ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

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大蛇丸と「三忍」という言葉 ・・ナルト外伝「満ちた月が照らす道」感想に加えて

大蛇丸と「三忍」という言葉 (ナルト外伝「満ちた月が照らす道」感想に加えて)

 この夏、ライブ・スぺクタル「NARUTO-ナルト-」が再演されるみたいですね。 前回の公演はライブビューイングで観たのですが、元宝塚の悠未ひろさん演じる「大蛇丸」が、ンもう、それはそれは美しくて・・・・(もちろん歌声も素晴らしいし)。  今回の外伝「満ちた月が照らす道」の大蛇丸は、そのイメージにかなり近い感じでした。

 さて・・・外伝の感想にちょっと付け加えです。 今回の外伝を読んで「なんとなく」心に残った部分があったんですが、それは・・

「前のアナタなら私が伝説の三忍と知ってる 私がその程度の忍じゃない事も・・」

・・という大蛇丸のセリフ。 

 さりげなく大蛇丸“三忍”という言葉を使っているところ・・それが、なんでか心に残ったんです。 それで、大蛇丸にとって“三忍”って何なんだろうと今更のように気になってきた・・・

 “三忍”とは、ご承知の通り 「雨隠れの半蔵から贈られた名誉の呼称」ですが、大蛇丸にとってのそれは「強さを示す名誉の称号」でしかないのか、それとも・・・


・「三忍」といえば・・・

 木ノ葉崩し直後のいわゆる「三竦みの闘い」で、伝説の三忍自来也大蛇丸綱手は、「蝦蟇、蟒蛇(うわばみ)、蛞蝓」を口寄せし、大蛇丸への訣別を宣言します。


大蛇丸 おめーは悪に染まり過ぎた・・ もう同志じゃねェのォ」 
自来也

「同志?」 「クク・・・心寒い」  (大蛇丸

「三忍と呼ばれるのも今日限りだ!」  (綱手

(170話から)


 あの時、大蛇丸は「友の想い」をよそに鼻で笑うような態度をとっていたけど、本当はこんなことを言われて、どう想っていたのだろう・・? 



大蛇丸と《同志》という言葉

 自来也《同志じゃねェのォ》と言われた大蛇丸は、上のように「同志?」と聞き返して「心寒い」と嘲笑っているんですよね。 大蛇丸がこんな「やや呆れたような態度」をとったのは、以前こんなことがあったからじゃないかと思うんです。 
十数年前、大蛇丸を止めようとした自来也との間でこんなやりとりがあった・・・

 
「何でだ・・何でお前が・・」
「オレ達は“三忍”と呼ばれ・・ガキの頃からの同志じゃなかったのか!?」

「ククク・・どこまでもめでたい奴ね 自来也
「何をするにも考えが足りない そんなんだから私がやっていた事にも気が付かないのよ・・」

「もう考え直してはくれないのか・・大蛇丸・・」

「笑止・・ バカにも程がある」

(237話より)


 大蛇丸はバッサリ、自来也を「めでたい奴」と切り捨てている。

 自来也は、大蛇丸とは子供の時からずーっと「仲間」であり、「志を同じくする同志」であると思っていて、それは「変わらない」と信じていた。 信じたかった、信じようとしていた・・ なのに、そんな自来也の想いを大蛇丸は切り捨てたのです。

 あれから十数年の時を経て二人は再会し、相変わらず「同志」と言ってきた自来也に、大蛇丸は《同志?・・心寒い》と呆れたように返したうえ、さらに・・闘いが終わって立ち去る時にも、

「木ノ葉は必ず潰してあげるわ」
「その時また会えるといいわね 我が同志
「クク・・・綱手 自来也

 と、いやらしく返しているのです(171話)。

 自来也達がいまだに《同志》にこだわっている事に よほど嫌悪を感じたのか、ここでも皮肉たっぷりに「同志」なんて言ってるんですよね。 「木ノ葉を潰す」と言ってる人物のことを、アナタ達はまだ「同志」と呼ぶのかしら・・とからかうように。 

 大蛇丸は、《同志》という言葉は、バッサリと切り捨てる。 だけど・・



大蛇丸と《三忍》

 一方で、綱手に言われた《三忍と呼ばれるのも今日限り》のほうですが、これには大蛇丸は無反応だった・・・というか「返答していない」んです。 正確には「返事をする間もなく戦闘に突入した」感じなのですが、いずれにせよ《三忍》という言葉に対する大蛇丸の「返事」はありませんでした。

