ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

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NARUTO-ナルト- 628:ここに、そしてこれから 今週のジャンプ・ナルト感想 (WJ22/23合併号) その1

NARUTO 628:ここに、そしてこれから (1)

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柱間ァ・・・!!! (ニィ)
 
・・ってぇ(笑)スッごい形相になっちゃってますが、柱間チャクラに気付いて、歓びに震え狂喜するマダラさん。
そうか、イカつい顔が喜ぶと、こうなるのか・・。後姿で《感じてる》2コマが描かれた後、次頁でドーンとこの顔のど迫力。
 
実は、今週号で私個人的に《一番気になった絵》は「この絵」じゃあないんです(「その2」で後述します)、だけど「あまりのインパクトの強さ」に、思わずコレをトップに持ってきちゃいました。 
五影達に「オレを止められるのは柱間だけ」 「柱間は最強の忍」等々言ってたのも「柱間出せ」アピールに他ならなかったんですな・・。 時空を超えてまで抱く慕情を見ていると、友情の一線を越えてる気もしないではないですが、いや、マダラには友情や愛情、憎しみをも超える(彼なりの)崇高な願望があるように思えてきます。 
因果を断ち切ると言ってたわりには(それどころか)思いっきり「因果」にこだわってるんじゃないの、マダラさん・・・。
 
さて、今回は久々に「戦場」に話が戻りましたが、こちらも「いよいよ」の展開になってきましたね。最後のページの絵なんて、遂にラストステージかと思わされるような光景です。
 
 
・皆を守るナルトのチャクラについて…
 
 
617話で十尾との「つながり」を切られたマダラとオビトですが、再びチューブで繋がる事は出来ないんですかね・・あれ以降「十尾」は野放し状態のようですが、「山土の術」(黄ツチと黒ツチの術)で挟まれているせいか(あるいはチャクラを溜め込んでいるせいか)思ったよりは暴れてはいない様子…
マダラの「火遁・豪火滅却」とオビトの「火遁・爆風乱舞」、見下ろす視点から描かれた《ゴゴッ》と地を舐めるように拡がる火と「米粒のように小さく見えるナルトチャクラを纏った忍達」との対比で如何にスケールが大きいか分かりますが、十尾が片手を叩きつける「ドコ!」の文字は、火遁の《ゴゴッ》の文字を挟むように「遥かに大きく書かれている」点・・・そして火が進むスピードより「速く先まで」グラグラと地を揺らして割っている点を見ても、十尾のパワーが「計り知れねェ・・ってのが量れるだけだ」 (九喇嘛の言葉を借りると)。
 
その猛攻から皆を守っているのは、須佐能乎のように衣となって皆を守る、九喇嘛のチャクラ…いや、ナルトのチャクラ。 
 
小さなトトロみたいな耳付きの可愛いチャクラの衣、正しくは「九喇嘛チャクラ由来の、ナルトチャクラ」ってところでしょうが、私は今まで「九喇嘛のチャクラ」と呼んでいたので、忍達が「ナルトのチャクラ」と言ってるのに軽く戸惑いました。
 
ナルトのチャクラの衣がなかったら 豚の丸焼き以上になってたよ!!」 (チョウジ)
「…ずっとナルトのチャクラが皆を守ってくれてる」 (サクラ)
「クソ…このナルトチャクラありきの山土の術を」 (黄ツチ)
 
ふと思ったのですが、我々読者と「忍連合の忍達」の間には、かなりの「認識の違い」があるのではないでしょうか。 
 
読者は、ナルトと九喇嘛の「今まで」を知っている…ナルトが少しずつ九尾の心を理解し、九尾ではなく「九喇嘛」と名前で呼ぶようになり、腑(はらわた)を知って共闘に至り、九喇嘛が人間にチャクラを「プレゼント」するようになるまでの長い道のりを… 
読者はその「感動的な道のり」を知っているし、九喇嘛の「本当の心」も知っていますが、一般の忍達はどこまで「九喇嘛の愛」を感じているのかと言えば、「まだまだ実感できていない」のが実情ではないかと思うのです。
 
九喇嘛は忍達の前では「実体化」はしていないから、八尾みたいに「目には見えない」し、ナルトの「中」で交わされる《ナルトと九喇嘛の会話》も読者以外には「聞こえていない」… 
 
人間ってのは『目に見えないモノ、耳に聞こえないモノ』を認識するのが極めて苦手ですから、九喇嘛のチャクラを「ナルト経由」で貰って守られていても、“九喇嘛の愛情”を感じることは、まだ出来ていないんじゃないだろうか。 意識的に繰り返されている「ナルトのチャクラ」という言い回しは、忍達が感謝している対象があくまで「ナルト」と「ナルトチャクラ」に留まっている事を示しているように感じられるんです。 おそらく九喇嘛の存在をしっかりと《認めている》のは、共闘を望んでいたミナトと、実際に九喇嘛と会話して「共闘」したガイとカカシ(そして当然の事ながらビー)ぐらいじゃないかと思うんです。 
 
