NARUTO 619:悪に憑かれた一族 その2
(その1の続きです・・・)
・イタチとは・・・
「おれはうちはサスケ アンタたち火影に聞きたいことがある」
「三代目・・・ イタチになぜあんなことを・・・」
「もう・・・ 知っておるようじゃな・・・」
「イタチは・・・ ・・・うちは一族の復讐として オレが殺した・・・」
「・・・・」
サスケがイタチを倒したと聞いても、ヒルゼンは驚いてはいないですね。そしてサスケが復讐へ走ったと聞いても「そうなったか・・」と、《やはり》反応。
「イタチは小さき頃から誰も気に留めぬ先人達からの教えや印に気付き 一人でかつての忍達や里の起こりを感じとる繊細な子であった・・」
「そのせいかイタチは一族という縛りにとらわれることなく 忍の先・・・里の先について考えることができ・・・ いつもそれら将来を危惧していた」
「7才にしてまるで火影のような考えを持つ少年じゃった・・・」
やはり早熟ですなぁ・・イタチ。
ヒルゼンは《7才》という具体的な年齢を出していますが、7才の時といえば、イタチが写輪眼を開眼した年齢でもあります(サスケの回想中で、サスケが7才の頃に「オレと同じ年齢の時に兄さんは写輪眼を開眼した」と言ってたことがある)。そしてアカデミーを卒業した年齢でもある・・
25巻でイタチが警務隊の人達に語っていた、《己を制約し己の“器”を決めつける忌むべき事・・そしてまだ見ぬ知らぬモノを恐れ憎しむ・・・愚かしき事 オレの“器”はこの愚かな一族に絶望している》等々の難しい言葉・・・これらも先人たちの教えを読み、感じ取っていたからなのでしょうか。 そしてイタチが忍達や里の起源に興味を持ったのは、4才で戦争を知ってトラウマになったせいもあると思いますが、《7歳の時》に写輪眼に開眼するような出来事が何かあり、それも大きな引き金になってると思われるんです。 ヒルゼンが《イタチは7才にして》なんて具体的に記憶しているような、何かが。
そして当時のイタチにもっとも大きな影響を与えていたと思えるのが『シスイ』。 でも、里側からもオビトからも、不自然なほどシスイの名は出てこないんですよね。 シスイについてはまだ謎が多い・・・いいかげん「瞬身」の通り名の由来を教えてもらいたいんだけどなぁ。
イタチには全幅の信頼を置いたのに、シスイは信頼しなかった・・・その差はどこにあったのだろう?
ダンゾウがシスイを信用できないと言ったのは、ただ眼を奪う口実に過ぎなかったのか。あるいは・・・里側が「シスイは信用できない」と判断する何か理由があったのだろうか。
それにしても、あの“瞬身のシスイ”がダンゾウに眼を「奪われる」とは考え難く、シスイから「差し出した」というのが実態じゃないかとは思っているんです。でも、イタチにしてみれば、ダンゾウに「奪われたも同然」と思えたのかもしれません。
里と一族を愛し「自己犠牲をモットーとしていた」シスイなら、右眼は里側、左眼はうちは側(イタチ)に託したとしても不思議はないんですよね。 ダンゾウは、シスイやイタチの「自己犠牲愛」をちゃっかり利用していたってことじゃないのかな・・・
《うちはの愛情表現》は、時に深すぎて他の一族には理解しがたい・・・それはシスイに限った話じゃあなくって、うちは一族全てに当てはまる事だと思うんです。だから彼らは「まさか、そこまでするだろうか?」レベルの《常識を超えた愛の発想》さえするだろうと、私は考えておるのです。マダラも、オビトも・・・フガクをはじめクーデターを企てたと言われる人達も。
だから、彼らの本当の意図は・・・憎しみや復讐なんかではなく、本当は自己犠牲的な「とんでもない愛」に基づくものじゃないかと思うんです。
「同胞を皆抹殺し反乱を止め・・・ それに繋がる戦争を一人で食い止め・・・ 暁にスパイとして入り込んでまで里を守った ワシにお前を里で守ることを条件に出してな」
「・・・・・・」
「・・・やはり・・・」 「・・・そうか ・・・・」
(目を逸らし、うつむいたサスケ)・・・辛そうだな・・・
改めて聞かされるイタチの生き様、そしてサスケが改めて思い知らされ確認したのは、イタチが貫こうとした「サスケへの愛」・・・
何度聞いても、出てくるイタチの真実は、信じがたいほどの「愛」ばかり。そして、この世に未練は無いと言って昇天したイタチの生き様死に様は、たとえイタチ自身は《完璧と言ってくれるな》とは言ったとしても、サスケから見たらやっぱり完璧過ぎると言えるほど完璧だったんじゃないかと思います。
・悪に憑かれた一族
結局のところ、うちはと千手はお互いを知らなすぎて理解し合えず、誤解が誤解を呼んで悪い方向へと向かってしまったような気がします。 知っているつもり・・・だけど、本当は何も知らない。 全ての問題は《知らないこと=誤解》に発していると思うんです。
そして、それを象徴するような会話が、これ・・・
(扉間) 「兄者も知っているだろ・・・ 奴らうちはは・・・」
「悪に憑かれた一族だ・・・!!」
(サスケ) 「・・・・・・」
(大蛇丸) 「・・・まるでマダラはトラウマのようですね そんなにうちはが恐いと・・・」
(扉間) 「若僧が・・・ お前はマダラを知らぬ」
(サスケ) 「二代目火影・・・アンタに聞く うちは一族とは何なんだ? ・・・何を知ってる!?」
たとえ敵対しているとはいえ、サスケは自分の一族を《悪の一族》なんて言われて、いい気分なハズは無いですよね。 《敵=悪》という短絡的な発想は、戦国時代を生き抜いた忍ならではの発想で仕方ないとは思うんだけど、その固定観念が無益な戦いや誤解、憎しみの根源のような気がします。サスケ、よく堪えたな・・この程度の事は覚悟していたんだろうな・・。
で、またしても、オロちゃんのご指摘が鋭いのです。うちはを悪と捉えるという事は、つまり《うちはが恐い》ってこと・・・ そして、恐いという事は、うちはをよく知らないという事。 知らないモノは恐い、恐いものは悪いモノだと思いこむ・・・オバケを恐がる心理と同じですよね。
だから、研究者大蛇丸は「知りたいと思うこと」の重要性をカブトにも説いていたのだと思います。 何事もまず、《知りたいと思うこと》から始まり、解決していくのだと。
それに対して扉間が「お前はマダラを知らぬ」と言ってますが、これはワシはマダラを「知っている」という意味ですよね。だけど、扉間はいったい、マダラの何を知っているというのだろう・・?
