NARUTO 643:合わせる拳・・・!! その1
長い長い時を超え・・・陰陽九喇嘛、ナルト&ミナト、遂に共闘!!
ついに、ついに来ましたか―-陰陽九喇嘛、ミナトとナルト横並びで拳を合せる時が。
陰陽九喇嘛とナルト、そして父ちゃんの《共闘の時間》。
今週話は570話「九喇嘛!!」の回と、ちょっと重なります(ちょうど、一部地域では今週木曜日が「九喇嘛!!」の回のアニメ放送ですね)。 あの時は、まだ「陽九喇嘛とナルト」だけだったけど、今回は2匹と2人(同じ九喇嘛だから2匹ではないか・・)・・・まさに「時空を超えて」の共闘。
しかし、ミナトの中の「陰九喇嘛」・・・これがまた、いいことを言ってくれる!
・「尻拭(しりぬぐ)い」について
「ミナト・・・」
「お前は息子(ガキ)に己の尻拭いをさせるつもりだったのだろう?」
「だから息子(ガキ)にワシの残り半分を封印した・・・ワシの半身と協力する事を確信するかのようにな」
・・そうか、ナルトがやってる事って、ミナトの《尻拭い》だったのか(笑)
《尻拭い》ってのは、言うまでもなく 単純に「お尻を拭くこと」と、「人の失敗の後始末をする」って意味ですけど、コレ…いかにも九喇嘛らしい、ちょっとシニカルな言葉ですよねぇ。 ミナトが気にしてる事を、さりげなく鋭く突く。・・・でも、
確かに、ミナトはナルトに「尻拭い」させるつもりだったのかもしれない。
ミナトは「肝心な時に間に合わなかった人」でもあるし、「やりかけで終わった人」でもある。
螺旋丸も“あの術”も、結局未完成の術だったみたいだし、面の男との決着も世界を救うことも、結局「ナルトに託した」…それは「尻拭いさせるつもりだった」と言えるのかもしれない(言い方悪いけど)。
でも、この「尻拭い」発言には、九喇嘛の“優しさと賢さ”を感じるんです。
「なら今さら後悔するな」
「クシナが死んだのはお前のせいではない… 息子を人柱力にした事も悪いことではない…」
「世界がこうなってしまったのを今まさに…」
「変えようとしとるのがお前の息子だ」
陰九喇嘛の言葉に説得力があるのは、《尻拭いさせたという事実は否定しない》からだと思うんです。 事実は事実として受け止める…そのうえで、それがいい結果にもつながっている事も認めてやる。「尻拭いさせた事」が悪いばっかりじゃないってことを、ちゃんと伝える。 九喇嘛の言葉は、一時的な慰め(ごまかし)なんかじゃなく、ちゃんと「事実を見つめ、それを認めている言葉」・・・それが「上っ面の優しさ」の安易な慰めではなく、誠実な励ましになっているんじゃないだろうか。
九喇嘛が「尻拭い」という言葉で皮肉ってるのは、ミナトの「失敗に対して」ではなくって、ミナトが「失敗を後悔しまくって本調子じゃない様子」に対して・・かな。
そもそも、今の忍達がやっている事は「六道仙人の尻拭い」とも言えるのだから。 誰だって「誇り高き失敗者」…失敗のない人なんて、まずいないですよね。
ちょいと話が逸れちゃいますが、以前にも《尻拭い》について雑考したことがありまして・・・
マダラ爺ちゃんが十尾の尾獣玉を遠くにブッ放して遊んだ時(613話「頭」)、オビトが十尾の力を借りた神威で『シカク達を神威空間に退避させたんじゃないか』という仮説を当時の雑考に書いたのですが(あくまでも当ブログの仮説でしかありませんが)、それはオビトにとって、爺ちゃんの子供っぽいお遊びの「後始末=尻拭い=下の世話」だったのではないか、と(推測)。
オビトはマダラに「助けてもらったお礼」として、「下の世話とか?」と聞いた時、マダラは「それもいい・・」と言ってましたよね(笑) だから《下の世話=尻拭い》を実行してるんじゃないだろうか、と。
「尻拭い」といっても、ただ「お尻をふく」だけじゃないですもんね・・・後始末から「意志の継承」まで含む。
オビトがやってるのも、ナルトがやってるのも、爺ちゃん父ちゃんの《尻拭い=後始末=意志の継承》なのだろうか、と。
だから、尻拭いと言っても、それは「後を託すこと」でもあり、託される側としては「恩返し、孝行、感謝」だったりする…互いを繋ぐ「愛情表現」の手段になったりもする。 尻拭いさせるのは悪いとは限らないんじゃないかな・・。
そして、陰九喇嘛がミナトに「励ましの言葉」をプレゼントをしたのも、かつて九喇嘛を「信じてくれた事」への感謝の気持ちもあるんじゃないだろうか。 ミナトが生まれたばかりの息子に九喇嘛の半分を封印したのは、「息子を信じて」でもあるけれど、「九喇嘛を信じて」でもありますよね。
里をあれだけ破壊しつくした九喇嘛を目の前にしても、ミナトはその九喇嘛を「信じた」・・・ミナトは、九喇嘛の「憎しみ」も「愛情」も、その両方を受け入れたうえで「信じた」。 ミナトのその気持ち…九喇嘛も本当は嬉しかったんだろうなぁと思います。
・オビトのすり抜けについて、再び(三たび・・いや、もっと)?
