ナルト好きブログ!(NARUTO考察・雑考)

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NARUTOキャラ考察 大蛇丸の《ROAD TO 父ちゃん(母ちゃん?)》

大蛇丸の《ROAD  TO 父ちゃん(母ちゃん?)》 

《ああ … 私の未来はこの子の中に在る…》

  これは第27巻(第1部ラスト)、  サスケを見て《ゾクゾク》と興奮している大蛇丸のセリフ。

   第一部ラストを飾る「各キャラクターの締め台詞」は第2部の予言、各キャラの未来を言い当てている・・という話は度々取り上げてきましたが、大蛇丸のこのセリフも見事に「予言」になっています。  ただし、その言葉の意味するものは、大蛇丸が考えていたモノとは大きく違っていた…
 
  さらに、大蛇丸の場合は後日談として「子供達のパパ(ママ)になる」という“まさか”なオマケ付き。  この前のBORUTO感想では、最終的にサスケを信じて「託す」師匠となった大蛇丸の話をしたばかりだけど、大蛇丸はその後 「親」にまでなった…   この展開、私にとってはNARUTO史上最大の《まさか》。
でも、よく考えてみりゃ「大蛇丸が親になる」という展開は さほど《まさか》でもなかったような…     ごく自然な展開だったと思えるようになってきた。
 
・・ということで、今回は昨年の外伝「満ちた月が照らす道」で“親”としての姿を見せてくれた「大蛇丸」について少々。 大蛇丸は「父ちゃんズ」に入れるべきか「母ちゃんズ」に入れるべきか、えっと・・・どっち???
 
 
・《大蛇丸が成そうとしたこと》
 
  さて、大蛇丸といえば 昔から大勢の子供達を「実験体」として集めてましたよね。  上手いこと言って騙しては連れ込んで…   特に「美しい種」、優れた血統の子を選りすぐっては集めていた。
 
  で、その「集め方」なんですが、力尽くで連行してきたというより「スカウト」してきた例が多そうなんですよね。 まぁ…子供達は「騙しやすい」って事なのかな…  上手く誘って自発的に付いて来るように仕向けていた感がある。
 
  重吾は「自分の意志で大蛇丸のところに来た」という話だったけど、それだって上手いこと言って仕向けたんだろうし、君麻呂にも崇拝されるような何かを言って誘ったんだろうし… サスケだって、自分から来るようにうまく仕向けられてましたもんね。   ま、ズルい事に変わりはないんだけど、とにかく大蛇丸は「心に傷を負った子供達」の心を掴むのがやたらと上手い(そのテクニック例については※過去記事「大蛇丸の言葉のテクニック…とやらと、とか」にて)。
 
  つまり、大蛇丸はそういった子供の気持ちを よ~く分かっていた。  大蛇丸自身、両親が殺されたという辛い過去を背負っているせいなのか、《里という組織や大人の都合によって犠牲になった子供達》の気持ちがよく分かる(関連記事として※大蛇丸の余計なひとこと)。
 
  大人の都合で傷つくのは、いつも子供。  そして大人達をそうさせたのは、この忍の世界。  腐った土壌では、種も育たない…    忍世界の現状や大人達への怒り憎しみが大蛇丸を研究に向かわせ、「大きな風車を回す」事へと駆り立てていたんじゃないのかな。   革命を起こして土壌を変え、滅びの運命をたどる「美しい種」を保護し「さらに美しく強い種」を開発する…   
 
《改良された美しい土壌に、改良された美しい種を蒔く》…それが大蛇丸の理想、夢だったのかも。
 
 
大蛇丸にとっての《まさか》
 
  しかし、その大蛇丸にも大きな転機が訪れます。   それは62巻、サスケによってアンコの中から出され再々登場してきた時…     あの時、大蛇丸の考えを大きく変えたのは「イタチの言葉やカブトの姿」、そして「かつての実験体(子供達)の成長」でした。  
 
あの時、大蛇丸はこんな事を言ってましたっけ…《まさか君達の方から私を復活させてくれるとはね》って。  それまでは、「まさか」とは言いながら 実は計画通り仕向けていた事が多かったんだろうけど、この時は本当に《まさか》だったのだと思います。   
 
