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NARUTO-ナルト- 668:紅き春の始まり 今週のジャンプ・ナルト感想 (WJ16号) その1

NARUTO 668:紅き春の始まり その1

そして青葉が芽吹く新たな春へと繋げる時こそが―――
青春の最高潮!! 真紅に燃える時!!!
 
 
イメージ 1

「碧き日の終わり」の次は「紅き春の始まり」。 そして昼虎の次は夕象(せきぞう)でしたか…! (上は碧《青緑色》から紅《真紅》のオーラへの、ただのイメージ)。
 
ガイ、最後の八門「死門」を遂に開いちゃいましたか。 「死門」を開いた者は死ぬと「言われている」らしいですが、それが本当の意味での「死」を指すのか、それとも「新たな始まり」を示すのか…そのあたりはまだ分からない(と思ってます)。
タイトルも「終わり」の次が「始まり」、《古い忍世界が終わり、新しい忍世界が始まる》…永遠の闇夜は終わりを告げ、忍の世界も“暁”を迎え、ようやく新しい朝が始まる。ガイにとっても終わりではなく「新たな始まり」を示すものになるんじゃないだろうか(と漠然と想像中)。
 
「忍は死に様」もカッコいいし、過去の忍達の死に様を否定するつもりはないけれど、だけど…これからの忍達は「生き様」でもあって欲しい。そして生きることにこだわり《生きる事の意味》もぜひ見出してほしいと思うのです(願望)。岸本先生は、そのあたりどう考えておられて、どう描かれるんだろうか…これも今後の楽しみの1つです。
 
しっかし、回想中とはいえ、ここにきての「ガイのパパ」登場は、そりゃあ当然予想して・・・
 
ませんでした! (笑)
 
いやぁガイに「パパ」がいたなんて(いるに決まってるだろーが!)、これがまたいいパパで、ガイ以上に熱く、そして名言の宝庫なパパ。 そしてガイパパの「バカヤロー!!」という愛の鉄拳も、読者の自分まで食らったような感じがしてまして…今までの「思い込み」やら「枠」というリミッターを外してもらったような気分です。
 
しかし、この戦争編ではやたらと回想が入りますが、これも戦争編のテーマの1つが「過去、現在、未来を繋ぐ」事だからでしょうか。そしてこの戦争の(本当の意味での)主戦場は、各忍の「心の内」に在るからなのかな…。
それにしても、物語のほぼラスト部分まで《ダイとガイ父子の物語》がとってあったのは、この二人の生き様が「これからの忍」の在り方を示すモノだったからなのだと…妙に納得してしまいました。
 
 
・《オレが望んでいるんです》

 
(ガイが「死門」を開こうとするのを止めるミナト)…
 
「ガイ! それはダメだよ!!」
「よく考えるんだ!ここに居る
誰もそれを望んではいないよ! 」
 
死門を開くというのは「リスクが高い」なんてもんじゃなく、「命と引き換え」ですからねぇ…ミナトが止めるのも当然ですよね(そう言うミナトもカカシも一度は命を引換えに術を発動させてますが)。だけどガイの返答はいかにも《ガイらしい》…ガイの「生き様」を見せつけられるようなものでした。
 
「いいえ」
オレが望んでいるんです」
 
実に「毅然」とした答え。そして「誰か他の人達に望まれて」決めるのではなく、「オレが」決めた事…ガイという人はしっかりと「オレ(自分)」を持っている。

一般的に今までの忍ってのは、“周囲に望まれるオレ”であろうとして、その「型」に自分を合わせていくモノだったんじゃないだろうか。「望まれているなら」と仕方なく心を押し殺してやってきた任務も多かっただろうから、自分を納得させ、行為を正当化するための『誰かが作ってくれた基準(=掟や勲章)』があったりする。だから「自分を見失っちゃう忍」ってのが多発してた訳で…
でもガイは、忍が忘れかけていた大切な《自分自身の基準》ってものを、ちゃんと持っている。
 
さすがにリーはそれを分かっていて、だからガイを止めようとはせず、代わりに「今が本当にその時なのですか!!?」と確かめるように聞いているんですね。

 
・《ガイの笑顔》
 
「リー そんな顔をするな」
「今度はお前は笑って見ていろ!!」
 
うわっ…このガイ先生、イケメンだなぁ…!!(「言動」が。ヘアスタイルやタイツではなく)。
  
前回667話でガイが覚悟を決めた時の笑顔(顎をひいたニマッとした表情)に触れましたが、そのトドメが例の「ナイスガイポーズ」ですね(キラーンと歯を見せる微笑み)。それも、頑張って無理して決めた笑顔とは違う…本当に自然な笑顔なんですよね、だから決死とはいえ悲壮感が無い…「なぜこんな時にガイは心からの笑顔を見せられるのか」…それがまたガイの不思議でもあったんですが、なるほど…答えは「回想」の中に在りましたか。
 