人間とは、そのぐらい「己の目で見て、直接聞いたモノ以外は感じることができない」・・・愛情には鈍感な生物と言いましょうか。 そのわりには、己にとって「危険」と察するモノに対しては敏感(本能的なモノかもしれませんが)、先日の扉間の発言「うちはの(うわさ)を知らないのか?」にも示されてる通り、良くない事、危険と思うモノは自分の目で見ず聞かずの「噂」レベルでも意外と信じてしまったりする・・・
 
人間が、あらゆるモノと和解出来ず多くの敵を「作って」きたのは、疑ったり「憎悪」や「危険」を感じるのは「容易」だが、信じたり「愛情」や「安心」を感じるのは「困難」だからなんだろうか。
 
尾獣と人間の関係、忍達の戦いの歴史、もっと具体的に言うならナルトと九喇嘛の関係、ナルトと里の人達の関係、柱間とマダラの関係を見ても、《理解し認め合い、信頼を築く道のりは長く困難》であるのに対し、信頼が崩れるのは一瞬でもろい》ことが分かる・・・彼らの物語を通してそれを実感させられた気がするのです。
本題から外れてきちゃいましたが、忍達が「ナルトのチャクラ」という表現を用いていることは「ナルトが全ての忍達に信頼され、認められてきている」という、つながりの証でもあるけれど、「尾獣と人間」の間にはまだまだ「絆」と言える信頼は築けていない、「尾獣はまだ人間達に完全に認められてはいない」という事でもあるんじゃないだろうか。
 
ナルトに感謝しつつも、己の身を守ることで必死(手一杯)な忍達の中で、「ナルトを心配し見守る忍」が2人・・・サクラとカカシ。これは素直に嬉しかった・・・
 
(こんなこと続けてて 大丈夫なの・・・? ナルト) (サクラ)
 
こういう時のサクラは女の子らしいんですよね~・・あまり「本来の優しさ」を表に出せるタイプではありませんが、上っ面だけの優しさを見せびらかすタイプの子よりは、不器用でもずっと誠実だと、私は思うのですがね・・・。
《どうして男の子って無理ばっかりしちゃうのかな・・》と涙ぐんだり(93話で)サクラは意外と陰で「心配する」タイプで、どっちかというとヒナタの方が「激励」できるタイプ・・・見た目とは意外と違ったりする・・・
 
「上だナルト!」  (カカシ)
 
ナルトの頭上にオビトがズズッ・・と出てきた時のカカシの言葉ですが、カカシはナルトを「見守る」ことに徹してる(前は「挿し木の術」からサクラを守ってましたが)。 こういった「小さな描写」ではありますが、誰もがナルトに頼りきっている状況でも「ナルトを思い遣り、見守る」仲間がいる・・・この広い戦場に於いても「第七班のチームワーク」はしっかりと紡がれている、いや広い戦場だからこそ、小さくても大切な絆を確かに感じることができるのが、とにかく嬉しく感じられてしまうのです。
 
 
・なぜ、オビトは「わざわざ」話をしに来たのか・・・?
 
 
「ナルト… 皆を庇い防戦ばかりになってきてるぞ」
「この状況に意味があるのか?」  (オビト)
 
“わざわざ”こんな話をするために ナルトのところに来たんですか・・オビトは。
 
「敵」としては、遠くから爆風乱舞なんて派手に仕掛けてるくせに、こっそり接近してきた時は一切攻撃はしないうえ、しかも言う事が「防戦ばかりになってきてるぞ」とか・・試合中の選手にコーチが掛けるような言葉じゃあないですかコレ。
 
時に「圧倒的な力で立ちはだかる敵」となり、時に「スパルタ式コーチ」となる…
オビトの「敵」と「コーチ」の二役ぶりは、ナルトと「頭突き(564話)」して直接対決になってから顕著になってきてますが、実はもっと前から・・ではあるんですよね。
例えば、鉄の国の宿屋に“わざわざ”ナルトと話をするためだけに出向いてきて、六道仙人や千手とうちはの歴史を教えたり、「イタチの真実」を教えてサスケの事を理解させようとしたり・・(アレは、かつてミナト先生がオビトに「サクモの真実」を話してカカシの事を分かってやれと言ってくれた、あの時の恩返しかと思っていますがね)、あの時も「コーチ」的な面を見せていたんです。
 
以前の雑考でも申し上げた通り、鉄の国宿屋でのオビトは、珍しくチラッと「素」を見せており、あれは開戦前にカカシとナルトに「最後の確認(仕上げ)」をして「じゃあな」と別れを言う為に“わざわざ”やってきた・・と思っております。
 
なので、今回も戦闘中に抜け出して、“わざわざ”ナルトの近くまで来て「話だけをしていった」のは、まるで、あの鉄の国の宿屋の「最後の別れを言いに来たような場面」のようじゃないかと・・妙に重なるのであります・・・
 
(その2へ続けます・・・)