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NARUTO-ナルト- 589:穢土転生の術・解 今週のジャンプ・ナルト感想 (WJ28号) ・・・その1、マダラの須佐能乎・完成体

NARUTO 589 :穢土転生の術・解 (その1、マダラの須佐能乎完成体)

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『オレ一人分なら…地図を描き直す範囲が狭くて済みそうだからな』

※今週も2記事になってしまいました。 2つめの記事は「お昼前」をめどににアップさせてください。よろしくお願いいたします。

さて、今週はついについに穢土転生が「解」・・・穢土転生達との別れの時がやってきてしまいましたね。
 
イタチが約束を守ったというか・・・でもそれは“兄弟の時間”の終わり、再びの別れの時を意味してしまうんですよね。 今週は1つの終わりと、そして1つの始まり・・・
 
《まずは・・・》
 
・全身を遂に現した「マダラの完成体・須佐能乎」

巨大なその姿は、鼻がツーンとまっすぐに伸び羽を持った、いわゆる「大天狗」の姿。
 
「大天狗型」須佐能乎といえば、イタチの須佐能乎(着ぐるみ状態つまり完全体)、そして以前のサスケの須佐能乎もそうでした。 で、永遠の万華鏡状態になってからのサスケの須佐能乎(完全体)は「烏天狗」姿に変わってました(くちばしをもっている)。
なのでこれは推測ですが、サスケのも今後「完成体」に進化したら、マダラのとは違う《くちばしをもったカラス天狗型の須佐能乎》に完成するんじゃないかと思っています。

で…
お気づきの方も多いと思いますが「大天狗」と「烏(カラス)天狗」といえば、木ノ葉にあった「火の寺」(飛角コンビが壊しちゃったお寺)の門を守るようにして像が立っていたんです。 向かって左が大天狗、右が烏天狗(35巻に出てきます)。で・・その大天狗はマダラの須佐能乎完成体にそっくりなんですね。 そしてこの寺の御本尊(っていうの?)は大天狗像でして・・・これもマダラの須佐能乎そっくりなんです。 
 
火の寺といえば《仙族の才とやら》を操る僧侶のいる忍寺で、六道仙人の忍宗の流れを継ぐ寺かもしれませんが その寺が「須佐能乎」(と言っていい)像を祀っている。・・・ということは須佐能乎とは神のような存在、あるいは高位の修験者と解釈していいでしょうか(お寺で神ってのも、なんだか神仏習合みたいで変ですが)。
そして須佐能乎は「尾獣」と対になるもの、とも思っています。
 
NARUTO世界に我々の世界の宗教観や神話をそのまま当てはめる事は出来ないですが、「大天狗」は驕り高ぶった者の象徴であるというし(いわゆる天狗になるってやつでしょうか)、烏天狗とは違う種類の天狗です。
マダラの須佐能乎は「破壊神」のようなので、サスケの(烏天狗)須佐能乎がどういったモノに完成していくのか・・・これも楽しみになってきました。

さて、マダラは己のチャクラをコントロールして須佐能乎を巨大化させ、手にグッ!と力を入れ《定まれ!》とチャクラの安定化を図って大きさも定めてます。力をつければ呪印も解き、封印も解く力を持つ「須佐能乎」。これほどの「抗いの力」があれば、う~ん穢土転生の「解」にも抗えてしまうだろうか。 ど~も穢土転が“解”されても、このマダラが簡単に消えるとは思い難しなんですよね~・・ カブトとの口寄せ契約を契約封印でもしてしまえば、解も無効な気がするんですが・・・はて、どうなることやら。

『オレを止められるのは唯一 柱間だけだと言ったハズだ』

『だが奴はもういない』

・・・って、一体マダラは何度「柱間」を繰り返すんだろう? どれだけ柱間にこだわってるのアナタは・・と突っこみたくもなります(笑 
 
よほど好き・・いや、マダラは柱間に会いたいのだろうか?会いたい、というかもう一度今の状態で勝負したいんでしょうか。
柱間を穢土転生しろと忍達に唆しているようにも聞こえるんですよね、マダラは「まさか」柱間の魂は死神が持ってて穢土転出来ないとは知らないのでしょうから。 《だが奴はもういない》という表現も、ライバルがこの世にいないことを嘆いているかのようにすら感じられる・・・今までのマダラの発言から考えても、マダラが柱間を本心から尊敬し憧れていたのは確かですよね。 
 