お尻話題で思わず字数とっちゃいましたが・・・
ナルトの仙術による「螺旋丸」は、見事にオビトを直撃、ダメージを与えましたが十尾の圧倒的な回復力でリジェネ…(九尾事件の時も、オビトはミナトの螺旋丸を背中に食らいながらも、グルグルを着ていたから自動回復していたっぽいですが)。
(ナルト) 「!」 「やっぱ思った通りだってばよ!」
(オビト) 「十尾の人柱力にこんな弱点があったとはな…」 (十尾が入った分… すり抜けも出来ぬか うっとうしい…)
かつての六道仙人の術と思われるモノを「なぜか」いきなり使いこなせているオビトですが、でも『十尾の人柱力状態』を全て把握してる訳でもなさそうですね。
仙術が効く事も知らなかったみたいだし、螺旋丸を喰らってはじめて《今はすり抜けられない》と実感したような、この発言。 だとしたら、先週642話で螺旋丸を《メリメリ》食らいながらオビトが「!!?」と鬱陶しそうな表情をしてたのは、「すり抜けられない」事に対してだったんだろうか。
実は、617話でナルトの螺旋手裏剣で「オビトと十尾をつなげていたチューブ」が切られ、オビトと十尾が切り離された時以降、オビトは既に「すり抜けは使えなくなった」んじゃないかと推測してたんですが(実際にそれ以降は使ってない)、人柱力になっても「すり抜け不可」は続いている…
螺旋丸をぶつけられた時、オビトの右眼写輪眼は「万華鏡にはなってない」ように見えるんです。 普通の写輪眼状態のままっぽい。 なのに《すり抜けられないのか?》の反応をオビトがしているという事は、オビトの《すり抜け能力》に関しては、もともと万華鏡写輪眼『神威』の能力ではない可能性のほうが高いような気がします(カカシもすり抜けられないし、「すり抜け」はグルグルの能力、グルグルモードではないかと解釈しております。今迄のところはですが)。
「十尾が入ったからすり抜けられない」というオビト発言は、オビトに「新たな弱点が確認された」だけではなく、神威空間=時空間が『十尾=神の居空間』という推測に繋がるのではないかと(ちょっち)期待してます。 それが「十尾と時空間の関係」、さらに「オビトと十尾の関係」の解明にもつながっていく「かもしれない」と・・・・。
・サスケの「・・・・・・」
私は雑考(考察じゃない)する上で「・・・・」描写にこだわるのが好きなんですが、それは「作者が読者に隠したがっている、その人物の本音」がそこにあるんじゃないかと憶測するからです。「・・・・」があることで、読者は思わず「想像(妄想)」したり、表情から察して表面的な言動ではわからない「何か」を見つけようとする・・・それが作者の狙いなのかもしれないし、それだけで作品にぐっと奥行きが出来るといいますか・・・。
で、まずはサスケの「・・・・・・」なんですが。
(ナルト) 「仙人のコレならいけんぞ!!」
(サスケ) 「…仙人の力…」
(ナルト) 「ガマの攻撃は仙術つって自然エネルギーを使うんだってばよ 考えてみりゃ十尾の力を感じてみた時 自然エネルギーそのものだった」 「自然の力には同じ自然の力で対抗できるってことかもな…理屈はよく分かんねーけど」 「仙術覚えてといてよかったぜ…!! よォーし…次は蛙組手だ!!」
(サスケ) 「・・・・・・・」
(あくまで「この画です」という意味で、雑な模写なもんで・・本物を見てね)。
