ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

NARUTO-ナルト-の考察(伏線、言葉、人物考察などなど!)続行中!

NARUTO-ナルト- 648:忍の夢・・・!! 今週のジャンプ・ナルト感想 (WJ44号) その1

NARUTO 648:忍の夢・・・!! その1

イメージ 1
 
 
「国は関係なく忍が皆協力し合い助け合い・・・
心が一つとなる日が来ると夢見ている」
「・・・それがオレの思う・・・」
「先の夢」
 
柱間ァ・・いい事言ってくれますね。彼の魅力は人の心を動かすところ・・いや、扉間が言う通り《バカで甘くキレイ事を大声で口に出来ちゃう》ところかな。
先週は「過去の偉人の言葉はなかなか届かない」なんて思っていたのですが、やっと届きましたねぇ・・柱間の「愛すべき子供達」への語りかけ。それは威圧的な「命令」でもなく、有難迷惑な「道案内」でもなく、全忍達の「父」としての子供達への愛情いっぱいの言葉。
ハッシ-が“忍の神”と呼ばれるのは、忍術の凄さゆえではなく、忍達全員の「父」であるからなのかも・・・やはり柱間は「忍の神」、父なる神のような存在と言えるのかもしれません。
 
五色揃った五影笠・・・何だかオリンピックを彷彿とさせますけど、柱間の純粋過ぎるほどの「真っ直ぐな夢」は、諦めを重ねることを大人になる事だと勘違いしてきた自分にはキキュンとくるものがあります。そして、これは作者から読者達への熱い熱いメッセージでもあるんだな・・と。
 
 
・・・さて、サスケに刺激されて立ち上がったナルトですが。
 
「サスケェ!!」 「オレも行くってばよ!!」
 
「フン……」
 
須佐能乎の中のサスケ、ちょっと微笑んでましたね。 
 
347話(38巻)でも、同じように「フン…」と微笑んだ横顔を見せたことがあります。 首斬り包丁を取りに波の国を訪れた時、「なると大橋」と名付けられた橋を見上げて、懐かしそうに「フン…」と言ってましたっけ。サスケの「フン…」は《かなり嬉しい時》のリアクション。
 
何だかなぁ・・この二人のやり取りを見てると、すっかり「昔の2人」に戻った感じがして、嬉しさに思わずウルウルしてしまう。 でも一方で、これを素直に喜んでいいんだか?と軽い違和感を覚えるのも事実なんです。 だって、あんなに長い間、ナルトがいくら追いかけても繋がりを断ち続けていたサスケが、突然「戻った」んだから・・コレって夢なのか本当なのかと戸惑ってしまうんです。でも、本当は違和感を覚えるべきなのは「今」ではなく「今まで」のほうなんですよね。
 
今のサスケは「ごく自然に振る舞っているだけ」。以前のサスケは「本当はしたくない」木ノ葉への復讐だとか仲間を傷付ける行為を「残された者」としての使命、「イタチの真実を知る者」としての使命だと考えて無理やり自分に強いようとしていただけ・・・今のサスケは「自分を取戻し、自分の気持ちに素直に従うことが出来るようになった」という事なんですよね。つまり・・・サスケはやっと己を解き放つことが出来たんだろう、と。
 
 
「で… サスケ…お前…相手は仙術しか効かねェって分かってんよな!?」
「さっきのお前と一緒にするな」 
 
こんなやり取りにも「昔のナルトとサスケ」を思い出しますよね。
サスケの言う《さっきのお前》ってのは「仙人モードじゃない状態で」突っ込もうして扉間に「兄者以上のバカ」とお褒めの言葉?を頂戴したり、九喇嘛に大笑いされた時のナルトのことですが(645話)、こういったナルトの場を和ませる「バカさ加減」ってのは、サスケにはたまらない「ツボ」なんだと思います。
 
 《ミナトの中の陰九喇嘛がナルト(と陽九喇嘛)にチャクラを渡し、重吾がサスケの須佐能乎にチャクラ(呪印=仙術チャクラ)を与え、須佐能乎に「サスケの呪印模様」が表れる(鼻のあたりに十字形ナルトの九尾モード×仙人モードの時の十字型の眼の模様にも「ちょっと」似てるかなナルトの目にサスケの仙人マークが…ならばいつか、サスケの目にはナルトの仙人マーク(●)が出現しないだろうか…》

