ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

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NARUTO-ナルト- 622:届いた 今週のジャンプ・ナルト感想 (WJ14号) その2

 

NARUTO 622:届いた その2

(その1の続きです)

・《本当の協定、本当の同盟》
 
「大人達はバカだ 戦いをなくしたいなら敵と協定を結び戦いをやめればいい」
「これからの忍は感情を抑え きっちりルールを作ってそれに則って余計な戦いを避けていけばいいんだ」 (扉間)
 
この頃から、もう生意気に腕組みしてるんですねぇ・・・扉間。 そして「悟ってる」。
 
「やられたらやり返す」のが当たり前で無法状態だった(と思われる)この時代なら、扉間が言ってる《忍は感情を抑え、ルールや掟に従う》というやり方は、合理的で大胆な「治療的な」考え方だったんじゃないかとは思うんです(ただし、あくまで「この時代だからこそ」の方法だとは思うんですが)。扉間も、子供ならではの「客観的な視点」で、クールに「大人の野蛮な世界」を見てたのかもしれません・・。
 
「本当の協定・・・同盟はできねーだろうか・・・」
 
「本当の」ということは、既に「形だけの(紙切れでの)同盟」は存在していたんですね。
しかし59巻のオオノキの回想では、岩と木ノ葉(柱間)の間で結ばれた同盟を、マダラが反故にして「同盟などない」と言ってましたっけ・・・いったい、マダラと柱間の間で「同盟」についてどんな考えの違いがあったのでしょう。
 
 
・《マダラが「掛けた」もの》
 
久しぶりに川で再会し、柱間の悲しそうな背中を見たマダラ・・・
 
「何があった?」 「何だったら話してみろよ」 「いいから・・ 言えって・・」 
「イヤ・・ 引っぱりすぎ・・ 聞いてやるっつってんだから・・・」 
 
「さっさと話せェ!!!」 って・・・
 
・・・マダラ、優しいじゃないか! というか、かなり強引な親切というか、やっぱり強力お節介な人なんじゃないだろうか、この人は。 だけど、そのぐらいマダラが強引に柱間の心ン中に踏み込んだからこそ、柱間も涙を流せたんだと思うんです。 おそらく、一族の前では柱間は「頑張ってた」んじゃないかと思うのに・・・・
 
「・・・弟が死んだ・・・」
 
「・・・・!」 

「ここへ来るのは・・・」
「川を見てると心の中のモヤモヤが流されてく気がするからだ・・・」
「マダラだっけか・・・ お前もそうだったりしてな」 
 
「・・・・・・」 
 
そういえば、イタチやサスケも一人で水面を見つめていたことがあったけど、同じように心のモヤモヤを流したかったのかなぁ。 「常に動いている」川の流れを見つめて考え事をしていた柱間、そしていつも水切りの練習をしていたマダラ・・・柱間に指摘されて「・・・・」となった、マダラの表情が悲しい。
 
「・・・お前 兄弟とかいるか?」 
 
「オレは・・・ 5人兄弟・・・」
「だった・・・」 
 
「・・・・・」
 
弟が死んだという柱間の言葉への、マダラの「・・・・!」と、
川を見に来ているのは(お前もか)という柱間の言葉への、マダラの「・・・・」と。
そして、5人兄弟「だった」というマダラの言葉への、柱間の「・・・・・・」と。
 
この前の出会いで感じた『何となく近いモノ』は、同じ心の痛みだったのだと・・・互いに交わした『・・・・・』で、2人とも確認し合ったんじゃないだろうか。 そして・・・この時、やっと互いの心に「届いた」んじゃないかと思うんです。
 
「お互い死なねェ方法があるとすりゃあ・・・」
「敵同士腹の内見せ合って隠し事せず 兄弟の杯を酌み交わすしかねェ」
「けどそりゃ無理だ・・・ 人の腹の中の奥・・・腑(はらわた)まで見るこたぁできねーからよ」
 
マダラは、戦いを止めるためには「腹の内見せ合って隠し事しない」と考えてたんですねぇ・・・兄弟の杯を交わす、《信じ合って絆を確認する》。 
ちょっと気になったのが、柱間が考えこんでいた「本当の同盟、協定」の形なんです・・・柱間は、マダラの「兄弟の杯」という言葉に何かヒントを得たのかもしれない、「紙切れだけじゃない、本当の同盟」を・・・。その手段の1つが、信頼の証としての尾獣のやり取りだったのかもと思うんですが、それについて 後々マダラと柱間の間に深い溝が生じていったのだろうか?
 