マダラにとって柱間とは「ほぼ完璧な忍」であり「超えるべき壁」・・そしてマダラにとって柱間とは《希望》でもあったんじゃないだろうか?と最近考えています。
マダラが語る「柱間」という単語をそのまま《希望》という単語に置き換えられるような気がするんです、厳密には《過去の希望》と言った方がいいかもしれません。そしてマダラ自身は《過去の憎しみ》と置き換えられるような気がします。
 
忍世界の頂点に立つ憧れの柱間は、マダラにとっても希望の光『だった』のではないだろうか。マダラ(憎しみ)を止められるのは柱間(希望)だけだと。 そしてその唯一の希望も、もうここにはない。 
柱間(希望)ももう存在しないこの世界、残された選択肢は「無限の月読の中で眠るしかない」とマダラは考えているんじゃないだろうか。
 
・マダラの真実

『・・・それもお前らにとっては却ってよかったとも言えるかもしれない』

『なぜなら――』
 

(そう言って須佐能乎の太刀でズバッと山を斬ったマダラ。 山を斬ったと言えば、尾獣達の尾獣玉も山をすっ飛ばしてましたよね・・。で、この時の絵ドドドドドズゴ!という文字の距離感、臨場感がたまりません)

『オレ一人分なら…地図を描き直す範囲が狭くて済みそうだからな』
(相変わらず腕組みして見下ろしのマダラポーズ・・崩しませんねぇ、この姿勢)

オレ一人分なら~という言い方にも、もし柱間が居たら戦いのスケールが違ってたのだと・・やっぱり柱間ラブな印象なんですよね。 前にメテオを落としたあとの風景を「フッ・・懐かしい風景だ」とか言っていたり、《奴(柱間)とは命懸けの戦いをしたものだ・・》なんてこれまた嬉しそうな顔して話してましたっけ。
《最強の忍》と謳われた柱間と対等に交えた拳は、マダラにとって誇りであり《己を感じることができた時間》だったのかもしれません。 
 
マダラの柱間に対する《憎しみと尊敬》という矛盾した感情・・・なんだかサスケのイタチへの複雑な思いとも少し重なるし、サスケのナルトへの感情でもあるんですよね。 柱間もマダラをもしかしたら(兄弟みたいに思ってた)のかもしれませんが、マダラの弟への思いが強すぎて・・マダラの弟を思うがゆえの憎しみを柱間は受け入れきれなかったのでしょうか。 なんだかホントにナルトとサスケは彼らの繰り返しのように見えます。。

『これが…うちはマダラ… なら… なぜあの時… 』
 
『ワシらを前に手を抜いた!?』

『砂利と本気でケンカする大人がいるか?』
 
『そんなことより…』

『もう終わりか?』
 
オオノキが言う「あの時」とは、例の己を捨てた時…無サマと二人でマダラの力に圧倒された時のことです。
でもあの時のマダラも「周囲の建物」はメチャクチャに破壊してますが、無サマとオオノキには大して危害を加えていないんですよね。
 
《なぜ、マダラはオオノキと無サマの命を奪おうとしなかったのか?》・・・ここにマダラの真実の姿があるような気がするんです。 マダラの目的はあくまで《五影達に絶望を与えること、希望を絶やすこと》であって命を奪う事ではなかった・・・それは今も変わらないような気がします。 
なので五影達が「マダラ」を解決する為には、マダラの憎しみを受け止め《マダラの心を理解する》必要があると思うんですよね、でも今のところ五影はその考えに達していない・・・。
 
しかしオオノキが持った小さな疑問《なぜあの時手を抜いた?》は、マダラの心を理解するための入口になるのではないか?という気がしています。
 
マダラから見たら当時のオオノキなんて、実際に石にもならない小さな砂利でしかなかったかもしれませんが、《そんなことより…》と話題を自ら変えている。
 
だいたいこうやって話題を変えてくる時ってのは《突っ込まれたらヤバい時》と相場が決まってます(笑

つまり、意外とマダラの《こういうところ》が弱点と申しますか…彼にとって《他人に見られたくない本心》こそが最大の弱点なのではないかという気がします。 
これ、再不斬もそうでした・・ 隠していた本心をナルトに引き出されて敗北を認めてましたっけ。 マダラは出来れば殺戮なんてしたくない、いや・・それどころか彼の本心は「忍達を救いたい」というモノなんじゃないだろうか。 