で・・・呪印模様に染まった須佐能乎なんですが。
 
「そもそも重吾の呪印は仙術の力」
「・・・かつて私の実験でその重吾のチャクラを注入して直ぐ呪印を解放したサスケくんだもの・・・サスケくんの須佐能乎が同じように重吾のチャクラに適応しても 何ら不思議じゃないわ」
 
「つまり仙術須佐能乎ってとこかしら」 (大蛇丸
 
・・なるほど、こういう使い方でしたか。重吾がサスケの側にスタンバイしてるのはいいけど「どうやって」サスケと融合してサスケに仙術の力を与えるんだろうかと思っていたんです。以前の雑考サスケの仙人への道では、重吾がサスケに自分の細胞を注入して仙術の力を与えるのかと考えたんです・・・なにしろ今の重吾は白ゼツ(=柱間細胞)を一体吸収しているだけに(65巻20頁参照)、サスケに重吾細胞が与えられたら、一体どういう変化が起きるかとアレコレ想像してたのです・・・遂にサスケは「鷹の眼」になるんだろうか、等々。
この先、そういった展開も「あり得る」とは思っていますが、でも、重吾がサスケに力を与えて「サスケ一人で為す」ことより、「サスケと重吾2人で力を合わせる」事のほうが作者からの「メッセージ」を感じるんですよね・・・本来は1つである強大過ぎる力を1人が「独占」するのではなく、分担して「力を合わせる」こと・・それがこれからの忍世界の、忍術の、そしてチャクラの在り方の方向性を示すモノなんじゃないだろうか(「九喇嘛の力」にしても、ナルト一人で使いこなすのではなく、陽九喇嘛と陰九喇嘛に分かれて《ナルトとミナトが力を合わせること》に意味があったのかもしれない・・・「すまねーな…またチャクラもらっちまってよ」「…気にするな」という陽と陰の九喇嘛の会話が微笑ましい)。
 
香燐が「ウチもあっちに交ざろっかなぁ」と言ってるのは、ただサスケと交わりたいだけかもしれないけど(笑)、でもそれも実際にあり得るのだろうと思ってます。香燐の特殊な感知能力と、水月の分裂&くっつけ能力、それらも「交ざる」事は可能なんだろうと(口を尖がらせた水月が、やたらと愛くるしい。)しかし重吾という人はいつも他人をよく観察していますが(特にサスケのことは)、何も言われなくてもサスケの望むことを察するんですよね・・これには本当に驚かされます。
 
そしてサスケの「仙人への道」なんですが、これはナルトよりずっと早く・・「中忍試験」の時に大蛇丸がサスケに呪印を与えた時から、既に始まっていたんですね。「直ぐ呪印を解放することが出来た」サスケは、仙術への適性が驚くほど高かったという事かな・・
 
大蛇丸の元での約3年間の修行」・・・サスケにとっては「イタチを倒すための修行期間」だったわけだけど、大蛇丸にとっては「サスケを理想的な仙人の器に育てる為の修業」だったんですよね。 自然エネルギーを手懐ける「麒麟」はその「総仕上げ」だったと考えておりますが、それらの実験(試験)を次々とクリアしていくサスケに、大蛇丸が与えた「ご褒美」が草薙の刀であったり(あれって六道仙人ゆかりの品ではないかと想像してますが)、それにあの服装(34~40巻までの服装)も仙人への階段を上っていくサスケへの「ご褒美」だったんじゃないか・・なんて考えてます。当初、腰に縄を締めたサスケの服装は「オロ趣味の服装」だと思っていたんですが、アレは「かつての六道仙人風の服装」そっくりでもある(50巻75頁参照)・・・大蛇丸は「六道仙人を思わせるサスケ」に、かつて六道仙人が来ていたような服を着せて「夢」を見ているような気分にでもなってたんだろうか・・なんて(笑)
 