  かつて、あれだけ大蛇丸を警戒し恐れていたサスケが、自分からヤブをつついて大蛇丸を出してきたんだから…   それは 戦闘能力面での自信以上に、精神的に独立し「自分」を見失わない自信があったからですよね。 その姿に、大蛇丸は《まさか》と驚いた…      そして、確かめるように「アナタのその若い体が欲しい」とか言ってみたけど、サスケは全然動じなかった。
  
  毅然と「全てを知り自分で考え答えを出し  己の意志と眼で成すべきことを見据えたい」と答えたサスケに…
 
(イタチにあやつられ…私やトビに利用されていた時とはもう違うようね… )
 
  と確信し、《…なぜか不思議な感覚…》と「今までにないような不思議な気持ち」を感じているんです。サスケの変貌は、ゾクゾクするほど新鮮な驚きだったんじゃないだろうか。
 
   かつては「理想的な形に造り直してやり、理想的な道に導いてやるしかない」と思っていたひよっこひよっこ達が…今では自分の翼で翔びたとうとしている。   そんな子供達の姿はすごく眩しく美しく見えたんじゃないのかな…    そして、その眩しさ・美しさの正体は「血統や能力」ではなく、《成長》である事にも 気付いたんじゃないかと思います。
 
 わざわざ大きな風車を回して土地を整え、そこに優秀な改良種を蒔いてやらなくても・・・荒れた土地でも、種は自力で思いがけない「成長」を見せてくれる。  
 
 
昔は自らが風となり風車を回したいと思ってたわ   でも今はいつ吹くかも分からない他の風を待つ楽しさも知れた…」

「だからこそサスケくんの行く末を見てみたいのかもね」(66巻より)
 
  「待つ楽しさも知れた」とか言ってますが、本来 大蛇丸は短気でせっかちな性格だと思うんです(以前、カブトに「欲しいものを待ちわびる時は長く感じるものです」となだめられたり、《ガマンよ、我慢》と自分に言い聞かせている場面があったので) 。
  だけど、大蛇丸をゾクゾクさせた「不思議な感覚」が、成長を見届ける面白さを教えてくれた。  ここから、大蛇丸が「親」になっていく第一歩が始まったような気がします。
 
 
・《実験体と実験場》
 
  そして、大蛇丸のそういった「気持ちの変化」を伝えてくれるのが、《実験体》《実験場》の言葉。
 
   人間、そしてこの世界への愛情・愛着を一切感じられない「実験体」や「実験場」の言葉なんだけど、65巻では  サスケや香燐の前で堂々と「かつての良質な実験体」なんて言ってるんですよね。  面と向かって彼等にそんな事が言えるようになったって事は…「そんな扱いをしていた事もあったわね」と思えるようになったんじゃないのかな…?   なんと言うか…  大蛇丸の中で「実験体」という言葉の定義そのものが書き換えられた気がするんです。  もはや「実験体」とは、ゾクゾクさせてくれる眩しく愛しい存在。  様々な可能性を秘めた、逞しい種たち。  その「意味の書き換え」を自分で確かめるように、感慨を持って「実験体」と口にしたように思えるんです。
 
  さらに68巻では、この世界の事を《私の大切なこの大きな実験場》と表現しているんですよね。  「大きな」には「無限の可能性を秘めていて ゾクゾクさせてくれる」のニュアンスがあるし、「大切な」まで付けている。それに、かつては身勝手な独占意識からだった「私の~」の表現も、ここでは「愛しい」と同義語に感じられる…
 
  未熟なひよっこ達は、無限の「成長」の可能性を秘めた《愛すべき実験体さん達》。 そして、問題だらけのこの世界も、無限の「成長」の可能性を秘めた《愛すべき実験場》。  アンコの中から出てきて見た世界は、すべてが新鮮だった…  いや、 大蛇丸の視点、感じ方が変わったんですよね。  
 
