ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

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NARUTO-ナルト- 634:新たなる三竦み 今週のジャンプ・ナルト感想 (WJ29号) その2

NARUTO 634:新たなる三竦み その2

(その1の続きです・・)
 
・《サクラの涙》
 
この時のサクラの涙は、2人の共闘を見て「本当に嬉しくって」の涙だと思うんです。 
だけど不思議なもので、「長年の夢」が実現した時に感じるものは「至上の喜び」と共に「怖れや虚しさ」なんですよね。 「現実の夢」が素晴らしすぎるほど、それが「壊れてしまう」事が不安になる・・ 
 
 
・《サイと重吾》
 
忍連合たちが「十尾倒し」に必死になってる中で、ちょっと違うスタンスで見つめているのが「サイと重吾」。
 
(これが元の七班…)
 
圧倒的な3人の力、いや圧倒的な3人のつながりに戸惑いながらも、サイはとにかく徹底して《七班》にこだわりますねぇ。 でもどうして「カカシ班」じゃダメなの? 何故ここまで「第七班」だけにこだわるんだ?と・・これ不思議に思ってたのです。 どっちもナルト達の仲間であることに変わりないし、別にいいじゃないかって。
 
でも考えたら、確かに・・「カカシ班」とは本来、天地橋任務の為だけに作られた「仮の班=仮の所属先」。 そこでサイは、“サスケの代理”として「本来は存在しない、仮名のサイ」として仮に所属させられたんです。 だけどサイは、サスケの代理(成りかわり)なんかじゃない「確かに存在するサイ」として認められたいんじゃないかと思うのです。 つまり、その為には一時的な仮の所属先である「カカシ班」ではなく「シッカリと存在する」第七班のメンバーとして認められたいのかもしれません。
 
正直、ナルト達には《なぜ、そこまでサイが第七班に必死になるのか》その気持ちが分かってないと思えるのですが、サイの心理は、カブトが「どうしても自分のルーツや所属、居場所が欲しかった」心理と共通していると思うのです。
 
 
そして、重吾。
 
(・・・・・・・)
 
鳥と会話ができ、人間としてはもっとも「仙人」に近い肉体を持っていると思われる重吾は、十尾という「巨大な自然エネルギー」を前にして、一般の忍達とは明らかに違う「何か」を感じていると思うんです(しかも今は柱間細胞も体内に取り込んでますからねぇ)・・しかし暴走する事もなく、いたって冷静。
 
(サイ) 「サスケの言った事… 君も見て聞いていただろう… 彼の本当の狙いは何なんだ…?」
 
(重吾) 「……」 「さあな…」
 
重吾は、サスケの事を「君麻呂の生まれ変わりの様な存在」と捉えてきた訳ですが、今もサスケと君麻呂を重ねているんじゃないだろうか。 君麻呂の最期を見届けた我愛羅は、こんな事を言ってましたよね・・・
 
「己が崇拝する者の名誉が傷付けられたと感じると 己がひどく傷付いて激怒する… 崇拝する者が大切であれば大切である程…」
「その大切な者の為に闘う…」
 
君麻呂は大蛇丸の名誉が傷つけられる事に激怒し、そして大蛇丸の為に、大蛇丸の意志を守る為に全てを捧げ身を殉じた… 
サスケも君麻呂同様、イタチの名誉が傷つけられれば怒りを感じるだろうし、イタチの意志を守る為なら「全てを捧げ身を殉じることも厭わない」んじゃないだろうか。
 
「燃え尽きろ・・・」
 
サスケがジッと「先」を見つめて言ったこの言葉は何に対して向けられたモノだったのだろうか。
「十尾」に向けてというよりも、「自分」に向けてのモノだったのだろうか・・?
 