「・・・腑を・・・見せ合うことはできねーだろうか?」
 
「分からねェ・・・ ただオレはいつもここでその方法があるか無いかを 願掛けしてる」
 
(マダラは、やっと水切りを成功させる)
 
「今回は・・・ やっとそれがある方に決まったみてーだぜ」
「お前だけじゃねェ・・・ オレも・・・」
 
「届いた
 
マダラが、ここで「水切りしていた理由」・・・それは「願掛け」してたんですね。
 
それも戦いをなくすために「敵同士 隠し事せず腑まで見せ合う方法があるか」を願掛けしていた。 
マダラが願掛けの為に「水切り」を選んだのは、逆らうことのできない流れに負けることなく、自分の意志(石)を貫き通せるかどうか・・・想いが「届くか」を試したかったんじゃないのかな。一気に投げてしまえば簡単に届きそうな石を、あえて水切りで向こう岸へ到達させるという難題を課して・・・
 
この時「やっと」マダラは水切り成功したみたいですが、なるほど・・今までマダラの水切りが「届かなかった」のは、技術的な問題のせいじゃなく「願掛け」していたから・・・なんですね。 マダラと柱間2人の想いがやっと通じ合い 互いの心に「届いた」からこそ、願掛けの石も向こう岸に「届いた」・・願いが「聞き入れられた」のかもしれません。
 
 
この時・・・2人は、岸の《同じ側に立ち、同じ思いで、同じ方向を向いて同じものを見ていた・・・》 だからこそ石(意志)も届いたと思うんです。でも・・・終末の谷では同じ方向を向かず、互いに向き合って違う方向を見ていたから、本当の意味では「届いていなかった」んじゃないのかなぁ。
 
 
 
そして、例によって漢字の話なんですが、夢や希望を「かける」の文字でも、様々な「かける」が今まで登場しているんです。で・・・その違いが微妙にある。 
 
綱手は、ナルトに縄樹とダンの夢を「賭け」ていますし、小南は、弥彦と長門の意志を 平和への橋に「懸けた」・・・・出来上がった目に見える「架け橋」じゃなくって、願望や夢の「懸け橋」を※509話雑考「平和への懸け橋」)。
ちなみに、ナルトは、波の国に“勇気という名の希望の橋”をかけていますが、この場合は平仮名表記の「かける」・・・実際に勇気の橋を「架けた」んですが、希望を未来に「懸けてもいる」ので、あえて「ひらがな表記」になっているんじゃないかと考えてます。
 
そして、マダラは願いを「掛けた」・・・
 
この場合の「掛け」は、神仏に願う「掛け」。不可能とも思える願望を実現するために、逆境を乗り越えながら「神に伺いをたてて」決意するという「掛け」だと思うんです。 石が届いた=意志が届いたことで、神に願いが通じた・・
 
だけど柱間のほうは「賭け」なんですね。 水切りをしながら、向こう岸まで届くか「賭けて」いた。 そして・・賭けに勝った。 意志が届いた。
 
2人両方の「石(意志)」が届いた時・・・それは柱間とマダラの「掛け」が神に届いて、柱間の「賭け」が勝って、2人が「運命に選ばれた2人」になった瞬間でもあったと思うんです。 それぞれが、夢の実現に向け・・・さらに運命の子としていずれ「1つになるため(戻るため)」に再会する道は、「ここ」から始まったのかもしれません。
 
だけど、後に二人のこの「かけ違い」が大きな分かれ道になったのではないでしょうか。 神に頼ろうとするマダラと・・自分で一か八か試したい柱間と。それぞれの道が始まったのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
☆長駄文、読んでくださって感謝。
 
 
 ☆621話で柱間が言っていた「オレ達の兄弟を侮辱するだけぞ」・・・そして「お前に・・・オレの・・」。
兄弟たちの死を「犬死」にさせたくない柱間と、弟の死を犬死としか思えなかった(と思われる)マダラの間に、何があったんだろう・・。

☆カカシはオビトの「時空間」にまで踏み込んだのに・・そこで腑を見るのではなく、腑にパンチしてくるとはなぁ・・・
 
 
 
(ナルト好きブログ!2013/03/04)