」と言う意味。

そして、運命を受け入れる(決める)ことが『イザナミからの脱出』にもなるのだそうです(カブトの場合は、他の誰かに成り変わるのを止め、ありのままの自分を受け入れてやればいい)。 
 つまりイザナミとは《術をかけられたほうが、術を自力で解くことを目的にしている》という・・かなり変わった術であって、やはり本来「敵に対してかける術ではない」ってことです。
 
ならば「イザナミは何の為に存在するのか」というと・・・なんとイザナギの術者を「止めるための術」だったのです。
 
イザナギという「都合のいいことだけを選択し都合の悪いことはやりなおす術」のせいで暴走する術者を「止める」のがイザナミであり、イザナギで争い合う一族を「止める」のがイザナミだった。

イザナミイザナギと対を成す」とイタチは言ってましたが、それはイザナギ術者を無限ループに陥らせて運命を受け入れさせる、戒めの術(あるいは救いの術)》という意味だった。 イザナギが運命を変える矛的な、男神っぽい術ならば・・・イザナミは「受容」の盾的で女神的な術ってことなのかな。

 
イザナミから見えてくる「うちは一族の真実」

うちは一族の本当の姿、それが「イザナミ」の在り方から何となく見えてきた気がします。 

力を求め続けてきた(と思われた)うちは一族にも、力の暴走を食い止めて仲間を救おうとする術があったという「真実」。 うちは一族とは、ただの戦闘狂でも無ければ「奪い合うだけの血塗られた一族」でもなかったのかもしれない。
 
「仲間を救う目的の術」というと、今まで千手側の陽遁系のイメージがあったんです。たとえば医療忍術のような「肉体を回復させる」術がありますから。対して、うちはの術のほうには、あまり「仲間を救う」イメージが無かったんですよね(思い込みなんですが)。 でも、うちはの陰遁にもイザナミのように「仲間を救う目的の術」がちゃんと存在したんですね・・・それも陰遁らしく「精神的に(心を)救う術」が。 肉体を救う術が在るのなら、当然精神(心)を救う術があってもいいハズですよね; 
 
 
・『なぜ…こんな術をわざわざカブトに』 『こんな奴のために何で兄さんが』・・・今週は、サスケは「兄さん」3連発してたけど・・
 
『・・・こいつは昔のオレに似ていた』
『こいつのことも分かるんだ・・・』
『こいつだけを責めるのも間違いだ』
『カブトにはオレと違い死ぬ前に気づいてほしい・・・』。

イタチは《忍の世に翻弄された者同士》という言い方をしてるんですよね、「同士」…同じ事柄・体験を共有した仲間。 我愛羅「同じ痛みを理解しあった者同士にわだかまりはない」と演説で言ってましたけど、敵とか味方とか立場の違いだとか・・そんな事は関係ない。 同じ痛みを知っている同士として、イタチは仲間を救うための術「イザナミ」をカブトにかけた。
 
戦いを生業としている忍にとって《敵を救う》なんて発想は、なかなかできることじゃないと思うんですが、イタチは一度死んで「忍世界の縛り」から解かれたからこそ、こんな考えが出来たのかもしれない。サスケはおとなしく説教を聞くタイプじゃないけど、兄さんのこの言葉はじっと聞いてますね・・・そして兄さんの言葉を聞くサスケの表情のあどけないことと言ったら・・・

・《オレを完璧だったなんて言ってくれるな》

ドキッ今まで散々イタチのことを「完璧キャラ」のように祀り上げてきちゃったからなぁ。イタチのこの一言にゴメンゴメン・・・と心の中で謝罪のループ(苦笑).。しかし、イタチはやはり「完璧」に見えちゃったんですよね(もっとも、穢土転生されたイタチを見ていたら、58巻以降「完璧ではないな」と思うようにもなった)。 
イタチは『完璧』を期待されることがプレッシャーになって生きてきた事を思うと・・・やっぱり、ごめんと言わずにはいられない。

《オレはお前に別天神(ことあまつかみ)という瞳術まで使い お前を操る形で導こうとした》
《誰よりもお前を子供扱いし 守るべき対象としてしか見ず お前の力を信用していなかった》

確かに、イタチは過保護だったと思うけど・・・でもそれはアニキとしての愛情ゆえですよね。 今でこそあまり年齢差は感じないけど、子供時代の5歳差って結構大きい。 

たしかに、「別天神」でサスケを操ろうとしてたってのは、正直イタチらしくないとも思ったけど、これもサスケが「里に帰ると信じていた」からなんですよね。別天神発動は「最悪の場合」の保険であって、そういう最悪の場合まで想定していたイタチは最善を尽くしたんだと思います。ちょっと頑張り過ぎたけど。

「・・・・・・・・」と斜め下を向いたイタチの表情。

その表情は穏やかなんだけど・・・己の人生を客観的に振り返っているような表情なんですよね。 「今現在」を必死に生きてる忍達には「まだ」出来ない表情というか・・

そして、今週最も印象深い言葉。
 
『何であれ一つとして 一つで完璧なんてものは無いのかもしれない』
『だからこそ補うモノが引き寄せられるように生まれ・・・ 側で対を成して初めて少しでも良い方向へ近づけるのだと思う』

