ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

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自来也の「やりきれん」想いのこと (自来也が綱手の胸に見たもの)

自来也の「やりきれん」想いのこと (自来也綱手の胸に見たもの)

 ちょいと遅くなってしまいましたが、今日は11月11日・・木ノ葉の“三忍”、自来也の誕生日。 

 かなり前に書いた「自来也綱手」という記事を読み返して思い出したのですが(2009年の記事)…自来也にはイチャイチャシリーズ4作目の企画があったんですよね。 たしかに366話で「これで小説の続編も早く出せるってもんだ」自来也も言っている… 
 
 イチャイチャシリーズは、自来也私小説的な「歩いてきた道」でもあったようだけど…

シリーズ1作目は「イチャイチャパラダイス」、表紙の絵は男女が追いかけっこ。 2作目は「イチャイチャバイオレンス」、表紙は、喧嘩してて…
3作目は「イチャイチャタクティクス」、表紙は「考える人」ポーズ。 
そして…
幻の4作目は「イチャイチャパラダイス4」、表紙は「結婚式」 
(岸本先生の絵による ⇒2009年の記事中の真参照※)。 

 つまり、自来也の歩くはずの道「続編」は、めでたく「結婚」のハズでした。 だけど、それが書かれることはついに無かった… 

 自来也綱手の関係というと…42巻の、自来也の人生回想で「綱手にフラれ続け…」と殴り飛ばされている絵を思い出します。 ただフラれただけじゃない…豪快にふっ飛ばされてちゃっているんですよね。  綱手にふっ飛ばされたのは「女湯を覗いた時」だけかと思っていましたが、フラれた時にも飛ばされていた… 
  ストレートに「付き合え」と言って「あり得ないな…断る!」とバッサリ断られた事もあったみたいだけど、冗談っぽくからかうような言い方をして綱手を「怒らせた」こともあったんじゃないだろうか。

  自来也って、綱手「今や五十のババア」とか「本当は50代のババァだからの」と平然と言っちゃうし、子供の頃から「ムネペッタンコのまな板ツナデ」なぁんてからかっていた。 「付き合え」と言うにしても、「お前みたいなババァは…」とか「胸ネタ」とか余計な一言で綱手を怒らせて、フッ飛ばされる事もあったのかもしれない…(あくまで推測)。
 だけど綱手が「怒る」のは、彼女の元気の証といいましょうか…彼女のパワフルな魅力が全開になる時でもありますから、自来也はそういう彼女を見ていたかったんじゃないのかな… 過去を悲しんでいないで、本来の「元気でパワフルな綱手」でいて欲しくて…あえて「綱手を怒らせるような告白」をした事もあったんじゃないだろうか。 

 自来也は、綱手《死に別れた者達への想いを抱え込んできたこと》をずっと心配し、気遣っていたはずで… 366話には、そんな自来也の想いが垣間見られるセリフがあります。
 
「死に別れた者たちへの想いが その大きな胸に詰まっとるかと思うと やりきれんのォ…」  

 いまだに癒されることがない綱手の悲しみ。だけど、それを知っていてもどうにもしてやれない自分自身へのもどかしさ。

《やりきれんのォ》は、自来也綱手への想いそのものじゃないだろうか。どうにかしてやりたいのに何もできない…。 自来也綱手の胸を「108センチ」と見ていたのは、ただのエロ心だけじゃなく…抱える悲しみの大きさを想っていたんですね(ま、エロ要素も多そうだけど…)

 第366話の中で「大蛇丸が死んだらしい」という話題になって、綱手「昔、よく三人で三代目のジジイに…」と懐かしそうに昔話を始めるのですが… すると自来也綱手の話を遮ぎって「時代はどんどん流れとる」「しんみりするのはちと違うのォ」と言いだすのです。