サスケが「お前らがオレの事をどう思うかは関係ない」とか「チャラにはできないだろう」と言ったのも、自分の事を「分かってもらう」事は初めから望んでいないからだとは思うんですよね。 イタチが「汚名を着せられたまま」里を守ったのなら、サスケだって「汚名を着せられたまま」里を守って死ぬことも覚悟しているんだろうか。自分一人が「英雄」になることだけは、サスケには絶対に受け入れられないハズだから・・・ 
 
「火影になる」と言ったのは、自分が「本気」であり、忍として「最後までナルトと対等で在り続けたい」という、ナルトを遠回しな表現で「認めた」ものでもあるのでしょうか。 かつて病院の屋上で「闘い」を誓った時のように・・
(個人的には最終的にはツイン火影誕生であってほしいと願っちゃうのですがね・・)。
 
以前重吾は、サスケについていく理由を、こう言ってましたっけ。
 
「君麻呂はサスケを自分の生まれ変わりの様な存在だと言い命を懸けて守った…」
 
「お前がどれほどの忍か 見届けてやる」と。
 
重吾は、今がその「見届ける時」と確信してるのだと思いますが、その視線はまるで六道仙人の視線と言いましょうか・・・彼だけがこの戦場で「異質」な感じがしてしまいます。 そして「サスケは君麻呂が命を懸けたに価する忍だった」と判断した時、重吾はどうするつもりなのでしょう・・(コレが気になります)。
 
サイも、ナルト達がこだわり続けるサスケを《もっと知りたい》想いがあるのかもしれません。「サスケ」を理解すること無くして第七班の一員にはなれない事を、サイはもう分かっているでしょうから・・。
 
 
《そして、さっきまで「嬉し涙」を流していたサクラが、サスケの「孤独な後姿」に何かを感じたのでしょうか・・表情を強張らせる》 
 
「近くに居る」はずのサスケの背中が、なぜか遠く感じるような・・かつてサスケに感じた「寒さに耐えて立つ水仙の花」のような後姿を、サクラは再び感じてしまったのかもしれません。 サスケが感情を「内に抑え込んでいるような思い詰めた背中」・・・これは少し前にも感じたのですが(※過去記事)、何だかなぁ・・「うちはの家紋を背負う後姿」ってのは、なぜか哀愁、孤独を感じさせるんです。
 
サクラは、他の誰よりも「サスケの弱さ」を見てきてますよね・・何故かサスケはサクラの前では「カッコ悪い姿」を見せているんです(呪印で暴走しかけたり、サクラを殺しかけたり、狼狽える姿を見せたり、喚いて見せたり)。 サクラはそれらを受け入れたうえで、サスケを想っているのでしょうが・・サスケの背中に背負う「家紋」があまりに重すぎる事も、それに1人堪える姿が「孤独」なことも・・ずっと感じてきてると思うのです。 そして、追いかける度に、その背中は遠くに行ってしまうこともサクラは「イヤってほど知っている」。 
 
サクラは漠然とした不安に、襲われているのかもしれません・・「再び」サスケを失ってしまうような不安に。
 
《独りで全てを背負い込む、自己犠牲型の愛情表現》・・これがうちは一族お得意の“愛情表現”でありますが、これが実に厄介なんですよね・・・ なぜなら、それは時に「汚名を注がれる役を一人で引き受けてしまう」傾向として発現しますから。 
だから「悪に憑かれた一族」とか、愛情に目覚めると「悪に落ちる」と“誤解されがち”なのでしょうが、本当はそれは究極の「見返りを求めない愛情」の表現でもあると思うのです。 
 
イタチ、マダラ、オビトの例を見てもそれは明らかだ(と思う)し、フガク達もおそらくそうなのではないか・・と私は考えてます(そして、サスケも・・その一人なのでしょう)。 具体的にサスケが何を考えてるのかは分かりませんが、サスケが「うちは特有の自己犠牲愛情表現」で誤解されたり、玉砕してしまう前に・・サスケが何も語らないつもりなら、今度こそサスケの腑を引きずり出してでも、同期達にはサスケを「守って」ほしいのです。 同期達は、サスケをもう二度と「失っては」いけない。
 
 
・《そして・・オロちゃんカム!》
 
 
「ずいぶんな様ね…綱手

・・って、これだけでもう泣けてくるじゃないかぁ・・! 
 