『ワシらはまだ道に迷うてばかりじゃが 今やっと道を見つけられそうなんじゃ』
『こんなところで…!』

『…!』
『・・・・』

マダラ、怒ってますね…静かに、だけど心の底ではかなり激しく。
 
五影達が全力で向かってくるのは喜んで(?)受けて立っているマダラですが、《ムッ》とするのはきまって五影が《諦めない》態度をとる時。マダラが五影相手に《手加減しつつ》戦っている目的は、彼等に諦めを与える為としか思えないんです。
 
マダラにしてみりゃ“完成体須佐能乎”は切り札であり最後通牒だったような気がしますが、五影は諦めない。
それだともう本気で制裁するしかない・・・でもマダラはそれを本当は望んではいない。 マダラの怒りは(なぜここまでしても分からないのだ!)と言いたいのではないだろうか。・・・
 
オオノキが言う《道》。

彼ら忍達は、己が行く道・忍道に迷いながら、やっと確かな《輝きへと続く一本道》を見出そうとしているんですよね。忍達の歴史が始まってからず~っと彼等が迷ってきた「道」。
 
《ナルトが「どんなに痛てーことがあっても歩いていく」と言った道。 シスイが「背くことはできない」と言った道。 イタチがサスケを歩かせようとした「真っ直ぐな一本道」… 鬼鮫が霧の中迷っていた道…等々》
 
彼等はそれぞれ己の道を模索しながら、でも最終的には全員が「1点(1つの点)」のゴールに辿り着こうとしているのかもしれません。
 

『この須佐能乎は破壊そのもの…』
『その一太刀は森羅万象を砕く力を持つ… あの尾獣にすら匹敵するな…』

『お前らの道 諸共 砕け散れ 五影』

かつての六道仙人は破壊神と創造神2つの顔を持つと自来也が言ってましたが、マダラの憎しみの須佐能乎はその破壊神の力を持った存在なのでしょうか。
ゼロにしてリセットする・・マダラが目指す《無限の月読》の世界、それは都合の悪い現実を夢にしてしまうものなのでしょうか…まるでイザナギのような世界とでもいいましょうか。現実を諦め、幻術で結果を作り替えてしまう。
 
だけど忍達は、六道仙人によってイザナミのような世界に投げ込まれています。 戦いや憎しみの輪廻に迷いながら、同じことを繰り返し繰り返し…少しずつ学んで、ようやく己の失敗を認めて輪廻を断ち切ろうとしているわけです。仙人も、かつて自分が行った強制的な平和(イザナギのような平和)を反省し、あえて忍達をイザナミのような世界に入れて答えを出すのを待ったような気がします。 
 
マダラが行おうとしている「イザナギ」と、忍達が行おうとしている「イザナミからの脱出」・・・ 

憎しみの輪廻・戦いの輪廻から抜け出せない忍達を、“グルグル回って踊り続ける無限ループのような輪舞曲(ロンド)”から救い出し、イザナギのような限月で救う、それが己の役割だとマダラは考えているんじゃないだろうか。つまり、マダラが行おうとしているのは《救い》…五影達に踊り続けるのを止めさせ《救う》のが目的じゃないかと思えるんです。
 
 
 
そこに在るのは大いなる憎しみなんかではなく、マダラが本来持っている大いなる愛情のハズだという事に・・・
マダラ本人は気付いているのだろうか。
 
 
 
 
長門を《ガキ》と呼んだりオオノキやナルトを《小僧》と呼び、今度は《砂利》。 こういうちょっとした口の悪さも、悪く言えば傲慢、でもよく言えば親分肌なんですよね。 やっぱりマダラって誤解されやすいタイプのような気がするなぁ・・。

(その2、穢土転生の術・解の雑考はお昼前頃にupします
 
 
 
 
 
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