 綱手が「過去を懐かしむ」ほうに向かいそうになるのを止めるように…そして「ワシらの役目は次の世代のために手本となり手助けをすること そのためなら笑って命を懸ける」と網手に言い聞かせているんですね。 「過ぎ去った懐かしい過去」よりも「今」そして「これから先」を考えて生きるべきなのだと…   
 それは「もし自分が生きて帰れなかったら」のことを考えての言葉だったんじゃないのかな…。

 自来也が今、先に逝ってしまったとしたら…彼女はさらに《死に別れた者達への想い》を大きな胸に抱えてしまうことになる。  縄樹を失った時の綱手の涙、ダンを失った時の涙を見てきた自来也にとって、それが一番心残りで心配な事だったんじゃないかと思うんです。 だから、自来也は「昔話ではなく、これから先を見るように」と綱手に言い残しておきたかったんじゃないかな…とも思います。

 雨隠れへの潜入ミッションに「命を懸ける」覚悟をしていた自来也は、実に念入りに「準備」をしていました。 敵地に赴くにあたってガマ寅に「ナルトに入るように」と命じたり…カカシに自分が持っている情報をすべて伝えたり、イビキに作戦を伝えていたり、「自分亡き後」のことまで考えて引き際の準備をしていたんです。もう念には念、完璧といえるぐらいに…
 大蛇丸が死んで(と当時は考えられていた)もう大蛇丸を追う必要もなくなって、ナルトに教えるべきことは教え、あとは歴代火影のように「里と里の人々を守って笑って命を懸ける」… その為の周到な準備の中で、自来也が最も気にかけていたのが「綱手」のことだったんじゃないかと思うんですよね。

 自来也がいかに「しんみりしがちな綱手」の今後を心配していたか… 出発前の最後に交わされた会話(367話)の中からも、自来也の想いがひしひしと伝わってきます。
 
 綱手「生きて帰ってこい…」「お前にまで死なれたら」としんみりし始めると、自来也「泣いてくれるのか?嬉しーのォ でもダンの時ほどじゃねーだろーのォ ワハハ」とからかって、なんとか綱手のしんみり気分を吹っ切ろうとするのです。 それは「わざとからかって綱手を元気にさせようとする」お決まりのパターンだったのかもしれませんが、この時ばかりは綱手の反応が違った… 「馬鹿が…」と言っただけでしんみりしたままの綱手に、「さらにもう一発」とばかりに自来也はこんなことを言い始める…

「じゃあお得意の賭けといこう・・お前はワシの死ぬほうに賭けろ
お前の賭けは必ずハズれるからのォ そん代わりワシが生きて帰ってきた時は・・」

「なっ…」
 
 いつもだったらここで「ふざけるなァ(殴)」となったかもしれないけれど、綱手は咄嗟に言葉が出ませんでした。  綱手の「いつもと違う反応」を見て、自来也「ゲハハ 冗談だ冗談! お前には感謝してる」と豪快に笑い飛ばしてしまう…(とにかく、自来也は…綱手が「しんみり」しないようにあれこれと語っていく)。

そして、

「笑い話にするぐらいの度量がなけりゃ男は務まらん」
「ネタにするぐらいじゃないとの」と言うのです。

 それは、辛い過去でさえもネタにして「笑い飛ばす」ぐらいじゃないと火影は務まらん…ということでもあるのかな綱手の場合は「ふっ飛ばす」かな)。 そして「もし自分が生きて帰ってこなくても、笑い話やネタにするぐらいでいてくれ」という自来也の想いもあったんじゃないだろうか。

  穏やかに微笑みながら、次世代に想いを託しての自来也の最期…それは歴代の火影たちと同じ「あっぱれ」な最期でした。 忍は死に様…だけど生き様でもある。

 最愛の人がこれ以上悲しみで胸をいっぱいにすることが無いようにと…最後まで心配し気遣った…それは《あっぱれ、あっぱれ》なカッコイイ生き様でもあったんじゃないかと私は思っています。




☆長駄文、読んでくださって感謝…


自来也、加瑠羅、そして11月11日生まれの皆さん、誕生日おめでとう…


(ナルト好きブログ! 2015/11/11)