・《マイト父子物語、その1》

 
「ガイ!このバカヤロ――――!!」
「ぶくふ――!!」 
(と、ガイはパパに殴られぶっ飛ぶ)
 
…って、コレ「ガイ初登場シーン」と同じですね(笑)。
あの時はガイはリーをぶっ飛ばして、リーは「ふぐっ」と同じような凄い顔になってましたっけ。そして「熱い抱擁」…これも同じ(笑)。

だいたい「キャラの初登場シーンは重要」ってのが持論なんですが、ガイの場合は「リーとの熱い師弟関係」に意味があったのかと思ってましたが、そうか…アレは「ガイはパパの意志を大切にしている」って事でもあったんですね。
 
この最初の回想はガイが5歳の時らしいから、まだライバルのカカシには「里の英雄サクモ父さん」がいた頃(サクモが死んだのはカカシ達が7歳の頃)…一方のガイパパ「マイト・ダイ」は万年下忍だったから、当時の二人の「差」はもっとも激しかった頃なんでしょう…。しかし、ガイのパパが大人になってもずっと「下忍どまり」だったとは…これ正直、意外でした。当然、忍であるなら「上忍レベル」だと思い込んでました(あるいはいっそ、忍じゃない一般人であるとか)。
 
「ガイの家系」については、アレコレ妄想したことはあったんです… 体術使いで名前はカタカナで、天然だから…「雲隠れの一族」に近いんじゃないかとか、「獣」として肉体を極めているから「六道仙人の次男の流れを濃く受け継ぐ名門一族」じゃないかとか…メンドくさいことを考えてました(汗) でも、どうやら真実は「忍術も幻術も使えない、特に血統に恵まれたわけでもない、凡庸にして無名な一族」だったらしい(苦笑…妄想お疲れ様でしたと自虐)。 ガイ本人が「他里にも名を知られた上忍」という時点で、名門だとか特別な血統だとか「思い込んで」しまったんですよねぇ…。
だけど「ダイ」の生き様を見たら、「血」だとか「階級」なんてモノにこだわる事のくだらなさを教えてもらった気がしたんです。人間の価値や魅力って、そんなところには無いんだなぁと…今さらのように自戒。
 
でも《万年下忍》への世間の風当たりは強い―――…
 
ダイの熱い教育は、世間からは「虐待」と言われたりタイツ姿は「キモイ」と言われたり(独特なセンスであることは否定しないが)… でももしダイが「上忍」だったら、こんな言われ方はしなかったんじゃないかと思います。「熱いわね」とか「個性的ね」で済んだんじゃないかと…世の中、そんなモンですから。
 
でもダイは何を言われても「応援ありがとォ――――!!」と返しちゃうんですね。たとえ罵声であろうと自分に関心を持ち言葉をくれたことは、ダイにとっちゃ「それもまた応援」に思えたのかな。無関心のほうがよっぽど寂しいですもん(これはちょっと分かる)。
 
そしてダイは「短所も長所になる」というけれど、それも確かにその通り。
自分の長所と短所を書けと言われて困ることがあるけど、だいたいは「同じような事」を書いちゃいますもん…「長所は真面目、短所は柔軟性が無い」とか…大抵は悪いところもよく言い換えられちゃうもんですよね。
つまり物事には両面がある…それを良く受け取るか悪く受け取るかは、受け取る側の「思い込み」に拠ります。
 
それに「短所が分かれば長所が光る」(ガイの場合は忍術幻術がダメだから体術)ってのは一理ありますねぇ。消去法のようにも思えるけど、できる事が1つでも見つかれば、それを一所懸命やろうと思えてくる…これって、穢土天イタチが悟った《己が出来ない事を許す》とか《己が本来できたであろうことをないがしろにしない》という事ですよね。 ガイパパは、その事に早くから気付いていて、ガイに教えていたんだなぁ…立派な父さんです )。だからこそ、ガイは「体術だけ」であることに誇りを持っていて、それをリーにも教えてたんですね。
 
ダイにとって《青春》とは後ろ向きはなく前向きであり、終わらないこと…そして死ぬときこそ青春の最高潮、もっとも燃える時。そしてダイにとって《本当の勝利》とは強い奴に勝つことじゃなく、自分にとって大切なものを守りぬく事…

 
・《勝つ事の意味と、己の基準》

 ごく普通に考えれば、強い相手を倒せば自分は強いと認められる。だから、自分がどの強さを知る事は、己の立ち位置(居場所)を決める事にもなる。
 
…例えば、その例としていつも出すのが鬼鮫なんですが、彼は己の居場所を求めて強い相手と戦い、自分の立ち位置を獲得する…イタチと最初に会った時も「どちらが上か」ポジションを決めようとしてましたよね(で、イタチは自分より上だと知り、その後はずっとイタチには従順だった)。 水月にもそういう傾向があって下剋上がモットーだけはある)、サスケともいきなり「どちらが上か」ポジションを決めようとしてましたよね(最近になって大蛇母さんにそういうポジション発想から解放してもらったばかり)。
 