  そして… これまで大蛇丸を駆り立ててきたのは「知りたい願望」や「現状への憎悪」だけではなく、それ以上に「子供達への愛情、この世界への愛情」であったことにも「気づいちゃった」んじゃないだろうか…?   それが自分の《本当の想い》であることにも。
 さらに、その「愛情」こそ 子供達の成長に欠かせないという事も、イタチがサスケに「愛情」を伝えたのを見て 思い知ったはず。
 
 外伝「満ちた月が照らす道」を見ると、その後「親」になった大蛇丸の「愛情表現」は 些か大げさなんですよね。 やたらと「愛」を言葉で伝えて「成長」を促そうとする。まるで、肥しを与えるようにね…   
「親」としての大蛇丸の奮闘っぷりはツッコミどころだらけ。  だけど、そのズレ加減もまた 微笑ましかったりする。 あの短気な大蛇丸が、根気よくミツキに付き合ったりしていた…      子育てこそ「忍耐」。「待つ楽しさを知った」大蛇丸も、子育てを通して 成長したのかな…?  
 
 
・《敵キャラとして》
 
   …ということで、 《大蛇丸、親になる》という展開は 自然な流れだったとも考えられるんですが、でもコレ「敵キャラ」の終わり方としては、どうなんだろう?
  一時は「ラスボス候補」でもあった大蛇丸の、あまりに意外な「ほっこり」ラスト…    映画でも「オチ」になったぐらいだから、確かに「意外」なものではあったと思う(少なくとも私には意外だった)。  だけど、これは「敵キャラの終わり方」としても、実に自然なカタチだったのです。   以前の大蛇丸の考察(雑考)記事では、「敵キャラとしての大蛇丸は何となく中途半端だったなぁ」なんて書いてたんですが、とんでもない…  「敵キャラ」としての大蛇丸の物語も、見事に完結しています。
 
  まず、大蛇丸に限らず 後半の「ボス級敵キャラ」の傾向として…   彼らは往々にして「おせっかい」。 彼らの「おせっかい」は、心配性で過保護な親心的なもので、子供達の成長の芽を摘んでしまうモノ。  自来也の「崖から突き落としたり、ほったらかしで自分でやらせる」教育とは全然違うんですよね。  それでも「自分の足で歩き出そうとする子供達」をみて…   やがて敵キャラ(親)は「見守ることの大切さ」に気づいていく。   NARUTOにおける闘いには《敵=親、主人公側=子供》という図式が出来上がっていたんですね。  
 
  で…そういう意味でも、大蛇丸もしっかり「親側」パターンに はまっています。 全部お膳立てして自分色に染めようとしていたのが、最後には子供達に意志を託して見守る道を選んだのだから。
 
  さらに《最終的に自分の本当の想いを引きずり出される》という、再不斬以来の敵キャラお決まりパターンにも ちゃんとはまっている。子供への愛情、この世界への愛情という「本当の気持ちを引きずり出されちゃった」訳ですから…
 
   そしてもう1つ、《最後には自分の願いを叶えて終わる》という敵キャラパターンにも はまっています。   「本当は火影になりたかった」オビトは、先を歩いてナルトに火影の想いを託したし… 「本当は先を見たかった」マダラは、復活して先を見届けることができた。 で…「本当は親になりたかった」大蛇丸は、ミツキの親になった。   ちょっと異色なのは「生き延びた」点だけど、それは「我不滅」とか「不老不死」にこだわった大蛇丸らしいと言えるのかも。
   
  「本当の自分を取り戻し、親のあるべき姿を知り、そして本当の親になる」という 見事な大蛇丸物語のエンディング。
 
 つまり……
 
   大蛇丸の長い長い壮大な物語は、遠回りしながらやっと辿り着いた《ROAD  TO 父ちゃん(母ちゃん)》だったのだ…と思う。
 
 
  《ああ … 私の未来はこの子の中に在る…》

 
   第一部ラストの言葉通り、大蛇丸をゾクゾクさせるほどの未来は、確かに「この子、この子たち」の中に在った。
 
 
 
 
☆長駄文、読んでくださって感謝。
 


☆本年もゆるゆるペースで気まぐれにNARUTO雑考記事あげていくと思うので、ナルト好きの皆様、どうぞよろしくお願いいたします

 
 
 
 
 
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(ナルト好きブログ! 2017/1/12  )