でも呪印の正体が「仙術の力」だと判明したのは62巻「つい最近」の話だし、サスケの「仙人への道」は“後付け”にも思えるけれど、そうでもないんです。少なくとも33,34巻の時点ではしっかりとその伏線は描かれ始めておりまして(これについては今週、別記にて)、第一部の頃からイタチの発言にしばしば登場する〝器〟という言葉についても〝六道仙人の力を受け継ぐうちはの高みの器〟と解釈するならば、ずいぶんと早い頃から「サスケの仙人への道」は示されていたのかもしれません。
 
イタチがサスケに「どこまで」望んでいたのかは謎のままですが、やはり気になるのは62巻イタチの「記憶」に登場するフガクとイタチ最後の会話なんです。
 
「…イタチ…最後に約束しろ」
「サスケのことはたのんだぞ」
 
「分かってる…」
 
もちろん、これは「まだ幼い」サスケの行く末を案じての「純粋な親心」からの発言であると思うのですが、何だか「それだけではない」ような気もしちゃうのです。《サスケのこと》の《こと》に含まれる意味は何なのか・・・イタチの「分かってる」が意味するモノは何なのか。 サスケに「猿飛一族のサスケ」の名を与えた「フガクの真の想い」が明かされた時、「サスケのこと」の意味と「クーデターの真実」も同時に明らかになるのではないか・・と期待しておるのですがね;
 
 
「…まだまだこんな程度ではない…」
「私には分かるのよ…私の生涯をかけ集めた情報から導き出せる…私の勘がこう言うの…」
 
「アナタはいずれマダラを越えた忍になると」 大蛇丸
 
早いうちからサスケを「イタチを越える眼」と見抜き、仙術の力を試与した大蛇丸… そしてサスケが幼いうちから「お前の〝器〟を確かめる」と言っていたイタチ… さらに「次の変化で“鷹”に変わるか」と言っていたオビト… サスケが「特別」であることを見抜き、期待していた人達は結構いるんですよね。イタチが言っていた「うちはの本当の高みを手にするのは奴(マダラ)じゃない」「あの男マダラを超え本当の高みに近付くのはこのオレだ」「オレはマダラを超える力をようやく手に出来る」「本当の変化を手にする」の台詞。「オレ」とは言ってましたが、これらはイタチが「サスケ」に望んだ事ですよね。マダラが生前に成し得なかった《うちはの本当の高み、本当の変化》とは何なのか・・・それがマダラの言うところの「奥の手」の可能性もありますし、その「うちはの高み」こそ救世主としての力なの「かも」しれません(だとしたら、やっぱりマダラには「救世主願望」があるのかな)。マダラが柱間から貰おうとしている「仙人の力」は、それを実現するための第一歩なのでしょうか。
 
うちはサスケか…かつてのマダラと同じ可能性を見せる…うちはの者よの》
 
《そしてうずまきナルト… まるでかつての兄者を見てるようだ… バカで甘く キレイ事を大声で口にするガキだ だが…なぜだか皆に好かれ…頼りたくなる》 (扉間)
 
扉間は、サスケとナルトのことを改めて〝フルネーム呼び〟にしてますが、忍が相手の名前をフルネームで呼ぶ時ってのは「相手を認めた時」じゃないかと思えるのです(「干柿鬼鮫!お前の事は一生覚えておこう」(ガイ)のように)。 「名も無い」忍の世界で、名前をフルネームで「確認」してもらえること・・それは(あらゆる意味で)相手を個人として「認める」特別な意味を持つと思うんです。
 
扉間がサスケを「うちはサスケ」と呼び、ナルトを「うずまきナルト」と呼んだのは、彼らが一流の忍であることを認定したという事なんじゃないかな。ナルトとサスケこそ《柱間とマダラの次に時代を動かすことが出来る2人》であり、柱間とマダラを「越える可能性がある」忍であることを認めた言葉でもあると思うんです。
 
かつては「転生を繰り返してでも自分が全部やらなくては」と考えていた大蛇丸はサスケに「先の夢」を託し・・・
かつては「柱間兄者しかできない」と考え、ひたすら兄者の夢を「守る」事に固執してきた扉間はナルト(とサスケ)に「先の夢」を見て・・・
2人の口元はそっと微笑み、その表情は優しく穏やかなものになっていますね・・・(マダラも忍連合の連係に、一時は嬉しそうにしてたんだけどなぁ)。 
 
 
 
 
(その2、続けてアップいたします)。