でも、ダイにとって「勝つ」という事が、どちらが強いかを決めるモノではなく、あくまで「大切なものを守りぬくため」だったのは…彼は既にちゃんと「己」を持っていたからなのかもしれません。他者との比較や他者からの評価ではなく、己の「絶対評価」や「己の基準(自分ルール)」を持っていたからじゃないのかな。
 
そしてガイにとってカカシとの「ライバル勝負」とは、カカシと勝負をして「どちらが上か」を決めるものではなく、「ライバルと競い合って青春する(前向きであり続ける)こと」だったのかもしれないですね(カカシは、667話でそれに気づいた様子でしたが)。 だからガイにとってマダラへの挑戦も「相手が強すぎるから無駄」だとか、そういう問題じゃあないのかもしれません。
 
それにしてもガイを《ギューっと》抱きしめるダイの背中はとっても温かい。
 
濃ゆいのは体毛だけじゃなく愛情も…はんぱない。幼いガイの「パパ」って呼び方からも、何だかなぁ…マイト一家の「ほのぼのとした愛情いっぱいな家庭」の温もりが伝わってくる。

 
・《マイト父子物語、その2》
 
次の回想は、中忍試験の直後ぐらいでしょうか…ガイの前で八門遁甲の門を開き、その技を教えるマイト・ダイ。「万年下忍」のダイは、これを会得するのに「20年かかった」というんだから…恐れいります。普通だったらとっくに諦めてますって(笑)。それでも諦めずに修行を続けたのは、息子に伝えられる「特別な技」を、たとえ「1つだけ」であっても覚えたいという…息子への愛情からでしょうか。
 
「下忍のオレが日々修行し20年かけて会得した唯一の技だ!!!」
「つまりこの技は父として唯一お前に伝える技!!! そしてお前にとって最も特別な技となる!!!」
 
《唯一の技》とか《特別な技》とか…この言葉について色々思う事があるのですが、それは感想その2で後述するとします。そして…出ましたね、お得意の「自分ルール」。
 
「この技を使用するには一つの厳しい条件をつける! 自分ルールだ!!」
 
《自分ルール》…ガイが良く口にする《自分ルール》とは、例えばカカシとのライバル勝負で負けた時に己に課す無茶な修行(枷)だったりしますが、それが相当無茶だったりするもんで「誰も頼んでないし、おまけに誰も見張ってるわけじゃないのに…」と呆れられる事が多い。 
 でもガイは「望まれたからじゃなくって(名誉や恩賞のためじゃなく)」自分が望んでやるのだし、そして「誰かが見張ってるからではなく(掟やルールで罰せられるからじゃなく)」己の為にやる。 あくまで自分自身の道が基準…それが「自分ルール」。 
 
 つまり、マイト・ダイはガイがこの禁術を使う時には、しっかりと「己の意志と判断で」で己の大切なものを守る時にだけ使うように託したんですね。…だから「誰に望まれてするのか」が問題ではなく、ただ「本当に今がその時なのか」という事だけが問題なんですね。
 
「己の基準」、他者に決めてもらうのではなく自分自身が決める基準。 
 
忍にとって何が一番大切な事なのか、自分を見失わない為にはどうしたらいいのか…たとえ「下忍」であっても、たとえ教えた技は「1つだけ」であっても、ダイは本当に大切な事をガイに伝えてくれてたんですね(出世街道から外れたコースに居たからこそ、ダイは忍世界の矛盾やら欠点を見つめることが出来たのかなぁ)。
 
(そして、ガイ、ゲンマ、エビスのスリーマンセルが当時の「霧隠れの忍刀七人衆」に出会ってしまった時のエピソード)。
 
まだ幼い彼らが3人だけで危険な場所に居るなんて、これも第三次忍界大戦の頃(神無毘橋の戦いの前後頃)なのでしょうか、ミナト班だけじゃなく他の班(ガイの先生は誰?)も子供達だけで危険な任務をこなしてたんですね。
で…当時の「霧隠れの忍刀七人衆」のメンバーなんですが、最強とも言われる「鈍刀・兜割」の通草野餌人(あけびのじにん)、「長刀・縫い針」の栗霰串丸(くりあられくしまる)、「大刀・鮫肌」の西瓜山河豚鬼(すいかざんふぐき)…あとは鬼灯一族っぽい忍が雷刀を持っていたり、桃地再不斬そっくりな忍(父さんかな?)が首斬り包丁を持っていたり…
…という事は、当時の霧隠れは「血霧時代の“マダラさん”が牛耳ってた頃」であり、鬼鮫はまだ「マダラさんに接触する前」で河豚鬼の下で「同胞殺し任務」に就いていた頃なのでしょう。
 
「他里のガキにまで知られちまってるとは…オレ達も有名になったもんだ」
(再不斬父?)
 