イザナギと… イザナミの術のように』

『・・・・・・・』

《引き寄せあうように》 《対を成すように》・・・それはうちはの兄弟であり、そして陰陽、N極とS極のナルトとサスケでもある。

そして人間同士だけじゃなく「術」にも助け合うものがある・・・なんだか、いい話じゃないですか。それぞれ違うけど、それでいい・・違うからこそ一緒に居て、助け合い協力することが出来る。イザナギイザナミのような「対」となる術・・・いずれは《ナルトの螺旋丸とサスケの千鳥》の術同士が助け合い、大切な役割を果たしてくれる事を期待してるんだけどな。。

『オレを見て オレになかったものを お前には探してほしい』

『だから・・・ オレを完璧だったなんて言ってくれるな』
 
・・・こんな言葉を残せるなんて、なかなか出来る事じゃない・・・やはりイタチ、キミはすごい兄さんだ。完璧とは言わないでおくけれど。

サスケは、ずっとイタチを追いかけてきた。「兄さんの様にやりなさい」・・・・兄さんの真似をして、追いかけて。《誇り高いうちは一族の名を自分一人に遺された》責任から兄さん越えのために必死になって、兄さんの背中を追って追って、でも兄さんを知れば知るほど「完璧」の壁はサスケの行方に立ちはだかる。
ダメな自分を受け入れられず、そんな自分を貶め、考えついたのは信念を曲げて兄さんとは違う道に行くという「自分に嘘をついた道」。でも・・・

イタチには有ってサスケには無いモノを探すのではなく、イタチには無くてサスケに在るモノを探せばいい・・・きっとそういう事なんだろうな。
 
『まずはありのままの自分を自分自身が認めてやることだった』

『そうしさえすれば誰にも嘘をつくことはなかった お前にもオレ自身にも』
 
《嘘》、これものテーマの1つになってますが嘘にもいろいろあるわけで・・・遅刻の言い訳みたいなかわいい嘘もあれば、偽りの自分を演じるという厄介な「嘘」もある。
ありのままの自分を受け入れ認める・・・これって自分のダメなところを許すってことだから、カブトが苦戦するのは分かる気がするんです。ナルトだって真実の滝で苦戦したし、イタチだって今になってやっと出来た事・・・他戦場にいるガイとカカシだって未だに自分を認める事は出来てない(特にカカシの場合は酷過ぎるし)。
「嘘と偽りの自分、そして自分を許すこと」・・・このテーマはトビ戦場の闘いにもつながっていきそうです。


・《背中合わせ》

『嘘に信頼は無く 背中を預ける仲間はできん そして・・・嘘は本当の自分すら見えなくさせる』

「背中を預ける仲間」・・・これ、連想しちゃうのは568話“ガイとカカシの背中合わせ”。 しつこいんですが、あの「信頼しあう阿吽の呼吸、見事なコンビネーション」にはホント惚れ惚れします。さすがは永遠のライバル… あの2人だからこそ、尾獣というトンデモナイ相手の闘いでも背中合わせでお互いを信頼出来る。 最近、コンビの話は連発ですよね・・チョビ影に誉められた我愛羅とナルトコンビとか、木ノ葉隠れのナルトと九喇嘛コンビ・・・今はイタチとサスケ兄弟(いずれはナルトとサスケですね)。
 
585話では、それまで横並びだったイタチとサスケが「後ろはオレがやる!兄さんを前を!!」と背中合わせで須佐能乎を出しあってたのが印象的で、ついに2人が信頼しあって背中を任せるまでになったかと(涙)。兄弟共闘なんて諦めていたから、キッシーの粋すぎる計らいに・・これまた涙。

そしてサスケとイタチが「背中合わせで須佐能乎」したってことは、これでついにサスケも「二面須佐能乎(マダラの使うイズナ・マダラ合体型須佐能乎みたいな、サスケ・イタチ合体須佐能乎)」も使えたりしないかなんて期待してます。 サスケが須佐能乎を完成させナルトが尾獣モードを完成させること・・・それが「眼と獣」の完成でもあると思うんです。 
 
今度2人が再会する時には、サスケの陰遁・須佐能乎(器)と、ナルトの陽遁・尾獣(生命エネルギー)が加わることで《完全体》、つまり須佐能乎という器にナルトの尾獣が入って合体型になれるのではないか・・という気もします。
 
で、何の完全体なの?って・・・これが問題なんですが、それがわからない。十尾なのか、誰かなのか・・・・コレはお楽しみとしておきます。 だけど「器」と「チャクラ」はあっても、肝心の「意志」がどこに在るんだろう・・・今の「トビ」を支配しトビに影響与えたのが十尾の「意志」なのかどうか・・これもまた「お楽しみ」かな。
 
そして、カブトですが…イザナミの描写で、実に美しい「音」の演出があります。これ、ぜひ着目していただきたい、キッシーならではの演出です。

それについては、続きの感想にて・・・
 
(後半《大猪を射止めるのは…》に続きます、すみません)。
 
 
 
 
 
 
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