 だけど、あれだけ「同志」という言葉には「あからさまな嫌悪感」を示した大蛇丸が、「三忍」の言葉を拒絶している描写はいっさい無いのです。 それどころか、彼は何度も「三忍」という言葉を使っている。 

 綱手にあの言葉を言われるちょっと前にも、「私を含め三忍のメンバー」と言っているし(166話で)、言われたすぐ後にも(さすがに三忍二人相手はきついわね・・)なんて考えているんですよね(170話にて)。 何度も「三忍」を使っているし、しかもその使い方が《私を含め三忍のメンバー》とか《三忍二人》(=残りの一人は私)といった使い方で、《自分も三忍のメンバーの一人》という意識が満々なのです(それが「意識的」だったのか「無意識的」だったのかは分からないんですがね・・)。 

 で・・・これって、サイが「ボクも第七班」「ボクは第七班の一人」と言ってたのと似ているような気がするんです。 大蛇丸「私は三忍の一人」というような言葉を繰り返すのは、本当は「強い忍と認められている事を自慢したかった」というよりも、「自分の本当の心の居場所を確認したかった」からじゃないだろうか・・?

 「同志」という言葉は未練なく捨てても、大蛇丸は「三忍」という言葉だけは捨てなかった。 たとえ里を裏切るような行為をしても、闘っている間でさえも「三忍」という言葉を使い続けたのは、「己の決意」が揺らぎそうになる自分を強く奮い立たせるためでもあったんじゃないだろうか・・・「私は三忍の一人」と思うことが、大蛇丸の心の支えになっていたんじゃないだろうか、と私は思います。

 では《同志じゃないけど三忍である》とは、どういうことだってばよ・・ということが何となくわかったのは66巻、第四次忍界大戦の戦場にやってきて綱手を助けた大蛇丸が、こんなことを言っていたからです。


・《同志じゃない》けど《三忍》

「私達三忍がそうだったように 物事はそう都合よくいかないものよ」
「一枚岩じゃいられない・・・どこかに歪みができるものでしょ」

(635話より)


 ここでも大蛇丸《私達三忍》って綱手に言ってるんですね。 別に「私たちがそうだったように・・」でも会話は十分成立するのに、グループ名《三忍》をちゃんと使っているんです前に会った時には「三忍と呼ばれるのも今日限り」って言われちゃったけどね)。 その一方で「一枚岩じゃいられない」とも言っている・・・
 「一枚岩」、歪みや裂け目のない同じ考えを持った者同士、つまり《同志》ってこと・・「同志じゃいられない」ともハッキリ言っているんです。

 たしかに、子供の頃は猿飛先生の下で一緒に忍を目指して、同じような夢を持った「同志」だったのかもしれない。 だけど、経験を積んで違うことを学んで、人は次第に考え方も変わっていく・・・その「志」だって、途中で変わっていくこともある。 いつまでも全員が「同志」ではいられない(いる必要もない)と大蛇丸は言うのです。

 だけど、それでも「三忍」という“つながり”だけは、大蛇丸の中でもけして変わることは無かったんですね。 

 大蛇丸が「三忍」という言葉を捨てられなかった「本当の理由」に気づいたのは、いつだったんだろう・・・ イザナミを見て「本当の(心の)居場所が人を強くする」ことを悟った時かもしれない(と私は思います)。  「三忍の一人」であるという意識、その“捨てられないつながり”、その「心の居場所」に今まで支えられてきたのだと・・大蛇丸は気づいたんじゃないだろうか。

 19巻の三竦みの時には、綱手《三忍と呼ばれるのも今日限り》に何も返答しなかったけど・・・・《あの日限り》ではなく、それは今もずっと続いているのだと・・・《私達三忍》という言葉を使うことで、大蛇丸は「答えた」んじゃないかとも思います。

 《形あるものはいずれ朽ちる》と言っていた大蛇丸だけど、“三忍”という言葉だけは《いつまでも朽ちることのない大切なもの》だったのかもしれない・・・今回の外伝に出てきた伝説の三忍という“さりげなく誇らしげな”大蛇丸の言葉に、そんなことをちょっと思ったりしたのでした・・


☆長駄文、読んでくださって感謝・・・



☆岸本先生は、どんな想いで外伝2つを描いて、作品を後継者に送り出したんだろう・・・今回の外伝にも、先生の「NARUTO-ナルト-(そしてBORUTO-ボルト‐)」という“子供への想い”が、いっぱい詰まってるんだろうなぁ。

☆岸本先生、長期連載&外伝を本当にありがとうございました。こんなに惚れた漫画は初めてでした・・・ 
 ・・そして、バトンを受け取った池本先生・・頑張ってください!




(ナルト好きブログ! 2016/04/30)















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