やっぱり大蛇丸“遅刻の理由”も人助けでしたか。 困っている“バアチャン”を助けてあげました、っていう(笑) いやぁ良かった、大蛇丸の表情も「天使様」の如く美しく見えてしまう(大袈裟)。 
 
しかし相変わらずな「ひと言」ではありますが、今回のこの台詞には全然「毒っ気」を感じません・・それどころか「温かさ」さえ感じてしまうのです。 もっとも今までの「余計なひと言」だって、実は大蛇丸の「優しさ」から出た言葉だったとは思ってますが(大蛇丸のひと言癖)、今回の台詞を「温かく」感じてしまうのは、我々がもうオロちゃんの腑(はらわた)に気付き、大蛇丸に対する「認識(イメージ)」が変わってきてるからかもしれません(今も大蛇丸は許せないし信じられないと思う方も当然おありでしょうけども)。
 
十数年ぶりに見る「元仲間」の腑(はらわた)に、綱手はどんな想いでいるだろうなぁ・・・もう、こうなったら、口寄せ「自来也!」とでも言いたい気分…いや、ホントに会わせてやりたい。 
 
しかし、かつて「木ノ葉崩し」で里を襲った大蛇丸が、五影達を助けるなんて実にいい話じゃないですか。これで「大蛇丸への誤解」が解け、忍達の「大蛇丸への視線」も変わるんじゃないだろうか(願望)。 
もっとも、大蛇丸自身は「誤解を解いてもらう事」など初めっから望んでいないだろうし、大蛇丸が五影を助けに行ったのは「かつて五影会談を襲ったサスケ」の為でもあるのかもしれない。 だけど、それでも忍達に「本当の大蛇丸」を理解してもらいたいと思うのです。
 
敵を責める事は容易いが、受け入れる事は当然難しい・・ 
 
でも「木ノ葉隠れ」を柱間とマダラが創った時だって、「過去のアレコレ、恨みつらみ」を気にしていたら、そんな「画期的な事」は出来なかったハズなんですよね。 
で、忍達も・・お互いに「同じ立場で同じ力で」寄り添い、合わせ続けていくことが大切なのだと気づいてきてると思うんです。 今、忍達が向き合おうとしている問題は「これから」の事・・・そして、それが最重要なことだとも思えるのです。 
 
 
・《さて、黒炎で燃える十尾なのですが》。
 
なぜか思い出してしまうのは・・《43巻で、転写封印天照の黒炎を喰らった「トビ」が無傷で暗闇から再登場した時》・・
 
忍達は十尾を倒せたと思っているみたいですが、十尾は今まで「忍達の総攻撃を本体に受ける度に進化」してます・・いや、八つっあん流に言えば《元に戻っている》といったほうが正しいのかな。 
だから、これがキッカケで逆に「元の姿(つまり完全体)」に戻ってしまうのではないかとも思えるのです。 
でも、色々と十尾の事は知っているハズの『八つっあんと九喇嘛』が、なぜ余計な口を挟まずに「忍達主導」で任せているのか・・そこも気になるんです。 彼らは、六道仙人のジジイに何か託されているんだろうか・・あくまで「忍達」に判断させるべき、とか・・。
 
全ての忍術「祖」が十尾であるのなら、本来「十尾の力」である忍術でぶつかっても意味は無いのかもしれません(吸収されるだけじゃないかと)。 案外と、マダラさんが今まで言っていた事・・・あれは十尾を「止める」ヒントでもあったりしないだろうか・・?
 
「オレにその手の忍術は通用しない」
「オレをやるなら直に殴り倒し封印するしかないと分かっているだろう」
「オレ(十尾)の術でオレ(十尾)をやれるか」
 
・・・・いや、十尾は「やっちゃ」困るのですけどね。でも、マダラもオビトも・・今までの言動を見てると、2人とも本当は「十尾の見る夢」無限月読を忍達に止めさせたいんじゃないか(と思えてしまうのです)。 「十尾」に対する認識は、マダラとオビトではちょっと違うような気がしていますが・・
さて、十尾も新展開なら、「大蛇丸同期組」、「マダラと柱間」、「カカシとオビト(&彼らの同期)」、「サスケと同期達」の新展開にも期待しちゃいます。 とにかく、もうすぐ…忍界の“暁”の時は迫っているはずなのだから(そして、“暁”の本当の意味が明かされる時も・・ね)。
 
 
 
 
 
☆長駄文、読んでくださって感謝。
 
 
☆追加記事でいくつか補足するつもりです・・
 
 
 
 
 
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