その疑問に、サスケは鋭く「(アンタは)何を知ってる!?」と聞いてますけど、ここまで冷静だったサスケも、さすがにここでは語尾に「!?」がついている・・
「うちは一族とは何か」・・・
それに対する扉間の答えは、《うちは一族を医学的(生物学的?)見地から分析観察した答え》でした。 うちはの感情の仕組み、感情がチャクラや体に及ぼす影響・・
確かに、それも「うちは一族とは何だ?」の答えの1つですよね、扉間も彼なりに彼の方法で「うちは一族とは何か」知ろうとしたんだと思います。 いかにもインテリ研究者扉間らしい、頭で「理解した」うちは一族像なんですよね・・。
以前、《カカシの理解力》という雑考で申し上げた、「理解」の第一の意味、頭で理論を解する理解ってやつです。
心で分かる理解じゃあなくって、頭での理解。
そして、扉間らしい発想が、次の言葉にもよく表れているんです、
「うちは一族と我ら兄弟千手一族は・・・ 元来その二つの一族は敵同士だった」。
これ、似たような事をオビトも言ってるんですが、表現が全く異なるんです。
「もともと うちはと千手は一つだ」 (54巻、小南への台詞)。
元は千手もうちはも六道仙人の子孫なんだから、「1つ」でもあるし、2人の息子の対立以来ずっと対立してるんだから「敵同士」とも言える・・・ これも捉え方次第、何を重要視するかで考え方が変わってきます。
大蛇丸が指摘したように、扉間にはよほど「マダラ」がトラウマになっているとみえますが、それにしても極端なうちはへの恐れや警戒が、うちはを「悪」と決めつける結果になってしまったような気がします。
「うちはの者か・・・なるほど悪党に付くだけはある」なんて言い方も、うちは=悪という思い込みが激しすぎる。 そして今の木ノ葉も、扉間の考えをそのまま「受け繋いで」しまってると思うんです(これも大切に託され受け継がれてきちゃたのかな;)。
その典型的な考え方の例として、以前からブツブツ書いている点・・・九尾チャクラモードのナルトやミトのモヤモヤ感知能力について、オビトは「敵意感知」という言葉を使っているのに対し、シカクやナルト自身は「悪意感知」と呼んでいる事にも表れています。悪意と敵意じゃ全然違いますもん。
ミトやナルトの感知というのは、おそらく相手の《戦意や警戒心》を感じ取るモノだと思いますが、それって悪いって言う訳じゃあないと思うんです、敵意=悪いとは限らない。 だけど木ノ葉式発想によれば、敵意=悪意なんですね。
相手の事がよく分からなくっても、敵対してるんだから悪と決めつけてしまう・・・・その発想は、扉間の時代からず~っと続いてきたんですねぇ。
でも、これからの忍達には《敵=悪》の発想を、ぜひぜひ変えてもらいたい!今までの発想を変えない限り、ホントの平和なんて絶対掴めっこないんだよ!と何度でも叫びたい気分です。
《敵は闇落ちしてるから改心させてやるんだ》なんて思い上がったお節介を考えているうちは、お互いにダメだと思うんです。もっとも扉間の時代は戦乱の時代・・扉間の政策は悪いばっかりじゃあないんですけどね・・
扉間は『ワシはうちはの力を里の為に貢献できるよう 形を整え導いたつもりだ』とも言ってますが、これは「改心させてやる」発想に近いもので、そういった思い上がりが問題を生じさせてるんだと思います。そして、これはマダラの無限月読という大いなるお節介にも言える事でして、両方が自分の考えを押し付け合ってる間は、「理解」には程遠いんじゃないだろうか・・・。
(その3、「写輪眼とチャクラ」へ続けます・・・)