血霧時代の七人衆だったら、精神的にかなりハードなお仕事をさせられていたでしょうから、それこそ七人衆として「有名」になって世間に認めてもらったり、あるいは人を選ぶ「刀」に認めてもらうという「名誉」でもないと、とてもじゃないが「やってらんない」モノがあったんじゃないのかなぁ。
 
(ガイ達を助けに来たダイに、ガイは「“下忍の父さん”がどうしてこんなとこに」とか「相手は“上忍で(有名な)”七人衆」と言うんですが(パパから父さんになってる)、まったく動じないダイ)
 
「七人衆」として国際的に有名な「上忍達」と…「万年下忍の無名なガイパパ」。
あまりにも釣り合わない強敵なのに、動じないダイの「本当の強さ」。
…それは、本当の勝利とは「相手に勝つことではなく己の大切なものを守り抜く」ことだと知ってたからなんですね。だから相手が「上忍」であろうと「有名」であろうと、ダイには関係ない。
  
「どうにか間に合った!!」
 
ダイが息子達のピンチに「間に合った」のは、息子達の危機を察知して(ガイ並みに鋭いのかな)、このままじゃ殺される!(?)と森の中を急いで飛ばしてきたからなんだろうけど…でも「どうにか間に合った」の一言には、「八門遁甲を会得するのに20年もかかったけど、肝心なこの時に間に合ってよかった」という意味でもあったんじゃないだろうか。
 
ダイの「20年修行」…これこそ超鈍行の「遠回り」な道のりで、人より時間をかけてようやく辿り着いたわけだけど、それでも「肝心な時にはちゃんと間に合った」。本当のヒーローとは、たとえ有名じゃなくっても、たとえどんなに遅れてきたとしても、ちゃんと肝心な時には「間に合う」ものなのかもしれない。
 
「オレには…… 死門…“八門遁甲の陣”がある!」
「自分ルールだ…」
 
イケメンすぎます、ダイ…(言動が)。背中越しにそっと微笑むダイは、本当の『ヒーロー』に見えます。たとえ万年下忍であろうが、あり得ないタイツであろうが、そんなことは関係ない。

万年下忍の彼は、当然ながら「中忍ベスト」を持ってない。そのかわり、彼が身につけてるのは「古臭いヒーローみたいに首に巻きつけたスカーフ」…これはガイと一緒に観ていた(と思われる)『怪獣総進撃』の主人公スタイルなんじゃないだろうか(と推測…60巻で尾獣達を見たガイが思わず「怪獣総進撃だな」と言って、子供時代にそういう番組を見てなかったっぽいカカシは「?」となっていた)。 
ダイには「中忍ベスト」という「他者から認められた証」はない。 だけど「スカーフ」という「己の誇りの証」はあった(ちょっとカッコ悪いけど)。幼い頃のガイには、それが「ちょっと恥ずかしい」とか「強がり」に思えた事もあっただろうけど、ダイはその「ヒーローのスカーフ」がけっして伊達じゃない事を息子の前で見事に証明してみせましたね…最高の「笑顔」で。
 
(おそらくこの時、ダイは死門を開いて八門遁甲の陣を見せたのだと思いますが…)
 
ガイが「忍は死に様」と言っていたのも、そういう事があったのか…オヤジさんの「死に様」を見ていたからだったんですね。 
そして、ガイが「超有名な元霧隠れ忍刀七人衆・干柿鬼鮫の名を知らなかったのは、物忘れが激しいとか天然だからではなく、ガイにとって「有名」とか「上忍」なんていうくだらないブランド名や保証書は無意味だったからなんですね。 
 
通俗的な価値観はガイの前では脆くも崩れる…ガイはそんなところで相手を判断したりしない。「己の大切なものを守リ抜く」ことが出来るかどうかで判断する…だから鬼鮫が最後に「大切なものを守り抜いた時」、尊敬をこめてやっと名前を覚えたんですねぇ。
 
ガイとダイが持ち続けた「己の価値観と自分ルール」…人間にとって何が大切な事なのか、何が一番肝心で忘れちゃいけないモノなのか…彼ら親子に「真実を見失わない」ことを教えられた気がします。
 
ナルトやサスケのほかにも、こんなに“偉大なる下忍”が居たんだなぁ…
 
 
 
 
 
(その2、ガイの八門遁甲の陣へ続けます…今夜アップするつもりです)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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