先週642話で、「仙術が効いた」事にかなりの衝撃を受けていたサスケですが(サスケにしちゃ珍しく驚きを隠さなかった、いや、隠せない程の衝撃だったのかな)、今週はナルトが嬉しそうに「仙術に関する話」をするのを素直に聞いて、ナルトの横顔を「・・・・・」と見つめてる。
でも、そのサスケの表情は『柔らかい』んです。
以前、似たような状況で(ナルトに「先を越されてる」ことを実感した状況で)、サスケが苛々したような表情を見せたことがありましたが(16巻177頁)、あの時サスケはナルトに完全に嫉妬してましたよね。 目の前に在る「真実」をどうしても受け入れらなかったし、認められなかった。 でも今回のサスケの表情には、嫉妬や焦りは感じらないんです。 羨ましそうな顔ではあるけれど、すっかり頼もしくなったナルトを素直に受け入れて、「認めている」。 そこに、サスケ自身の「成長」も感じるんです。
「友の喜びを、共に喜ぶ」事ができるっていうね・・・(ダジャレじゃない;)
そして改めて、サスケは《仙術、仙人モード》というモノの重要性を感じてるんじゃないでしょうか。
サスケもそろそろ・・・
さらに、もう1人の「いい表情」・・・
・扉間の笑顔
(…ワシとの飛雷神を即座に理解し… 仙人の力まで身に付けている)
(まるで兄者と共に闘っているようだな) (ニコッ)
うん、扉間の笑顔もイイですね!
扉間という人は観察眼が鋭いし、人の短所も長所もよく見えてしまう。 だから「悪に憑かれた一族」なんて厳しい発言もするけど、うちはに偏見があるわけでは無く、うちはカガミを褒めたりもする。
さっきの陰九喇嘛の発言に「薄っぺらじゃない説得力」があったのも、いい部分悪い部分両方を「認めていた」からだと思うんですが、とかく「坊主憎けりゃ袈裟まで」的な発想が多い中で、扉間という人も《冷静に両面ともに評価出来る人》・・・そこにも、この人の魅力はあるんだろうか。
そして、扉間が「ナルトと柱間兄者」を重ねるのも、うん、分かる… 性格も能力も似てますが、例えば「着地の仕方」1つにしても、扉間はお決まりの“片手をついてのカッコいい着地”を(今週も)してますが、ナルトは《ドスン!》という無造作な着地のしかたで、これも柱間にそっくり。
しかし状況的には、さらに「危機的な状況」のハズなんですがね・・・なぜか今回は「笑顔」だとか「穏やかな(幸せそうな)表情」が目立つんです。 それだけ忍達は《大切な、掛替えのない何か》を見つけつつあるんだろうか。
・「お掃除」について
「そろそろ月読の準備をし 掃除もしておくか・・・」
(オビト、十尾花の木(十尾玉発射装置)を出す)
「この現実には……残すに値するものは何もない」
《掃除》って・・マダラも似たような事を言ってましたよね、「戦場の整理」って。
なぜお掃除(整理)が必要なのかは不明ですが、う~ん…《掃除→ゴミ片付け→クズかご行き》…
前にオビトは「クズカゴに入ってろカカシ」と言って、カカシを時空間に吸い込もうとした事があったけど(609話で)、オビトの言ってる「掃除」とは「時空間飛ばし」のことじゃあるまいな:
オビトは「シカク達を時空間に飛ばしたのかもしれない」と考えている自分としては、何かを起こす(何かが起きる)前に、忍達を「掃除=クズカゴ行き(保護)」にしておく必要があるの「かも」しれない・・と考えたりしています。
マダラが言う「整理」と、オビトが言う「掃除」・・・ちょっと意味が違うのだろうか、等々。
(その2(後半)へ続けます、少々時間を取って雑考したいので、夜か明日になるかもしれません・・・)